第6話「塾という戦場」
第六話 塾という戦場
夕方。
駅前は、人で溢れていた。
仕事帰りの会社員。
買い物帰りの人たち。
制服姿の高校生。
バス停に並ぶ中学生。
その流れの中に、もう一つの集団があった。
大きなリュックを背負った小学生たち。
手には問題集。
首からは塾の入館証。
足取りは速い。
目的地が同じだからだ。
(補給路だな)
孔明が言う。
「は?」
(戦場へ向かう兵の列だ)
悠真は苦笑した。
だが、否定もできなかった。
駅前のビル群。
その中には、いくつもの塾が入っている。
英修館。
日能会。
四谷ゼミ。
個別指導。
映像授業。
中学受験専門塾。
同じ駅前なのに、ビルの中ではまったく違う戦が行われている。
その中で、悠真が通っているのは英修館だった。
九州では知らない人の方が少ない大手塾。
附設。
ラ・サール。
青雲。
早稲田佐賀。
そうした学校の合格実績が、入口近くに大きく貼られている。
悠真は立ち止まり、ビルを見上げた。
「……行くか」
自動ドアが開いた。
中へ入る。
その瞬間、空気が変わった。
静かではない。
だが、緩くもない。
受付の前を、子どもたちが次々と通っていく。
カードをかざす音。
階段を上がる足音。
講師の声。
コピー機の音。
学校とは違う。
ここでは全員が、何かを取りに来ている。
点数。
順位。
クラス。
合格。
受付の女性が笑顔で言う。
「こんばんは」
「こんばんは」
その奥から、鋭い声が響いた。
「条件を見ろ!」
一瞬、空気が締まる。
「なぜそこを飛ばす!」
「答えだけ出しても意味がない!」
教室中に響く声。
(圧が強いな)
悠真は無言で靴を履き替えた。
階段を上がる。
二階。
三階。
階が上がるごとに、空気が少しずつ変わる気がした。
掲示板には、クラス分けの案内が貼られている。
TZ選抜。
Sクラス。
Aクラス。
Bクラス。
Cクラス。
ただの文字。
だが、そこには明確な序列があった。
悠真の教室は、Bクラスだった。
扉を開ける。
空気が少し軽くなる。
ざわつき。
私語。
笑い声。
机の下でカードゲームの話をしている声。
宿題を写している者。
学校よりは緊張している。
だが、上の階から聞こえてきた声とは、密度が違った。
(違うな)
孔明はすぐに判断した。
「何が」
(戦場の温度だ)
悠真は席に座る。
「おー、悠真」
声をかけてきたのは、森田航平だった。
同じBクラス。
「宿題やった?」
「一応」
「最後むずくね?」
「まあな」
「俺、半分しか終わってねえ」
航平は笑った。
悪いやつではない。
話しやすい。
塾に来ると、少し安心する相手でもある。
だが、その安心感が、今は少し引っかかった。
(余裕がある)
孔明は分析する。
(悪い意味でな)
「うるさい」
(まだ追い込まれていない)
そのときだった。
上の階から、再び講師の声が響いた。
「そこが甘い!」
一瞬で、Bクラスの教室が静かになった。
数人が天井を見上げる。
「……TZか」
誰かが呟いた。
空気が変わる。
恐れ。
憧れ。
緊張。
諦め。
全部が混ざっていた。
「今日も怒られてんな」
航平が小さく笑う。
だが、その笑いには少しだけ距離があった。
自分たちとは違う場所の話。
そう思っている声だった。
(上の存在を認識している)
孔明が言った。
(だが、まだ自分の戦場として見ていない)
悠真は黙った。
授業が始まる。
講師が入ってきた。
中年の男性。
声は大きくない。
だが、目が鋭い。
「はい、始めるぞ」
プリントが配られる。
悠真は問題を見る。
水槽に、A管とB管から水を入れる問題。
A管だけなら何分。
B管だけなら何分。
途中で片方を止める。
満水になるまでの時間を求める。
(難度は適切)
孔明は判断した。
学校より一段上。
だが、解けないわけではない。
(戦場としては悪くない)
悠真はすぐにペンを走らせた。
A管。
B管。
合わせる。
途中で止める。
なんとなく見える。
感覚でいける。
(速い)
孔明が言う。
だが、次の瞬間。
(雑だ)
悠真は眉をひそめた。
途中を飛ばす。
比で処理しようとする。
答えだけを出そうとする。
(待て)
「またかよ」
(構造を固定しろ)
悠真はため息をついた。
だが、手を止めた。
全体の水量を一と置く。
A管の一分あたりの量。
B管の一分あたりの量。
合わせた速度。
止めた後の速度。
残りの量。
式を書く。
通分。
計算。
答え。
「めんどくせぇ」
(その一言が敗因だ)
孔明は冷静だった。
そのとき、講師が教室を見渡した。
「いいか」
空気が静まる。
「Bクラスはな」
一拍。
「ここで雑になる」
悠真の手が止まった。
「分かった気になる。答えが見えた気になる。途中を飛ばす。で、最後に落とす」
何人かが目を逸らした。
図星だったからだ。
「お前らは、解けないんじゃない。崩れるんだ」
悠真はノートを見た。
途中式。
条件確認。
残りの水量。
孔明が言っていたことと同じだった。
講師は続ける。
「SやTZの連中は、ここを落とさない」
教室が静まる。
「速いから上にいるんじゃない」
講師は黒板を叩いた。
「崩れないから上にいる」
その言葉は、重かった。
悠真は、初めてノートの途中式を見直した。
面倒だと思っていたもの。
だが、それは面倒な作業ではなかった。
崩れないための足場だった。
授業後。
廊下に出る。
上の階から、TZ選抜の生徒たちが降りてきた。
静かだった。
無駄話が少ない。
ノートを見ている。
問題を確認している。
講師に質問しながら歩く者もいる。
同じ小学生なのに、空気が違う。
(質が違う)
悠真は思った。
その集団の中に、一人の姿があった。
藤堂優駿。
九州模試の上位常連。
附設かラ・サールか。
あるいは、さらに外の難関校まで見ていると言われる少年。
悠真にとっては、まだ頂に近い名前だった。
目が合った。
「お疲れ」
藤堂が言った。
「……お疲れ」
悠真は答える。
「授業どうだった?」
何気ない質問。
だが、悠真は少し迷った。
普通。
そう答えようとして、やめた。
自分はまだ、その言葉を使える場所にいない気がした。
「……難しかった」
藤堂は頷いた。
「そうか」
それだけだった。
馬鹿にするでもない。
慰めるでもない。
ただ、受け取っただけ。
藤堂は自分のノートを閉じた。
「Bだと、まだ余裕あるでしょ」
悠真は黙った。
否定できなかった。
授業中も雑談があった。
集中が切れる瞬間もあった。
宿題を忘れて笑っている者もいた。
だが、TZ選抜は違う。
そこでは、一問のミスが座席を変える。
一回のクラス分けが、志望校別特訓の扱いを変える。
小さな差が、そのまま進路の差になる。
藤堂が言った。
「上は、全部落とせない」
一問。
一つの条件。
一つの読み違い。
一つの計算ミス。
それが順位を変える。
クラスを変える。
志望校を変える。
藤堂は、当たり前のように言った。
「クラス分け、近いだろ?」
「ああ」
「上がる?」
悠真は答えなかった。
今はまだ、言えない。
言えば、軽くなる気がした。
藤堂は少しだけ笑った。
「来いよ」
それだけだった。
去っていく。
挑発ではない。
見下しでもない。
ただ、事実として言った。
来られるなら、来い。
その程度の言葉だった。
(事実だな)
孔明が言う。
「は?」
(あれは挑発ではない。戦場の位置を示しただけだ)
帰り道。
夜風が冷たかった。
駅前の明かりが、濡れた道路に反射している。
悠真は空を見上げた。
「遠いな」
TZ選抜。
藤堂。
附設。
ラ・サール。
全部遠い。
同じ塾。
同じ建物。
同じ模試。
同じテスト。
それなのに、まるで違う場所にいる。
(別世界だ)
悠真は思った。
(違う)
孔明が即座に否定した。
「は?」
(同じ戦場だ)
一拍。
(ただ、位置が違う)
悠真は黙った。
その言葉は、妙に納得できた。
別世界ではない。
届かない場所でもない。
同じ戦場。
ただ、自分が後ろにいるだけ。
家に着く。
机に向かう。
ノートを開く。
新しいページ。
書く。
途中式。
条件確認。
速度制御。
ミス削減。
解き直し。
そして、少し考えたあと、一つの名前を書いた。
藤堂優駿。
ペンが止まる。
「また書いた」
悠真は小さく呟いた。
孔明は答えた。
(測るためだ)
「頂を?」
(そうだ)
悠真はその名前を見る。
藤堂優駿。
まだ敵ではない。
まだ勝負にもなっていない。
だが、位置を測るための名前だった。
自分がどれだけ低い場所にいるのか。
何が足りないのか。
どこまで上がらなければならないのか。
数字よりも、人の方が分かりやすいことがある。
孔明は静かに言った。
(敵と呼ぶには遠い。だが、標的としては十分だ)
悠真はゆっくりと頷いた。
塾という戦場。
そこには明確な差がある。
だが同時に、道もある。
TZ選抜。
附設。
ラ・サール。
藤堂優駿。
遠い名前が、初めて一本の線でつながった。
まずはBクラスから抜ける。
その日、悠真は初めて、塾がただ勉強を教わる場所ではないことを知った。
塾は、戦場だった。
そして、自分はまだ、その後方にいる兵に過ぎなかった。




