第12話「戦えない戦」
第十二話 戦えない戦
机の前。
問題集は開いていた。
だが、手は動かなかった。
森岡悠真は、ただ座っていた。
ペンは持っている。
それなのに、一文字も書けない。
問題は分かる。
解法も、途中までは見えている。
解けるはずだった。
だが、身体が動かない。
「……やれよ」
小さく呟く。
自分に向けて。
だが、何も変わらない。
視線だけが問題文の上を滑る。
速さと比。
昨日も解いた。
先週も解いた。
塾でもやった。
模試でも見た。
何度も見た形だった。
それでも、今日はやりたくなかった。
頭の中に浮かぶ。
順位表。
偏差値。
判定。
Aクラスのライン。
TZ選抜の名前。
藤堂優駿。
附設。
ラ・サール。
上位者たち。
最近は分かる。
彼らが何をしているか。
どんな勉強をしているか。
どれだけ早く始めているか。
どれだけ積み上げているか。
どれだけ情報を持っているか。
だからこそ。
(届かない)
その感覚が消えなかった。
「……意味あんのか」
言葉が漏れた。
初めてだった。
勉強をしたくないのではない。
サボりたいのでもない。
ただ、何のためにやっているのか分からなくなっていた。
やれば少しは伸びる。
それは分かっている。
実際、順位は上がっている。
ミスも減っている。
前よりは戦えている。
だが、それでも届かない。
上には、もっと早く始めた者がいる。
もっと多く解いてきた者がいる。
もっと良い情報を持っている者がいる。
もっと強い環境で鍛えられている者がいる。
努力しても、差が見える。
伸びても、壁が高くなる。
それが苦しかった。
扉が開いた。
母だった。
「まだ起きてたの?」
悠真は答えなかった。
机。
問題集。
白いノート。
止まったペン。
母はすぐに気づいた。
何かがおかしい。
「どうしたの?」
静かな声だった。
悠真はしばらく黙った。
言えば、何かが崩れる気がした。
だが、黙っていても同じだった。
「……無理かも」
母の表情が止まった。
「何が?」
「全部」
短い言葉だった。
だが、その二文字に全てが詰まっていた。
附設も。
ラ・サールも。
上位クラスも。
藤堂との差も。
これまでの遅れも。
これからの努力も。
全部。
母は何も言わなかった。
励まさない。
否定しない。
叱らない。
「大丈夫」とも言わない。
ただ、隣に立っていた。
しばらくして、母は小さく言った。
「そう」
それだけだった。
その一言が重かった。
母は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静寂。
時計の音だけが聞こえる。
悠真は天井を見上げた。
思い出す。
野球。
グラウンド。
試合。
遠征。
仲間。
歓声。
負けて泣いた日。
勝って笑った日。
全部覚えている。
楽しかった。
後悔はない。
野球をしていた時間が無駄だったとは思いたくない。
だが、その時間。
誰かは机に向かっていた。
小三から。
小四から。
毎日。
積み上げていた。
自分がボールを追っていた時間に、誰かは問題を解いていた。
自分が遠征に行っていた時間に、誰かは講習を受けていた。
自分が試合で負けて泣いていた時間に、誰かは模試で負けて解き直していた。
(差はある)
分かっている。
(埋まるのか)
分からない。
机に向き直る。
問題集を開く。
白紙のノート。
何を書けばいいのか分からない。
その時だった。
孔明が言った。
(現実だ)
短い言葉だった。
慰めではない。
否定でもない。
(戦えぬ戦は存在する)
悠真は眉をひそめた。
「そんなの、戦じゃねぇだろ」
孔明は少しだけ黙った。
そして答える。
(そう思うなら、まだ理解しておらぬ)
「何をだよ」
(戦そのものをだ)
静寂。
孔明は続ける。
(戦とは、勝てる戦だけを指すのではない)
悠真は黙った。
(勝てるか分からぬ)
一拍。
(だから戦う価値がある)
夜の部屋に、孔明の声だけが落ちる。
(負けるかもしれぬ)
さらに続く。
(だから覚悟が問われる)
悠真は、ペンを握り直した。
だが、まだ書けない。
(本当に恐れているのは何だ)
問いだった。
悠真は答えなかった。
だが、答えは分かっていた。
不合格。
それも怖い。
順位が落ちること。
それも怖い。
母をがっかりさせること。
それも怖い。
だが、一番怖いのは、それではなかった。
努力したのに届かなかった未来。
本気でやったのに、結局届かなかった自分。
それを見せつけられることが怖かった。
孔明は静かに言った。
(逃げるなら今だ)
悠真が顔を上げる。
「……は?」
(誰も責めぬ)
「何言ってんだよ」
(野球をしていた。始めるのが遅かった。情報が足りなかった。環境が違った。理由はいくらでもある)
静寂。
悠真は何も言えなかった。
全部、使える言い訳だった。
しかも、完全な嘘ではない。
実際に遅れている。
実際に差はある。
実際に環境は同じではない。
孔明は続ける。
(だが)
一拍。
(戦うと決めるなら、言い訳は捨てろ)
悠真は拳を握った。
悔しい。
腹が立つ。
だが、その通りだった。
差があることと、言い訳にすることは違う。
遅れていることと、諦めることは違う。
勝てないかもしれないことと、戦わないことは違う。
悠真はノートを開いた。
白紙のページ。
ゆっくり書く。
逃げるか。
戦うか。
ペンが止まる。
時計の針が進む。
窓の外で、車の音が遠く過ぎていった。
悠真は、もう一度ペンを動かした。
戦う。
文字は小さかった。
だが、震えてはいなかった。
その瞬間、孔明は何も言わなかった。
褒めもしない。
励ましもしない。
勝てるとも言わない。
ただ、沈黙していた。
その沈黙が、逆に答えのようだった。
悠真は問題集を見た。
速さと比。
さっきまで、どうしても手が動かなかった問題。
ペンを置く。
すぐには解かない。
代わりに、ノートの下にもう一行だけ書いた。
戦えない戦を、どう戦うか。
静かな夜だった。
森岡悠真は初めて、偏差値ではなく、覚悟と向き合っていた。




