表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偏差値は戦である  作者: 受験孔明
第一部 転生と初戦〜中学受験編
3/27

第3話「弱兵」

第三話 弱兵


 朝。


 目が覚めた瞬間、悠真は天井を見ていた。


 白い天井。

 カーテンの隙間から差し込む朝の光。

 机の上に積まれた問題集。

 昨日開いたままのノート。


 いつもと同じ部屋だった。


 だが、違和感があった。


(遅いな)


 声がした。


 頭の中。


 いや、胸の奥。


 耳で聞こえたわけではない。

 けれど、確かに言葉として届いた。


「……何が」


(反応だ)


 悠真は眉をひそめた。


 意味が分からない。


 時刻は六時五十二分。


 目覚ましは六時半に鳴ったはずだった。


 一度止めた。

 そのあと、もう少しだけと思った。


 そして今だ。


(起床としては遅い。だが、問題は時刻ではない)


「じゃあ何だよ」


(ここから何をするかだ)


 悠真はベッドの上でしばらく動かなかった。


 眠い。

 だるい。

 学校に行きたくない。


 そのまま枕元のスマートフォンに手を伸ばす。


(それは不要だ)


「ちょっとだけ」


 画面を開く。


 動画。

 通知。

 短い文字。

 誰かの投稿。

 どうでもいい情報。


 指だけが勝手に動いた。


 一つ見たら、次が出る。

 次を見たら、その次が出る。


(戦う前に、集中を削っている)


「朝からうるさいな」


(これが弱さか)


「誰が弱いって?」


 返事はなかった。


 その沈黙が、余計に腹立たしかった。


 階下に降りると、母がキッチンに立っていた。


「悠真、早く食べなさい。時間ないよ」


 テーブルには、トーストと卵。

 ヨーグルト。

 小さな皿に切られたりんご。


 母は弁当箱を閉じながら、時計を見た。


「昨日の算数、直しまで終わった?」


「やった」


 悠真は椅子に座りながら答えた。


 嘘ではない。


 ノートは開いた。

 赤ペンで答えも写した。

 解説も一応読んだ。


 ただし、もう一度解けるかと言われると、分からない。


 新聞を読んでいた父が、ふと顔を上げた。


 森岡誠司。


 仕事用のシャツ。

 静かな表情。


 朝から感情を大きく動かす人ではない。


「復習はしたのか」


 それだけだった。


 責めているわけではない。

 声を荒げてもいない。


 だが、悠真の手が止まった。


「……したよ」


 父はそれ以上、何も言わなかった。


 新聞に視線を戻す。


(母は前線に出すぎる。父は遠すぎる。兵站としては不安定だ)


「へいたんって何だよ」


 悠真が小さくつぶやく。


「何?」


 母が振り返る。


「いや、何でもない」


 そのとき、階段から足音がした。


「兄ちゃん、それ昨日も同じの見てたよね」


 弟の森岡心太だった。


 小学四年生。


 手には文庫本。

 階段を降りながら読んでいる。


(危ないな)


 悠真はそう思った。


 だが、心太はぶつからなかった。


 本に視線を落としたまま、椅子の位置も、母の立つ場所も、テーブルの角も避けて歩いてくる。


(視線は文字。だが、周囲も把握している)


 孔明の気配が、わずかに動いた。


(処理能力が高い)


「うるせぇな」


 悠真はトーストをかじった。


「てか、お前、読むの速くね?」


 心太はページをめくる。


「普通」


(普通ではない)


 孔明が即座に言う。


 悠真は心の中で舌打ちした。


 最近、心太を見るたびに少し嫌な気持ちになる。


 何でもない顔で本を読む。

 何でもない顔で問題を解く。

 別に努力しているようにも見えない。


 なのに、できる。


 それが腹立たしかった。


「何読んでんの」


「推理小説」


「分かるのか?」


 心太は顔を上げた。


「分かるっていうか、書いてあるじゃん」


 悠真は鼻で笑った。


「はいはい、天才くん」


 その言い方に、母が少しだけ眉を寄せた。


 だが何も言わなかった。


 心太も怒らなかった。


 ただ、トーストを手に取りながら、ぽつりと言った。


「兄ちゃんさ」


「何」


「問題、ちゃんと読んでないでしょ」


 空気が、一瞬止まった。


「は?」


「この前のやつ。条件、途中で変わってたのに、同じ式でやってた」


 悠真は言葉に詰まった。


 心太は淡々としている。

 責めている様子もない。

 馬鹿にしている様子もない。


 ただ、見たものをそのまま言っているだけだった。


(見ていたか)


 孔明の声が、わずかに興味を帯びた。


(この弟、観測精度が高い)


「……たまたまだろ」


 悠真は目を逸らした。


 心太は、もう興味を失ったように本へ視線を戻す。


「たまたまが多いから、負けるんじゃないの」


 母の手が止まった。


 悠真の顔が強張る。


「お前に何が分かるんだよ」


「分からないよ」


 心太は淡々と言った。


「でも、兄ちゃんは、自分が何で間違えるか知らない」


 それだけ言って、心太は静かに本を読み始めた。


 悠真は何も言えなかった。


 図星だった。


 自分が間違えた問題は覚えている。


 だが、なぜ間違えたかは覚えていない。


 計算ミス。

 読み違い。

 焦った。

 時間がなかった。


 いつも、そんな言葉で終わらせてきた。


 だが、それは理由ではない。


 ただの言い訳に近かった。


(使えるな)


 孔明が言った。


「弟を道具みたいに言うな」


(戦場では、観測できる者は貴重だ)


「だから何なんだよ、観測って」


 孔明は答えなかった。


 学校。


 教室はすでにざわついていた。


「悠真! 昨日の算数やった?」


 声をかけてきたのは、佐伯拓真だった。


 クラスでは中の上。

 真面目で、悪意はない。

 ただ、思ったことをそのまま言う。


「やったけど」


「最後むずくね?」


「いや、普通」


 悠真は即答した。


(解けたのか)


 孔明が問う。


「解けたよ」


(再現できるのか)


 悠真は黙った。


「答え、いくつだった?」


 拓真が聞く。


「……六百八十」


「え、六百四十じゃね?」


 空気が止まった。


 悠真の頭の中で、昨日の問題が巻き戻る。


 定価八百円。

 二割引き。

 残りは八割。

 八百かける〇・八。


 六百四十。


 分かっていた。


 昨日、分かっていたはずだった。


「……あー」


 拓真が笑う。


「やっぱ間違えてんじゃん」


「うるせぇな」


「お前、速いけど雑なんだよな」


 軽い言葉だった。


 だが、本質だった。


(評価は正確だ)


 孔明が言った。


 悠真は机の下で拳を握った。


 悔しい。


 だが、否定できない。


 授業。


 算数の時間。


 黒板に問題が書かれる。


「ある仕事をAとBで行うと六日で終わる。Aだけだと十日かかる。このときBだけで行うと何日かかるか」


 教室がざわついた。


「これ無理だろ」

「仕事算じゃん」

「嫌いなやつ」


 悠真はすぐにペンを走らせた。


 Aだけなら十日。

 二人なら六日。


 差を見ればいい。


 なんとなく、いける。


 式を組む。


 けれど、途中を飛ばす。


 頭の中で処理する。

 手は答えだけを書きたがる。


 十二日。


(誤り)


 孔明の声がした。


「うるさい」


(仕事量を一と置け)


「めんどい」


(面倒ではない。再現性だ)


 悠真の手が止まった。


 孔明が、言葉を置くように思考を流し込む。


 全体の仕事量を一。


 Aの一日の仕事量は十分の一。


 AとBの一日の仕事量は六分の一。


 Bの一日の仕事量は、六分の一から十分の一を引く。


 通分。


 三十分の五から、三十分の三。


 三十分の二。


 つまり、十五分の一。


 だから、十五日。


 悠真は、渋々ノートに書いた。


 仕事量=一

 A=十分の一

 A+B=六分の一

 B=六分の一−十分の一=十五分の一


 答え、十五日。


 しばらくして、先生が解説する。


 ほぼ同じだった。


「……合ってる」


(当然だ)


「なんでそんな面倒な書き方すんの」


(本番で崩れぬためだ)


 悠真はノートを見た。


 確かに、答えだけを書くより遅い。


 だが、途中の流れが残っている。


 間違えても、どこで間違えたか分かる。


 それは、少しだけ気持ち悪かった。


 今までの自分のノートには、結果しかなかった。


 答え。

 丸。

 バツ。

 赤で写した解説。


 でも、自分がどう考えたかは残っていなかった。


(負け方が残っていない兵は、同じ場所で死ぬ)


 孔明が言った。


「言い方」


 悠真は小さくつぶやいた。


 放課後。


 グラウンドでボールを蹴る音が響いた。


 悠真は走った。


 身体はよく動く。

 反応も速い。

 勝負になれば、自然と前に出られる。


(身体能力は高い)


 孔明は観測する。


(だが、時間配分が悪い)


 悠真はボールを追いながら、内側の声を無視した。


 走っている間は、何も考えなくて済む。


 点数。

 順位。

 志望校。

 母の顔。

 父の沈黙。

 弟の言葉。


 全部、遠くなる。


 だから、楽だった。


 夜。


 机に向かった。


 問題集を開く。


 だが、集中が続かない。


 鉛筆を持つ。

 解く。

 すぐに飽きる。

 消しゴムのカスを丸める。

 時計を見る。

 水を飲む。

 別のページをめくる。


(持続力が低い)


「今日もういいだろ」


(逃げだな)


「うるさい」


(事実だ)


「だったら何なんだよ。ずっと勉強しろってことかよ」


(違う)


 孔明の声は静かだった。


(まず、現戦力を把握する)


 悠真はペンを置いた。


「現戦力?」


(計算力、高。理解、中。精度、低。集中、低。自己分析、欠如)


「……何だそれ」


(総合)


 孔明は短く告げた。


(弱兵)


 悠真の顔が変わった。


「誰がだよ」


(お前だ)


「は?」


(武はある。だが統制がない。戦えば、必ず崩れる)


 部屋が静かになった。


 外から車の音が聞こえる。

 リビングから母が食器を片づける音がする。


 悠真は拳を握った。


 悔しい。


 だが、否定できなかった。


 速いと言われたことはある。

 頭の回転が悪くないと言われたこともある。

 惜しいと言われたことは、何度もある。


 でも、勝ったことは少ない。


 大事なところで落とす。

 あと少しで届かない。

 分かっていた問題を間違える。


 それを、運が悪かったと思っていた。


 違う。


 崩れるように戦っていたのだ。


「じゃあ、どうすんだよ」


 声が低くなる。


 初めて、悠真は逃げずに問い返した。


 孔明は即答した。


(整える)


「何を」


(生活)


「は?」


(勉強)


「それは分かるけど」


(思考)


 孔明の声が、少しだけ重くなった。


(そして、敵の見方だ)


「敵?」


(お前が勝てぬ理由)


 悠真は黙った。


(そして、お前より上にいる者たち)


 翌日。


 英修館の廊下に、模試の順位表が貼り出されていた。


 全国小学生統一模試。


 人だかりができている。


「うわ、また藤堂だ」

「化け物じゃん」

「偏差値七十超えって何」

「全科目でこれ?」


 悠真は人だかりの後ろから、順位表を見た。


 一位。


 藤堂優駿。


 数字の横に、異様なほど整った名前があった。


 偏差値は七十を超えていた。


 悠真の順位は、ずっと下だった。


 探すのに時間がかかった。


 ようやく見つけた自分の名前は、上位ではない。


 悪くはない。


 でも、目立たない。


 中途半端な位置。


 悔しがるには言い訳ができる。

 安心するには低すぎる。


 そんな順位だった。


 藤堂優駿の名前だけが、遠くにあった。


 届かない。


 そう思った瞬間、孔明の声がした。


(見つけたぞ)


 悠真は息を止める。


「何を」


(戦場の頂だ)


 順位表の一番上。


 藤堂優駿。


 その名だけが、妙に鮮明に見えた。


「敵ってことか」


(違う)


 孔明は言った。


(敵と呼ぶには、まだ遠すぎる)


 悠真は唇を噛んだ。


 その言葉は、藤堂よりも自分を刺した。


(まずは、観ろ)


「観る?」


(なぜ勝っているのか。何を落とさないのか。どこで差がつくのか。勝者を憎むな。分析せよ)


 順位表の前で、悠真は初めて藤堂優駿という名前を見つめた。


 ただの一位ではない。


 そこには、自分に足りないものが並んでいる気がした。


 精度。

 習慣。

 準備。

 情報。

 親の判断。

 塾での位置。

 本番で崩れない型。


 孔明の声が、静かに落ちた。


(戦場が、ようやく形を持った)


 悠真は何も言えなかった。


 ただ、その名前から目を離せなかった。


 藤堂優駿。


 まだ敵ではない。


 だが、いつか届かなければならない場所。


 その日、悠真は初めて、自分がどれほど弱い兵なのかを知った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ