第11話「壁」
第十一話 壁
結果は、悪くなかった。
むしろ、良かった。
英修館の掲示板。
森岡悠真は、自分の名前を見つけた。
前回より上。
確実に上がっている。
(来てる)
手応えと一致していた。
ミスは減った。
途中式も安定した。
以前のような当たり外れは少ない。
解いた問題の精度も上がっている。
再現性。
それは確実に身についている。
だが――
(足りない)
悠真は掲示板を見上げた。
自分の上に、名前がある。
高橋蓮。
さらに上には、藤堂優駿。
その上にも、見覚えのある名前が並んでいる。
(……まだいるのか)
藤堂だけではなかった。
上には、まだいる。
附設を狙う者。
ラ・サールを当然のように口にする者。
青雲を押さえと考える者。
さらに、県外の難関校まで視界に入れている者。
悠真は初めて気づいた。
一段上の世界が存在することに。
いや、正確には違う。
一段ではない。
何段もある。
「どうだった?」
高橋蓮が隣に来た。
「悪くない」
悠真が答える。
「だろうな」
蓮は頷いた。
「上がってるじゃん」
「まあな」
「でも、まだ届かないだろ」
即答だった。
悠真は黙る。
否定できない。
掲示板を見る。
Aクラスのライン。
あと数点。
ほんの数点。
だが、その数点が異様に遠い。
「なんでだと思う?」
蓮が聞いた。
悠真は答える。
「ミスは減ってる」
「うん」
「解ける問題も増えてる」
「うん」
「でも、届かない」
蓮は頷いた。
「理由、分かる?」
沈黙。
悠真は掲示板の自分の名前を見た。
悪くない。
悪くないのに、上がれない。
その事実だけが重かった。
「……分からん」
蓮は少し笑った。
「時間だよ」
空気が変わった。
「時間?」
「積み上げ」
蓮は当然のように言った。
「俺ら、いつから塾行ってると思う?」
悠真は答えられなかった。
蓮は自分で答えた。
「三年の終わり」
一瞬、思考が止まった。
「……早くね?」
「普通だよ」
蓮は肩をすくめる。
「遅くても四年から。附設とかラ・サールを本気で考える家は、四年の時点でもう走ってる」
悠真は黙った。
自分は違う。
四年の途中までは、地域の小さな塾にいた。
学校の補習に近かった。
計算や漢字はやっていた。
宿題もあった。
だが、本格的な中学受験の戦場ではなかった。
英修館に入ったのは、五年の途中。
その時には、すでに前を走っている者たちがいた。
(遅れている)
その事実が、胸に重く落ちた。
「五年の終わりで、一通り終わるんだよ」
蓮が言った。
「一通り?」
「単元」
蓮は掲示板を見ながら続ける。
「六年は二周目と、志望校別と、過去問。もちろん全部じゃないけど、上の方はそういう感覚」
悠真は顔を上げた。
「は?」
蓮は当然のように言う。
「だから六年で差がつくんだよ」
頭の中で、何かが崩れた。
今、自分が必死に積んでいるもの。
それは、相手にとっては一周目ではない。
すでに一度見た道。
一度間違えた問題。
一度通った単元。
相手は、二周目を走っている。
さらにその上で、過去問を見ている。
(差が違う)
点数の差ではない。
理解の差でもない。
時間の差。
積み上げの差。
それは、今日一日頑張ったからといって埋まるものではなかった。
悠真は聞いた。
「優駿は?」
蓮は即答した。
「あいつはもっとやってる」
「もっと?」
「三年から。たぶん個別も入れてる。家でも相当やってると思う」
個別。
家庭学習。
特訓。
模試。
志望校別対策。
過去問。
分析。
情報。
積み上げ。
さらに、近くで会話が聞こえた。
「あれ、去年の附設型に似てなかった?」
「似てた。最後の処理だけラ・サールっぽかったけど」
「先生が言ってたやつじゃん」
知らない生徒たち。
だが、分かる。
上位層。
自然にそういう会話をしている。
悠真は何も言えなかった。
見たことがない。
知らない。
その時点で差がある。
彼らは、問題を解いているだけではない。
問題の由来を見ている。
型を見ている。
どの学校の匂いがするかを見ている。
同じ模試を受けても、見ている景色が違う。
「難しい顔してんな」
蓮が笑った。
「差、ありすぎじゃね?」
悠真は正直に言った。
蓮は少し考えた。
そして。
「あるよ」
即答だった。
「普通にある」
救いのない答えだった。
だから悠真も聞いた。
「じゃあ、無理じゃね?」
初めて口にした。
無理。
その言葉を。
蓮は少しだけ笑った。
「だから面白いんだろ」
悠真は顔を上げた。
「意味分からん」
「簡単に勝てるなら、勝負にならねぇじゃん」
蓮の口調は軽かった。
だが、その目は笑っていなかった。
「それにさ」
蓮は掲示板を見る。
「上にいるやつらも、全員が完璧なわけじゃない。早く始めたやつでも落ちるし、上のクラスにいても崩れるやつはいる」
一拍。
「差はある。でも、決定じゃない」
その言葉は、妙に心に残った。
差はある。
でも、決定ではない。
帰り道。
悠真は何も話さなかった。
頭の中で整理していた。
三年開始。
四年開始。
五年で一通り終了。
六年で二周目。
過去問。
志望校別。
そして自分。
さらに思い出す。
野球。
練習。
試合。
遠征。
友達。
夏のグラウンド。
泥だらけのユニフォーム。
勝った日。
負けた日。
笑った時間。
楽しかった。
それは嘘ではない。
だが、その時間に、あいつらは勉強していた。
悠真は歩きながら、手を握った。
(選択ミスか)
初めてそう思った。
六年の夏まで続けた野球。
周りの多くは、五年でやめていた。
受験に切り替えていた。
遠征ではなく、模試に行っていた。
練習試合ではなく、講習に行っていた。
自分は違った。
どちらが正しかったのか。
すぐには分からない。
ただ、結果として差はある。
部屋。
机。
椅子。
ペンを持つ。
だが、手が動かなかった。
(勝てるのか)
初めて本気で思った。
今までは、やれば届くと思っていた。
努力すれば追いつくと思っていた。
自分が変われば、何とかなると思っていた。
だが現実は違う。
積み上げが違う。
その差は重い。
簡単には埋まらない。
そのとき、孔明が言った。
(だからこそだ)
悠真は顔を上げる。
「は?」
(同じ条件なら、戦略は不要だ)
静寂。
(差があるから、戦がある)
悠真は黙った。
その言葉を考える。
もし全員が同じなら。
同じ時期に始め、同じ時間を使い、同じ教材を解き、同じ環境で学ぶなら。
勝負は才能だけになる。
だが違う。
時間差がある。
情報差がある。
経験差がある。
環境差がある。
だからこそ、逆転の余地もある。
足りないものが見えるなら、補える。
遅れていると分かるなら、走り方を変えられる。
正面から同じ量を積めないなら、積む順番を変えるしかない。
孔明は続ける。
(壁とは何だと思う)
悠真は答えない。
(越えられぬものか)
一拍。
(違う)
孔明の声は静かだった。
(壁とは、登る場所だ)
悠真は目を閉じた。
壁は見えた。
はっきりと。
今までで一番大きな壁が。
時間の壁。
積み上げの壁。
経験の壁。
早く始めた者たちが作った、見えない高さ。
だが、初めてだった。
敵の姿がここまで鮮明に見えたのは。
悠真はノートを開く。
新しいページ。
ゆっくり書く。
壁。
その下に、もう一行。
登る。
ペンが止まる。
答えはまだない。
越えられる保証もない。
だが、分かったことがある。
普通のやり方では勝てない。
同じ量を、同じ速度で積むだけでは追いつかない。
ならば、考えるしかない。
どこを登るか。
何を捨てるか。
何から積むか。
誰の力を借りるか。
その事実が、少しだけ怖かった。
そして、少しだけ面白かった。




