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偏差値は戦である  作者: 受験孔明
第一部 転生と初戦〜中学受験編
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2/50

第2話 期限付きの軍師」

第二話 期限付きの軍師


 音が消えていた。


 光もない。

 闇でもない。


 ただ、思考だけが存在している。


(……終わったか)


 諸葛亮孔明は、静かにそう判断した。


 驚きはなかった。

 恐れもなかった。


 状況を把握し、受け入れ、次の手を考える。


 それが、最も合理的だった。


 ここには肉体がない。

 時間の流れも曖昧だった。

 上下も、前後も、距離もない。


 ただ、無数の光が浮かんでいた。


 揺らめくそれらは、形を持たない。

 だが孔明には分かった。


 これは命だ。


 まだ選ばれていない人生。

 これから始まる可能性。

 誰かの器。

 誰かの未来。


 孔明は、その一つ一つを観察した。


 情報は断片的だった。


 環境。

 親。

 知能。

 性格。

 資源。

 習慣。

 孤独。

 執着。

 折れやすさ。


 それだけで十分だった。


(これは、才はあるが続かぬ)

(これは、環境は良いが自我が弱い)

(これは、親が先に壊れる)

(これは、器は大きいが火がない)


 選別は速かった。


 強い器はある。

 整った器もある。

 勝つべくして勝つ器もある。


 だが、孔明の興味はそこにはなかった。


 完成された勝者は、つまらない。


 勝つ理由が最初から揃っている者に、軍師はいらない。


 そのとき、声が響いた。


「選べ」


 方向のない空間で、声だけが落ちた。


 孔明は振り返らなかった。

 この場所において、振り返るという動作に意味はない。


「条件を」


 即座に返す。


 沈黙が一瞬だけ流れた。


「次の場を与える。ただし、完全ではない」


「完全ではない、とは」


「本体では降りられぬ」


 孔明は、理解した。


(分霊か)


 自分という巨大な存在のすべてではない。

 切り離された一部。

 記憶も、能力も、存在も、限定される。


「誰かに憑くのか」


「そうだ」


「主導権は」


「保証しない」


「期間は」


「有限」


(短期戦)


 孔明は思考を加速させる。


 長期育成ではない。

 幼少から積み上げる余裕もない。

 初期条件が重要になる。


「勝敗条件は」


「定めぬ」


 その一言で、孔明は理解した。


 自由戦。


 だが、完全な自由ではない。

 戦場に放り込まれ、状況に応じて選択を迫られる。


 その選択の質が問われる。


「面白い」


 声は出なかった。

 だが、思考として確かにそう言った。


「なぜ人間だ」


 孔明は問うた。


「他の存在もあるだろう」


 鳥。

 獣。

 あるいは、もっと単純な命。


 返答は早かった。


「人間が最も選択を行う」


 戦。

 政治。

 経済。

 教育。

 家族。

 欲。

 見栄。

 敗北。


「現代の人間社会において、選別が最も明確に可視化される場がある」


「受験か」


 孔明は先に言った。


 声は否定しなかった。


 受験。


 紙一枚で、序列が決まる。

 数字一つで、可能性が広がる。

 合格か、不合格かで、家族の空気すら変わる。


 努力。

 環境。

 情報。

 資金。

 親の判断。

 本人の適性。

 塾の位置。

 志望校の選び方。

 捨て問の判断。

 本番の精神。


 すべてが結果に集約される。


(なるほど)


 孔明は静かに思った。


(これは、戦として成立している)


 単なる学問ではない。

 綺麗な努力物語でもない。


 勝つ者には勝つ理由がある。

 負ける者にも、負ける理由がある。


 しかも、残酷なことに。


 当事者の多くは、その理由を知らないまま戦場に立つ。


「なぜ俺だ」


 孔明は問う。


「観測者として長く居すぎた」


 孔明は黙った。


「そろそろ、当事者になれ」


 その言葉だけが、わずかに引っかかった。


 観測者。


 聞き慣れない言葉ではない。

 だが、今の声が使ったそれは、孔明の知る意味とは少し違っていた。


 観る者。

 記録する者。

 戦に介入せず、盤面だけを眺める者。


 だが、この空間でその言葉は、もっと深い意味を持っているように感じた。


「俺は、いつか忘れるのか」


 孔明は問うた。


 沈黙。


 それだけで十分だった。


「なるほど」


 記憶は保証されない。

 存在も保証されない。

 名も、形も、いずれ薄れるかもしれない。


 ならば残すべきは、自分ではない。


 戦い方だ。


「対象は」


 無数の光が、わずかに収束した。


 その中の一つが、前に出る。


「これだ」


 孔明は、その光に意識を向けた。


 瞬間、情報が流れ込んだ。


 森岡悠真。

 小学六年。


 能力は高い。


 計算速度、優秀。

 そろばん経験あり。

 直感も悪くない。

 勝負勘もある。


 だが――


(雑だな)


 符号ミス。

 読み飛ばし。

 条件の見落とし。

 途中式を省く癖。

 できる問題ほど急ぐ。

 分かっている問題ほど確認しない。


(武はある。だが、統制がない)


 さらに情報が入る。


 家庭。


 母、美沙。

 関与は強い。

 準備もしている。

 送迎。弁当。過去問。模試管理。

 兵站としては悪くない。


 だが、母自身も戦場の全体像を見切れていない。


 父は距離がある。

 無関心ではない。

 だが、戦局には深く入っていない。


(父が離れ、母が抱え、子が黙る。よくある敗勢の形だ)


 そして、弟。


 森岡心太。


 孔明は、そこで一瞬だけ思考を止めた。


(ほう)


 読解力が高い。

 処理が速い。

 記憶も強い。

 空気を読む力もある。


 だが、本人に自覚がない。


 努力で積み上げた才ではない。

 最初から、できてしまう種類の才。


(兄は努力型の未完成。弟は才能型の未開発)


 対比としては、面白い。


 環境は悪くない。

 だが、このままでは勝てない。


 努力量だけでは足りない。

 教材を増やしても足りない。

 塾に通うだけでも足りない。


 戦場を組み替える必要がある。


 そのとき、別の光が見えた。


 同世代。

 知能、高。

 環境、優。

 習慣、安定。

 親の判断、的確。

 勝率、極めて高い。


 孔明は一瞥した。


(強いな)


 だが、興味は薄かった。


 あれは勝つ。

 放っておいても勝つ。


 軍師を必要とする者ではない。


 孔明は再び、森岡悠真の光を見た。


 勝率は低い。

 欠陥は多い。

 本人は自分の弱さを知らない。

 母は手を尽くしているが、手の打ち方が整理されていない。

 父は遠い。

 弟の才能は、兄に影を落とす可能性がある。


 だが、敗北したときに折れ切らない芯がある。


 自分を責める弱さがある。

 それでも、どこかで納得していない火がある。


 孔明は結論を出した。


「これに憑く」


 即決だった。


「理由は」


「素材が良い」


 短く答える。


「だが未完成」


 孔明は続けた。


「短期戦に向く」


 声は、わずかに沈黙した。


 やがて。


「許可する」


 その瞬間、光が収束した。


 意識が引き裂かれる。


 落ちる。

 圧縮される。

 削られる。

 薄くなる。


(なるほど)


 孔明は、自分という存在が小さくなっていくのを感じた。


 本体ではない。

 完全ではない。


 記憶も、思考も、器に合わせて制限される。


 それでも十分だった。


 軍師は、すべてを持たずとも戦える。


 必要なのは、盤面を見る目。

 敵を測る目。

 味方を動かす目。


 そして、負けを無意味にしない意志。


 光が裂けた。


 次に見えたのは、白い天井だった。


(ここか)


 視界が安定する。


 身体の感覚は重い。

 眠気がある。

 集中が散っている。


 机。

 問題集。

 消しゴムのカス。

 丸まったプリント。

 飲みかけの麦茶。

 壁に貼られた塾の予定表。


 算数の問題集が開かれていた。


 割合。


 途中で止まっている。


(逃げたな)


 すぐに分かった。


 ペンは握られていない。

 問題の横には、途中式がない。

 答えだけが雑に書かれている。


 そのとき、内側から声が弾けた。


「やりたくねぇ……」


(これが本体か)


 森岡悠真。


「今日は無理だって」

「さっきから同じような問題ばっかだし」

「分かってるし」


 孔明は無視した。


 問題を見る。


『定価八百円の品物を二割引きで売るときの価格を求めよ』


 浅い問題だ。


 だが、浅い問題ほど癖が出る。


 悠真の内側の声が言う。


「六百四十円だろ」


 答えは合っている。


 だが孔明は、そこでペンを動かした。


 八百円を基準にする。

 基準を一と置く。

 二割引きは、二割を引くこと。

 つまり、残るのは八割。

 八百に〇・八をかける。


 式を書く。


 八百×〇・八=六百四十


 その横に、さらに書く。


 基準=一

 割引=減少

 残り=一−〇・二


 悠真が戸惑う。


「……なんで書くの、それ」


 孔明は答えない。


 答えだけなら、出せる。

 だが、それでは勝てない。


 この少年は、問題が解けないのではない。

 解ける問題を、戦力に変える方法を知らない。


 できた。

 分かった。

 合っていた。


 その三つを同じものだと思っている。


(危うい)


 孔明は次の問題を見た。


 食塩水。

 速さ。

 割合。

 場合の数。

 図形。


 問題そのものより、悠真の解き方を見た。


 速い。

 だが荒い。


 思いつきで動く。

 途中で検証しない。

 間違えた問題を、次の戦に使える形で残していない。


(兵はいる。だが隊列がない)


 この戦、単純ではない。


 速さだけでは勝てない。

 精度だけでも足りない。

 暗記だけでも届かない。

 親の熱量だけでも壊れる。

 塾の順位だけを追えば、志望校を誤る。


 環境も絡む。

 情報も絡む。

 親も絡む。

 弟も絡む。

 本人の弱さも絡む。


(面白い)


 わずかに、思考が弾んだ。


 だが同時に、頭の奥で軋みが走った。


 期限。


 孔明は理解した。


 長くはない。


 この分霊は、いつまでも保たない。

 濃く関与すればするほど、早く削れる。

 強く動かせば動かすほど、悠真本人の意思も歪む。


 これは遊戯ではない。


 時間制限付きの戦だ。


 敗北は許される。


 だが。


(無意味な敗北は、許されぬ)


 孔明は静かに結論を出した。


 まず必要なのは、問題集を進めることではない。

 偏差値を上げることでもない。

 志望校を叫ぶことでもない。


 戦場を把握すること。


 孔明は、初めて悠真に言葉を投げた。


「ここは、どこだ」


 内側が静まり返った。


 数秒後、悠真が反応する。


「……は?」


 当然の反応だった。


 孔明は、もう一度問う。


「ここは、どこだ」


「俺の部屋だけど」


「違う」


「いや、俺の部屋だろ」


「お前は、部屋にいるのではない」


 孔明は、机の上の問題集を見た。

 塾の予定表を見た。

 積まれたプリントを見た。

 空欄のままの解き直しノートを見た。


 そして告げた。


「お前は、戦場にいる」


 悠真は黙った。


「戦場を誤るな」


 孔明の声が、静かに落ちる。


「ここから先、お前が相手にするのは問題ではない」


 ページが、風もないのに一枚めくれた。


「敵は、他人ではない」


 もう一枚、紙が揺れた。


「己の弱さを知らぬ己だ」


 悠真の呼吸が止まる。


 孔明は、最初の命令を下した。


「まずは、負け方を記録せよ」


 受験票も、合格発表も、まだ先にある。


 だがこの瞬間、森岡悠真の戦は始まった。


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