第8話「遅さの価値」
第八話 遅さの価値
月曜日。
教室の朝は、いつも通りだった。
「宿題やった?」
「今日体育あるよな」
「マジでだるい」
雑談が流れる。
笑い声が混じる。
何も変わらない。
だが――
森岡悠真の中だけが違っていた。
(変える)
昨日、決めた。
戦い方を。
速さではなく。
再現性を。
安定を。
勝てる形を。
そのために。
今までの自分を一度壊す。
そう決めた。
1時間目。
算数。
小テスト。
五問。
制限時間五分。
「始め」
一斉にペンが走る。
悠真も問題を見る。
一問目。
『定価800円の品物を20%引きで売るときの価格を求めよ』
簡単な問題。
今までなら一秒だった。
800×0.8。
終わり。
だが。
悠真は止まる。
(読む)
もう一度読む。
条件に線を引く。
(基準は何だ)
孔明の声。
「1だ」
悠真は書く。
1−0.2=0.8
800×0.8
640
答えを書く。
確認する。
もう一度見る。
(合ってる)
だが。
(遅い)
周囲のペンの音が速い。
焦りが生まれる。
心拍が上がる。
(いいのか、これ)
だが止めない。
二問目。
『ある数の25%が40のとき、その数を求めよ』
今までなら、
40÷0.25
終わりだった。
だが今回は違う。
0.25=1/4
全体は40×4
160
確認。
ズレはない。
(大丈夫だ)
三問目。
比の問題。
これも止まる。
式を書く。
途中式を書く。
確認する。
(遅い)
だが。
崩れない。
四問目に入った時。
残り時間が少ないことに気づく。
焦る。
だが。
止まる。
(読む)
条件を二回読む。
その瞬間。
「終了」
ペンを置く。
教室が静まる。
(……終わってない)
初めてだった。
時間内に解き切れなかったのは。
返却。
答案が戻ってくる。
丸。
丸。
丸。
丸。
未回答。
悠真は答案を見つめた。
今までなら。
五問全部解いていた。
そして二問ミスしていた。
今日は。
四問しか解けていない。
だがノーミスだった。
佐伯拓真が答案を覗き込む。
「お前どうした?」
「何が」
「遅くね?」
軽い口調だった。
だが刺さる。
「前の方が良くね?」
悠真は言葉に詰まる。
確かにそう見える。
点数だけ見れば。
下がっている。
(判断は正しい)
孔明が言う。
「だが耐えろ」
二時間目。
国語。
長文読解。
今までなら流し読みだった。
だが止まる。
一文ずつ意味を取る。
接続語を見る。
『しかし』
『つまり』
『一方で』
線を引く。
(遅い)
だが。
頭に入る。
設問を見る。
『筆者の主張として最も適切なものを選べ』
選択肢を消す。
一つ。
二つ。
三つ。
残る二つ。
本文に戻る。
照合する。
(これだ)
答えを選ぶ。
理由がある。
感覚ではない。
昼休み。
「なあ」
高橋蓮だった。
「今日なんか変じゃね?」
「何が」
「遅い」
即答だった。
悠真は苦笑する。
「変えた」
それだけ言う。
蓮は少し考えた。
そして頷く。
「いいと思うよ」
一拍。
「最初は絶対落ちるけど」
悠真が顔を上げる。
蓮は笑った。
「フォーム改造ってそういうもんだろ」
(分かっているな)
孔明が思った。
放課後。
塾。
Bクラス。
ざわつく教室。
軽い会話。
笑い声。
だが悠真は問題を見ていた。
解く。
遅い。
明らかに遅い。
隣の森田は次のページに進んでいる。
ページをめくる音。
ペンの走る音。
全部が焦りになる。
(速くやれば間に合う)
誘惑が来る。
今までの自分。
感覚で飛ばす。
勢いで解く。
だが。
(崩れる)
分かっている。
だから続ける。
読む。
書く。
確認する。
ミニテスト。
結果が返る。
点数は下がった。
「お前どうした?」
森田が言う。
「前の方が良くね?」
否定できない。
確かに点は落ちている。
(これでいいのか)
一瞬揺れる。
(戻せば楽だ)
速さに戻せば。
今すぐ点は戻る。
だが。
「短期で見るな」
孔明の声。
「これは基礎の再構築だ」
悠真は答案を見る。
ミスはほとんどない。
だが解き切れていない。
(代償か)
理解する。
安定と引き換えに。
速度を失っている。
その日の帰り道。
夜風が冷たかった。
「これ、意味あんのか」
悠真が呟く。
孔明は即答した。
「ある」
「なぜ」
「お前は今、初めて同じことを同じようにできている」
悠真は立ち止まる。
(同じように)
それができていなかった。
今まで。
当たり。
外れ。
調子。
運。
集中。
気分。
全部に左右されていた。
だが今は違う。
再現できる。
家。
机。
ノートを開く。
書く。
読む。
線を引く。
途中式。
確認。
そして最後に。
大きく書く。
――遅くていい
ペンが止まる。
静寂。
不安は消えない。
本当にこれでいいのか。
その疑問は残る。
だが。
一つだけ確かなことがあった。
(前より分かっている)
速さを捨てる。
それは弱体化ではない。
再構築だ。
戦に勝つために。
一度、自分を壊す。
その痛みが。
今、始まったばかりだった。




