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偏差値は戦である  作者: 受験孔明
第一部 転生と初戦〜中学受験編
11/26

第11話「壁」

第十一話 壁


 結果は、悪くなかった。


 むしろ、良かった。


 英修館の掲示板。


 森岡悠真は、自分の名前を見つけた。


 前回より上。


 確実に上がっている。


(来てる)


 手応えと一致していた。


 ミスは減った。

 途中式も安定した。

 以前のような当たり外れは少ない。

 解いた問題の精度も上がっている。


 再現性。


 それは確実に身についている。


 だが――


(足りない)


 悠真は掲示板を見上げた。


 自分の上に、名前がある。


 高橋蓮。


 さらに上には、藤堂優駿。


 その上にも、見覚えのある名前が並んでいる。


(……まだいるのか)


 藤堂だけではなかった。


 上には、まだいる。


 附設を狙う者。

 ラ・サールを当然のように口にする者。

 青雲を押さえと考える者。

 さらに、県外の難関校まで視界に入れている者。


 悠真は初めて気づいた。


 一段上の世界が存在することに。


 いや、正確には違う。


 一段ではない。


 何段もある。


「どうだった?」


 高橋蓮が隣に来た。


「悪くない」


 悠真が答える。


「だろうな」


 蓮は頷いた。


「上がってるじゃん」


「まあな」


「でも、まだ届かないだろ」


 即答だった。


 悠真は黙る。


 否定できない。


 掲示板を見る。


 Aクラスのライン。


 あと数点。


 ほんの数点。


 だが、その数点が異様に遠い。


「なんでだと思う?」


 蓮が聞いた。


 悠真は答える。


「ミスは減ってる」


「うん」


「解ける問題も増えてる」


「うん」


「でも、届かない」


 蓮は頷いた。


「理由、分かる?」


 沈黙。


 悠真は掲示板の自分の名前を見た。


 悪くない。


 悪くないのに、上がれない。


 その事実だけが重かった。


「……分からん」


 蓮は少し笑った。


「時間だよ」


 空気が変わった。


「時間?」


「積み上げ」


 蓮は当然のように言った。


「俺ら、いつから塾行ってると思う?」


 悠真は答えられなかった。


 蓮は自分で答えた。


「三年の終わり」


 一瞬、思考が止まった。


「……早くね?」


「普通だよ」


 蓮は肩をすくめる。


「遅くても四年から。附設とかラ・サールを本気で考える家は、四年の時点でもう走ってる」


 悠真は黙った。


 自分は違う。


 四年の途中までは、地域の小さな塾にいた。


 学校の補習に近かった。

 計算や漢字はやっていた。

 宿題もあった。


 だが、本格的な中学受験の戦場ではなかった。


 英修館に入ったのは、五年の途中。


 その時には、すでに前を走っている者たちがいた。


(遅れている)


 その事実が、胸に重く落ちた。


「五年の終わりで、一通り終わるんだよ」


 蓮が言った。


「一通り?」


「単元」


 蓮は掲示板を見ながら続ける。


「六年は二周目と、志望校別と、過去問。もちろん全部じゃないけど、上の方はそういう感覚」


 悠真は顔を上げた。


「は?」


 蓮は当然のように言う。


「だから六年で差がつくんだよ」


 頭の中で、何かが崩れた。


 今、自分が必死に積んでいるもの。


 それは、相手にとっては一周目ではない。


 すでに一度見た道。

 一度間違えた問題。

 一度通った単元。


 相手は、二周目を走っている。


 さらにその上で、過去問を見ている。


(差が違う)


 点数の差ではない。


 理解の差でもない。


 時間の差。


 積み上げの差。


 それは、今日一日頑張ったからといって埋まるものではなかった。


 悠真は聞いた。


「優駿は?」


 蓮は即答した。


「あいつはもっとやってる」


「もっと?」


「三年から。たぶん個別も入れてる。家でも相当やってると思う」


 個別。

 家庭学習。

 特訓。

 模試。

 志望校別対策。

 過去問。

 分析。

 情報。


 積み上げ。


 さらに、近くで会話が聞こえた。


「あれ、去年の附設型に似てなかった?」


「似てた。最後の処理だけラ・サールっぽかったけど」


「先生が言ってたやつじゃん」


 知らない生徒たち。


 だが、分かる。


 上位層。


 自然にそういう会話をしている。


 悠真は何も言えなかった。


 見たことがない。


 知らない。


 その時点で差がある。


 彼らは、問題を解いているだけではない。


 問題の由来を見ている。

 型を見ている。

 どの学校の匂いがするかを見ている。


 同じ模試を受けても、見ている景色が違う。


「難しい顔してんな」


 蓮が笑った。


「差、ありすぎじゃね?」


 悠真は正直に言った。


 蓮は少し考えた。


 そして。


「あるよ」


 即答だった。


「普通にある」


 救いのない答えだった。


 だから悠真も聞いた。


「じゃあ、無理じゃね?」


 初めて口にした。


 無理。


 その言葉を。


 蓮は少しだけ笑った。


「だから面白いんだろ」


 悠真は顔を上げた。


「意味分からん」


「簡単に勝てるなら、勝負にならねぇじゃん」


 蓮の口調は軽かった。


 だが、その目は笑っていなかった。


「それにさ」


 蓮は掲示板を見る。


「上にいるやつらも、全員が完璧なわけじゃない。早く始めたやつでも落ちるし、上のクラスにいても崩れるやつはいる」


 一拍。


「差はある。でも、決定じゃない」


 その言葉は、妙に心に残った。


 差はある。


 でも、決定ではない。


 帰り道。


 悠真は何も話さなかった。


 頭の中で整理していた。


 三年開始。

 四年開始。

 五年で一通り終了。

 六年で二周目。

 過去問。

 志望校別。

 そして自分。


 さらに思い出す。


 野球。

 練習。

 試合。

 遠征。

 友達。

 夏のグラウンド。

 泥だらけのユニフォーム。

 勝った日。

 負けた日。

 笑った時間。


 楽しかった。


 それは嘘ではない。


 だが、その時間に、あいつらは勉強していた。


 悠真は歩きながら、手を握った。


(選択ミスか)


 初めてそう思った。


 六年の夏まで続けた野球。


 周りの多くは、五年でやめていた。

 受験に切り替えていた。

 遠征ではなく、模試に行っていた。

 練習試合ではなく、講習に行っていた。


 自分は違った。


 どちらが正しかったのか。


 すぐには分からない。


 ただ、結果として差はある。


 部屋。


 机。


 椅子。


 ペンを持つ。


 だが、手が動かなかった。


(勝てるのか)


 初めて本気で思った。


 今までは、やれば届くと思っていた。

 努力すれば追いつくと思っていた。

 自分が変われば、何とかなると思っていた。


 だが現実は違う。


 積み上げが違う。


 その差は重い。


 簡単には埋まらない。


 そのとき、孔明が言った。


(だからこそだ)


 悠真は顔を上げる。


「は?」


(同じ条件なら、戦略は不要だ)


 静寂。


(差があるから、戦がある)


 悠真は黙った。


 その言葉を考える。


 もし全員が同じなら。


 同じ時期に始め、同じ時間を使い、同じ教材を解き、同じ環境で学ぶなら。


 勝負は才能だけになる。


 だが違う。


 時間差がある。

 情報差がある。

 経験差がある。

 環境差がある。


 だからこそ、逆転の余地もある。


 足りないものが見えるなら、補える。

 遅れていると分かるなら、走り方を変えられる。

 正面から同じ量を積めないなら、積む順番を変えるしかない。


 孔明は続ける。


(壁とは何だと思う)


 悠真は答えない。


(越えられぬものか)


 一拍。


(違う)


 孔明の声は静かだった。


(壁とは、登る場所だ)


 悠真は目を閉じた。


 壁は見えた。


 はっきりと。


 今までで一番大きな壁が。


 時間の壁。


 積み上げの壁。


 経験の壁。


 早く始めた者たちが作った、見えない高さ。


 だが、初めてだった。


 敵の姿がここまで鮮明に見えたのは。


 悠真はノートを開く。


 新しいページ。


 ゆっくり書く。


 壁。


 その下に、もう一行。


 登る。


 ペンが止まる。


 答えはまだない。


 越えられる保証もない。


 だが、分かったことがある。


 普通のやり方では勝てない。


 同じ量を、同じ速度で積むだけでは追いつかない。


 ならば、考えるしかない。


 どこを登るか。


 何を捨てるか。


 何から積むか。


 誰の力を借りるか。


 その事実が、少しだけ怖かった。


 そして、少しだけ面白かった。


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