第13話 母の兵站
第十三話 母の兵站
机の上に、紙が並んでいた。
願書ではない。
まだ本番は先だった。
だが、それは受験そのものに見えた。
学校案内。
偏差値表。
塾でもらった併願パターン。
模試の判定表。
過去問の出題傾向。
母が何度も書き直したカレンダー。
森岡悠真は、その全てを見ていた。
問題集ではない。
模試でもない。
点数でもない。
だが、これも受験だった。
カレンダーには、赤い文字が並んでいる。
一月中旬。
一月下旬。
二月上旬。
学校名。
午前。
午後。
移動。
発表。
入学金締切。
手続き期限。
そこには、附設、ラ・サール、青雲、早稲田佐賀、弘学館といった名前が並んでいた。
第一志望。
挑戦校。
実力相応校。
安全校。
県外受験。
前受け。
悠真は静かに眺める。
(多いな)
最初の感想はそれだった。
だが、孔明はすぐに言った。
(少ない)
「は?」
(戦として見れば、まだ少ない)
悠真は苦笑した。
受験を戦として見る人間など、普通はいない。
だが、今の自分は違った。
前の夜、悠真は絶望していた。
壁を見た。
勝てないかもしれないと思った。
努力しても届かない未来を想像した。
絶望した。
だからこそ、初めて見えるものがあった。
学力だけではない。
受験全体の構造。
母は資料を見ながら言った。
「本当に、これでいいのかな」
小さな声だった。
何度目か分からない確認。
その声を聞いて、悠真は初めて気づいた。
母も迷っている。
母も怖い。
自分だけが戦場に立っているわけではない。
「これ、全部受けるつもり?」
悠真が聞いた。
「全部とは限らないよ」
母はカレンダーを見つめた。
「でも、考えておかないといけないの」
「何を?」
「もし、最初に落ちたらどうするか」
空気が少し重くなった。
母は続ける。
「もし、思ったより取れたらどうするか」
一拍。
「もし、体調を崩したらどうするか」
悠真は黙った。
そんなこと、考えたことがなかった。
自分はずっと、点数だけを見ていた。
偏差値。
順位。
判定。
藤堂優駿との差。
Aクラスのライン。
だが、母が見ていたのは違った。
日程。
移動。
手続き。
締切。
費用。
体調。
精神状態。
合格後の選択。
それは、勉強ではない。
だが、確かに戦力だった。
(兵站だ)
孔明が言った。
(戦場に立つ兵だけで、戦は成り立たぬ)
母はカレンダーの一か所を指さした。
「ここで一つ合格があると、気持ちが全然違うと思う」
悠真はそこを見る。
第一志望ではない。
だが、意味のある学校だった。
「一つ欲しいってこと?」
「うん」
母は頷いた。
「たった一つでも、合格があると次を戦えると思う。逆に、全部不合格のまま進むと、気持ちがもたないかもしれない」
悠真は息を吐いた。
合格。
たった一つ。
それだけで精神状態は変わる。
第一志望で落ちたとしても、どこかに合格があれば戦える。
逆に、全敗のままなら崩れるかもしれない。
それが受験だった。
(精神も戦力だ)
孔明が言う。
悠真は頷いた。
以前は考えなかった。
点数だけ。
偏差値だけ。
それだけ見ていた。
だが今は違う。
人間も資源だった。
体力も。
集中力も。
感情も。
移動時間も。
睡眠も。
合格の有無も。
全てが戦力になる。
母が言う。
「第一志望がダメだったら?」
悠真は視線を落とした。
第一志望。
その学校だけは特別だった。
自由な校風。
難問。
伝統。
憧れ。
塾の上位層が当然のように口にする名前。
十二話までの悠真なら、そこで思考が止まっていた。
落ちたくない。
受かりたい。
ただ、それだけだった。
だが、今は違う。
(感情を除け)
孔明が言う。
悠真は息を吐いた。
「次を取る」
短い答えだった。
母は少しだけ表情を変えた。
「そんな簡単に切り替えられる?」
「分からない」
悠真は正直に答えた。
「でも、切り替えないと終わる」
それは、自分自身への言葉でもあった。
受験は一校では終わらない。
負けても、次がある。
勝っても、次がある。
喜んでも、落ち込んでも、翌朝にはまた試験が来る。
母は資料をめくる。
「ここは挑戦校」
「うん」
「かなり難しいよ」
「知ってる」
「じゃあ、なんで入れるの?」
悠真は過去問のコピーを指差した。
「相性」
母が首を傾げる。
「偏差値は上だよ?」
「でも、相性は悪くない」
算数。
理科。
社会。
国語。
問題の癖。
時間配分。
配点。
記述の量。
計算の重さ。
得点源。
学校によって全てが違う。
偏差値だけでは測れない。
それを初めて理解していた。
(数字だけを見る者は敗れる)
孔明が言う。
悠真は少しだけ笑った。
心太がソファで本を読んでいた。
聞いていないようで、聞いている。
「兄ちゃん」
「ん?」
「全部、行きたい学校なの?」
その質問で、空気が止まった。
母も動きを止める。
悠真は言葉に詰まった。
全部、行きたい学校なのか。
違う。
全部が第一志望ではない。
全部に同じ憧れがあるわけでもない。
だが。
全部、意味のある学校だった。
「全部」
悠真は考えながら答える。
「行く可能性がある学校」
心太は頷いた。
「ふーん」
それだけだった。
だが、その問いは残った。
受験は、合格する戦いだけではない。
選ぶ戦いでもある。
母が静かに言う。
「本当はね」
悠真は顔を上げる。
「第一志望に受かってくれたら、それでいいんだけどね」
本音だった。
母の。
そして、悠真自身の。
その学校に受かれば、全部報われる。
努力も。
悔しさも。
遅れも。
焦りも。
あの夜の「無理かも」も。
全部。
だが、孔明は言った。
(一つに全てを賭けるな)
悠真はカレンダーを見る。
複数の学校。
複数の日程。
午前と午後。
発表と手続き。
移動と休息。
それは弱気ではない。
保険でもない。
勝率を上げるための配置だった。
「第一志望は全力で行く」
悠真が言う。
母は黙って聞く。
「でも、そこだけで終わらせない」
静かな声だった。
「先に一つ取る」
「負けたら次で修正する」
「合格しても浮かれない」
「不合格でも止まらない」
受験生の言葉ではなかった。
指揮官の言葉だった。
母はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「分かった」
その一言には、覚悟があった。
親もまた戦っている。
弁当。
移動。
ホテル。
体調管理。
受験料。
合格発表。
手続き。
入学金。
次の試験への切り替え。
全部。
子どもだけの戦いではない。
夜。
自室。
悠真はノートを開いた。
白いページ。
大きく書く。
戦場設計。
その下に並べる。
前受け 精神安定。
第一志望 最大出力。
午後受験 合格確保。
挑戦校 相性勝負。
安全校 最終防衛。
書くたびに、頭が整理される。
そして最後に、もう一行。
結果に引きずられない。
合格しても浮かれない。
不合格でも止まらない。
ペンが止まる。
少し考える。
そして、ゆっくり書いた。
戦場を誤るな。
その文字を見て、悠真は少しだけ笑った。
「分かってるよ」
誰に言ったのか、自分にも分からない。
だが、頭の奥で孔明が静かに笑った気がした。
受験まで、まだ時間はある。
だが、戦はもう始まっている。
以前の悠真は、問題だけを見ていた。
今は違う。
戦場全体が見えている。
見えているから怖い。
だが、見えているから戦える。
母が作ったカレンダー。
何度も書き直された赤い文字。
その一つ一つが、悠真には初めて、ただの予定ではなく作戦図に見えた。




