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偏差値は戦である  作者: 受験孔明
第一部 転生と初戦〜中学受験編
10/26

第10話「見えない格差」

第十話 見えない格差


 日曜日。


 模試会場。


 前と同じ場所。

 前と同じ机。

 前と同じ試験。


 それなのに、森岡悠真には違う景色が見えていた。


 以前は、問題しか見ていなかった。


 点数しか見ていなかった。

 順位しか見ていなかった。

 自分が解けたか、解けなかったか。

 それだけを見ていた。


 だが、今は違う。


(周囲が見える)


 孔明は何も言わない。


 悠真自身が、気づき始めていた。


 机の上。


 ノート。

 問題集。

 付箋。

 赤ペン。

 過去問。

 解き直しノート。


 どれも同じではない。


 角が丸くなった問題集。

 何度も貼り直された付箋。

 余白にびっしり書き込まれた解説。

 間違えた問題だけを集めた薄いノート。

 試験直前に見ると決めているらしい一枚のプリント。


 誰も話していない。


 だが、分かる。


(積み上げが違う)


 悠真は、自分の教材を見る。


 綺麗だった。


 使っていないわけではない。

 サボってばかりいたわけでもない。

 問題も解いた。

 丸つけもした。

 解き直しも、前よりはしている。


 だが、戦い抜いた跡は薄い。


 自分の問題集は、まだ教材だった。


 隣の生徒の問題集は、武器に見えた。


(量か)


 そう思った。


 だが、すぐに違うと分かる。


(質も違う)


 隣の生徒が問題用紙を待つ間、クリアファイルから一枚のプリントを取り出した。


 見たことのない問題。


 見たことのない解説。


 余白には大量の書き込みがある。


 式だけではない。

 なぜその解法を使うのか。

 どこで間違えやすいのか。

 類題の番号。

 過去問の年度。

 似た出題校。


 塾で配られたものではなさそうだった。

 少なくとも、悠真は見たことがない。


(何だ、あれ)


(情報だ)


 孔明が言った。


(戦は情報で決まる)


 悠真は小さく息を吐いた。


 一瞬だけ思う。


 ずるくねぇか。


 だが、すぐに否定した。


 違う。


 ずるいのではない。


 持っているだけだ。


 情報を集めた。

 分析した。

 使える形にした。

 今日、この場所に持ってきた。


 それだけだ。


 試験開始。


 前半。


 基本問題。


 誰でも取れる。


 計算。

 小問。

 基本的な比。

 割合。

 簡単な図形。


 ここで大きな差はつかない。


 だが、落とせば終わる。


 悠真は一問ずつ処理した。


 読む。

 線を引く。

 式を書く。

 確認する。


 以前より遅い。


 だが崩れない。


 中盤。


 少しずつ難度が上がる。


 速さと比。

 場合の数。

 図形。

 複合問題。


 見たことはある。


 だが、深い。


 悠真はペンを走らせる。


 途中までは順調だった。


 だが、終盤で手が止まった。


(この形……)


 どこかで見た気がする。


 ただ、思い出せない。


 似た問題は解いた。

 でも、どの問題だったか分からない。

 どう変形すればいいのか、すぐには出てこない。


 解法は浮かぶ。


 しかし遅い。


 隣から、ページをめくる音がした。


 自分より早い。


 迷いがない。


(知っているのか)


 悠真は思った。


 いや、違う。


(見たことがあるんだ)


 それだけだった。


 初見ではない。

 完全に同じ問題でなくても、同じ型を経験している。


 だから速い。

 だから迷わない。

 だから、余裕がある。


 経験差。


 その一言だった。


「終了」


 試験官の声。


 悠真はペンを置いた。


 悪くはなかった。


 前よりは、確実に戦えている。


 だが、手応えとは別に、嫌なものが残っていた。


 自分が知らない型を、知っている者がいる。


 自分が今考えていることを、すでに整理して持っている者がいる。


 試験後。


 外へ出る。


 廊下には、受験生たちが集まっていた。


「最後、過去問っぽくなかった?」

「平成の附設のやつに似てた」

「いや、ラ・サールの速さの変形じゃね?」

「先生が言ってたやつじゃん」


 そんな会話が耳に入る。


 悠真は立ち止まった。


 自分が苦しんだ問題を、誰かは分類している。


 ただ「難しい」と言っていない。


 どこに似ているか。

 何の変形か。

 どの学校の匂いがするか。


 そういう見方をしている。


 そこに、藤堂優駿が立っていた。


 英修館TZ選抜。

 九州模試の上位常連。

 附設か、ラ・サールか。

 あるいは、それより外の戦場まで見ていると言われる少年。


「どうだった?」


 藤堂が聞いた。


 悠真は少し考える。


「悪くない」


 嘘ではない。


 だが、本音でもなかった。


 藤堂は頷いた。


「最後の問題」


 悠真の体が、少しだけ固まる。


「やったことある?」


 一瞬で分かった。


(やっぱりか)


「……ない」


 藤堂は軽く言った。


「あれ、過去問の変形」


 悠真は黙った。


 全てが繋がった。


 過去問。


 ただ解くのではない。


 分類する。

 分析する。

 形を覚える。

 似た問題を見つける。

 どう変形されるかを考える。


 だから速い。


 だから迷わない。


 藤堂は続けた。


「初見で考える問題と、見たことある型に戻す問題は違う」


 悠真は何も言えなかった。


 藤堂は責めているわけではない。

 自慢しているわけでもない。

 ただ、事実を言っているだけだった。


(戦術ではない)


 孔明が言った。


(戦略だ)


 悠真は、廊下の窓に映る自分の顔を見た。


 努力はしている。

 前よりは確実に良くなっている。


 だが、努力の向こう側に、さらに差がある。


 情報。

 経験。

 整理。

 蓄積。


 結果発表。


 数日後。


 塾の掲示板前。


 悠真は順位表を見上げた。


 自分の名前を探す。


 上がっている。


 確実に。


 前よりも上。

 Bクラスの中では上位。

 Aクラスが、少しずつ現実の距離になってきている。


 だが。


 届かない。


 その上に高橋蓮。


 さらに上に藤堂優駿。


 そして、周囲にも見覚えのある名前が並んでいる。


(集まっている)


 偶然ではない。


 強い者同士が、同じ場所に集まっている。


 上位クラス。

 志望校別特訓。

 難関校対策。

 過去問研究。

 合格者の情報。

 親同士のつながり。

 講師の目。


 強い場所には、強くなる材料がさらに集まる。


 弱い場所には、弱いままになる理由が残る。


 それが、見えない格差だった。


 帰り道。


 悠真は何も話さなかった。


 頭の中で整理していた。


 努力はしている。

 成長もしている。

 だが、足りない。


 何が足りないのか。


 答えは見えていた。


 情報。

 経験。

 量。

 環境。

 分析。


 家に帰る。


 リビング。


 母がいた。


「どうだった?」


「まあまあ」


 曖昧な返事。


 母は、それ以上すぐには聞かなかった。


 だが、期待と不安は伝わってくる。


 悠真は椅子に座った。


「なあ」


「何?」


「いくらかかってる?」


 母が止まった。


「……は?」


「塾とか」


「教材とか」


「模試とか」


「講習とか」


 母は戸惑った。


「何でそんなこと聞くの」


「いいから」


 少しの沈黙。


 やがて母は、ゆっくり答えた。


 月謝。

 教材費。

 模試代。

 講習代。

 特訓講座。

 交通費。

 季節講習。

 これから増えるかもしれない志望校別対策。


 積み上がる数字。


(そんなにか)


 悠真は言葉を失った。


 想像以上だった。


 母は少し困ったように笑った。


「だから、ちゃんとしなさいって言いたいわけじゃないよ」


 悠真は顔を上げる。


 母は続けた。


「でも、受験って、勉強だけじゃないの。時間も、お金も、家族の予定も、全部使うの」


 その声は、責めていなかった。


 だからこそ、重かった。


 孔明が静かに言う。


(理解したか)


 悠真は頷く。


(ああ)


 これは、勉強だけの勝負ではない。


 金。

 情報。

 環境。

 人脈。

 経験。

 親の判断。

 家庭の余力。


 すべてが戦力になる。


 それは不公平か。


 不公平かもしれない。


 だが、それ以前に現実だった。


 部屋へ戻る。


 机の前。


 問題集を開く。


 だが、手が止まる。


(勝てるのか)


 初めて思った。


 本気で。


 今までは、やれば届くと思っていた。

 努力すれば勝てると思っていた。

 自分が変われば、何とかなると思っていた。


 だが今は違う。


 構造そのものが見えてしまった。


 努力の量だけではない。

 努力の質だけでもない。


 誰が何を知っているか。

 どの教材に触れているか。

 誰に導かれているか。

 どの環境で普通を作っているか。


 そこまで含めて、戦力なのだ。


 そのとき、孔明が言った。


(だからこそだ)


 悠真は顔を上げる。


「は?」


(全員が同じ条件なら、戦略は不要だ)


 静寂。


(差があるから、戦がある)


 その言葉が胸に落ちた。


 もし全員が同じなら。


 同じ教材。

 同じ環境。

 同じ情報。

 同じ親。

 同じ時間。


 そんな世界なら、勝負は才能だけになる。


 だが現実は違う。


 情報差がある。

 環境差がある。

 経験差がある。

 家庭差がある。


 だからこそ、戦略が意味を持つ。


 足りないものを知り、補う。

 持っていないものを、別のもので代替する。

 全てを追わず、勝つ場所を選ぶ。

 正面から殴れないなら、横から崩す。


 それが戦だった。


 悠真は、ゆっくり息を吐いた。


 そして、少しだけ笑った。


「……面白ぇじゃん」


 諦めではない。


 開き直りでもない。


 覚悟だった。


 簡単ではない。


 だから戦う価値がある。


 ノートを開く。


 書く。


 情報。

 過去問。

 環境。

 分析。

 費用。

 経験。


 そして最後に、大きく書いた。


 どう戦うか。


 ペンを置く。


 静寂。


 逃げ道はない。


 戦うか。


 引くか。


 その選択が、少しずつ近づいていた。


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