第7話「勝てない理由」
第七話 勝てない理由
日曜日。
模試会場の空気は独特だった。
静かだった。
だが、その静けさは図書館のものとは違う。
重い。
張り詰めている。
逃げ場がない。
誰も騒がない。
誰もふざけない。
誰も大きな声で笑わない。
それでも緊張だけが、教室全体に満ちていた。
森岡悠真は、自分の席を探しながら周囲を見渡した。
知らない顔ばかりだった。
だが、一つだけ分かることがある。
(強いな)
孔明が言った。
悠真も、同じことを思っていた。
座り方。
問題用紙を待つ姿勢。
筆箱の置き方。
机の上の整え方。
試験前に見るノートの薄さ。
それを閉じるタイミング。
何気ない仕草だけで分かる。
この場所には、各塾の上位層が集まっている。
学校では見えない相手。
塾でも、普段は同じ教室にいない相手。
だが、今日は違う。
同じ戦場に立っている。
悠真は席に座った。
深く息を吐く。
(やれる)
ここ最近の手応えは悪くなかった。
途中式を書くようになった。
条件を確認するようになった。
解き直しも、前よりは残すようになった。
問題を見た瞬間に飛びつく癖も、少しずつ抑えられている。
ミスも減っている。
(前よりは確実に上だ)
その自覚はあった。
試験官が前に立つ。
「始め」
声が響いた。
一斉に問題用紙が開かれる。
算数。
一問目。
(簡単だ)
すぐに解く。
二問目。
三問目。
順調。
迷いはない。
中盤。
少し難度が上がる。
だが、構造は見える。
式が立つ。
条件も拾えている。
前なら頭の中だけで済ませていたところを、ノートに残す。
(悪くない)
孔明が言った。
悠真はペンを走らせた。
終盤。
一瞬だけ手が止まる。
図形。
条件が多い。
角度と長さが絡んでいる。
見た瞬間に解ける問題ではない。
(飛びつくな)
孔明の声。
悠真は、問題文をもう一度読んだ。
条件に線を引く。
図に書き込む。
分かっている値と、まだ分からない値を分ける。
(……いける)
式を書く。
計算する。
答えを出す。
解けた。
「終了」
試験官の声。
悠真はペンを置いた。
静かに息を吐く。
(今回はいい)
確信に近い感覚だった。
以前の自分なら、途中で崩れていた。
分からない問題に時間を使いすぎていた。
解ける問題まで雑にしていた。
だが今日は違う。
できた。
そう思った。
試験後。
廊下には受験生が集まっていた。
「後半やばくなかった?」
「最後、図形きつかった」
「あれ捨て問じゃね?」
「いや、解けるやつだろ」
「マジで?」
声が飛び交う。
悠真は壁にもたれた。
そのとき。
「どうだった?」
高橋蓮だった。
「全部見た」
悠真は答える。
蓮が頷く。
「俺も。最後はちょい怪しいけど」
そこへ、もう一人が歩いてきた。
藤堂優駿。
英修館のTZ選抜。
九州模試の上位常連。
附設か、ラ・サールか。
あるいは、それより外の戦場まで見ていると言われる少年。
蓮が聞いた。
「優駿、どうだった?」
藤堂は少し考えたあと、
「普通かな」
と答えた。
同じ言葉だった。
だが、重みが違った。
悠真は思った。
自分の「できた」と。
蓮の「まあまあ」と。
藤堂の「普通」は。
まるで別物だと。
数日後。
結果発表。
塾の掲示板前には人だかりができていた。
悠真は順位表を見上げる。
名前を探す。
前よりは早く見つかった。
(上がってる)
前回より順位は上がっていた。
確実に。
Bクラスの中では、かなり上の方に来ている。
Aクラスの下位も、視界に入ってきた。
だが。
足りない。
その上に高橋蓮がいた。
さらに上に、藤堂優駿がいた。
順位の差は縮まった。
しかし、まだ遠い。
(なんでだ)
手応えはあった。
できた感覚もあった。
順位も上がった。
なのに、胸の奥は晴れなかった。
結果が、思ったほど追いついていない。
「上がってんじゃん」
蓮が言った。
「よかったな」
「まあ」
悠真は曖昧に答えた。
蓮は掲示板を見た。
「でも、まだもったいないな」
「何が」
「ミス」
悠真は答案を取り出した。
算数。
バツがある。
一つ。
さらにもう一つ。
(……は?)
どちらも解けた問題だった。
一つは条件の読み違い。
一つは計算ミス。
難問ではない。
捨て問でもない。
時間が足りなかったわけでもない。
落としてはいけない問題だった。
(同じだ)
頭の中が、静かに冷えた。
努力した。
改善した。
前より丁寧に解いた。
だが、まだ残っている。
同じミスが。
そのとき、横に藤堂が立った。
「な?」
一言だった。
「……何が」
悠真が返す。
藤堂は答案を見た。
「できてる」
静かな声。
「でも、勝てない」
沈黙。
図星だった。
悠真は言い返せなかった。
藤堂は続ける。
「ミスって言うと、軽く聞こえる」
悠真は顔を上げた。
「違うのかよ」
「違う」
藤堂は短く言った。
「再現性」
空気が止まった。
「お前、当たるときは強いと思う」
藤堂は淡々と続ける。
「でも、外すときに普通に外す」
悠真は何も言えなかった。
「それだと、上では勝てない」
藤堂はそれだけ言って、掲示板に視線を戻した。
説明は終わりだった。
慰めもない。
挑発もない。
ただ、事実だけが残った。
再現性。
その言葉が、妙に重かった。
悠真は答案を見る。
できた問題。
落とした問題。
その違いは何か。
(運じゃない)
同じ問題。
同じ時間。
同じ実力。
なのに、結果が安定しない。
(再現できていない)
そのとき、孔明が言った。
(お前は、速さに逃げている)
悠真が反応する。
「は?」
(速く解けば、ごまかせると思っている)
「そんなこと――」
(ある)
孔明の声は静かだった。
(速く解いている間は、自分が強いように錯覚できる。迷う前に答えを書く。確認する前に次へ行く。考え切る前に、分かったことにする)
悠真は黙った。
(だが、それでは勝てぬ)
孔明の声が低くなる。
(なぜなら、速さだけでは再現できぬからだ)
その言葉が突き刺さった。
悠真はゆっくり息を吐く。
確かにそうだった。
速いときは速い。
当たるときは当たる。
集中できる日は強い。
だが、安定しない。
集中できない日は崩れる。
焦ると読み飛ばす。
簡単だと思うほど確認しない。
答えが見えた瞬間、手順を捨てる。
それは実力ではない。
波だ。
「……じゃあ、どうすんだよ」
問い。
孔明は即答した。
(遅くなれ)
「は?」
(崩れぬ速さを作れ)
悠真は黙った。
藤堂も同じことを言っている。
孔明も同じことを言っている。
塾の先生も、似たようなことを言っていた。
答えは一つだった。
安定。
再現。
積み重ね。
悠真は答案を見つめる。
ミス。
それは偶然ではない。
構造だった。
「……クソ」
小さく呟く。
悔しい。
だが、同時に分かった。
初めて、自分がなぜ勝てないのか理解した。
帰り道。
夜風が冷たかった。
悠真は何も話さなかった。
駅前の明かり。
バス停の列。
塾帰りの小学生たち。
親の車に乗り込む子。
自転車で帰る子。
すべてが、いつもより静かに見えた。
頭の中には、一つの言葉だけが残っている。
再現性。
速さじゃない。
安定だ。
家に着く。
机に向かう。
ノートを開く。
新しいページ。
ゆっくり書く。
途中式を省略しない。
条件を二回読む。
答えを出す前に、単位を確認する。
解いた後、問題文に戻る。
迷った問題に印をつける。
間違えた問題は、理由まで書く。
そして最後に。
大きく書く。
再現性。
ペンを置く。
静寂。
だが、迷いはなかった。
(このままじゃ勝てない)
だから。
(変える)
戦い方を。
考え方を。
積み重ね方を。
孔明が静かに言った。
(ようやく敵を見たな)
「藤堂じゃないのか」
悠真は聞く。
孔明はわずかに笑った。
(違う)
一拍。
(お前の敵は、お前自身だ)
悠真はノートを見る。
再現性。
その一言が、妙に重かった。
だが、初めてだった。
勝てない理由が分かったのは。
それは敗北ではない。
戦いの始まりだった。




