第1話「不合格」
あらすじ
かつて戦を支配した男――諸葛亮孔明。
その魂が転生先に選んだのは、“戦とは無縁に見える現代日本”、そして一人の凡庸な少年だった。
だが、その戦場はすぐに姿を現す。
机の上。偏差値。塾。家庭。
すべては勝ち負けで切り分けられる、逃げ場のない戦場だった。
母の期待、父の沈黙、削られていく自尊心。
「勝てなければ、すべてが無意味になる」――そんな狂気の中で、少年は戦い続ける。
孔明の戦略が導くはずだった勝利。
しかし、本番で突きつけられたのは――不合格。
すべてを失ったはずの敗北の夜。
それでも少年は、再び机に向かう。
なぜか。
それはもう、“合格のため”ではない。
“戦うため”だ。
これは、敗北から始まる戦記。
机の上に築かれた、現代の戦場で――
少年と孔明は、再び戦を始める。
第一話 敗北の日
静まり返った廊下に、紙が一枚、貼られていた。
人だかりはできている。
けれど、不思議なほど音がない。
ざわめきはある。
靴音もある。
誰かが息を呑む気配もある。
それでも、それらは“声”ではなかった。
ただ、空気が揺れているだけだった。
合格発表。
たった一枚の紙に、すべてが書かれている。
名前がある者。
名前がない者。
それだけで、世界は分かれる。
森岡悠真は、その紙の前に立っていた。
肩で息をしている。
呼吸が浅い。
喉の奥が乾いている。
ポケットの中で、受験票を握りしめる。
番号は覚えていた。
何度も書いた。
何度も見た。
夢の中でも、何度も探した。
それでも、確認せずにはいられなかった。
――間違っているはずがない。
一段目。
ない。
二段目。
ない。
三段目。
ない。
目が滑る。
もう一度、左から右へ。
一つずつ。
数字を追う。
戻る。
探す。
ない。
さらにもう一度。
ない。
「……ない」
小さく、声が漏れた。
その瞬間、すべてが確定した。
不合格。
周囲の音が、一気に戻ってくる。
「受かった!」
「マジで!?」
「やばい、あった!」
歓声。
安堵。
笑い声。
その中に、自分の居場所はなかった。
悠真は、ゆっくりと視線を落とした。
手の中の受験票。
昨日までは、未来につながる紙だった。
今日からは、ただの紙だった。
横で、同じ年くらいの少年が母親に抱きついていた。
「よかった……!」
母親は泣いていた。
父親らしき男が、何度も少年の肩を叩いていた。
その光景を見た瞬間、胸の奥が軋んだ。
俺も、ああなるはずだった。
何度も想像していた。
掲示板の前で番号を見つけて、母に言う。
父に電話する。
塾に報告する。
「受かりました」
その言葉を、言うはずだった。
けれど――そこに自分はいない。
少し離れた場所に、母が立っていた。
森岡美沙。
こちらを見ている。
近づいてこない。
分かっているのだ。
表情で。
視線で。
空気で。
悠真は、一歩踏み出そうとした。
だが、足が動かなかった。
悔しいのか。
悲しいのか。
恥ずかしいのか。
分からない。
ただ、胸の奥に重いものが沈んでいる。
「悠真」
母の声。
近づいてくる。
無理に笑っているのが分かった。
その笑顔が、きつかった。
「……どうだった?」
分かっているくせに。
そう思った。
だが、言えなかった。
「……なかった」
母は一瞬だけ目を伏せた。
すぐに顔を上げる。
「そっか」
それだけだった。
責めない。
泣かない。
怒らない。
だからこそ、苦しい。
「ごめん」
口から勝手に出た。
母が少し驚いた顔をする。
「謝ることじゃないでしょ」
優しい声だった。
だが、その優しさが刺さる。
知っているからだ。
母がどれだけ関わってきたか。
弁当。
送迎。
塾のスケジュール。
模試の結果。
過去問のコピー。
夜食。
声かけ。
沈黙。
全部、知っている。
見ていないふりをしていただけで。
「俺、何やってたんだろ」
悠真は、受験票を握りつぶした。
「こんだけやって、落ちるなら……俺、何だったんだよ」
母は答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
「帰ろうか」
少しして、母が言った。
悠真はうなずいた。
そのときだった。
背後から、静かな声がした。
「やはり、負けたか」
振り返る。
そこに、一人の男が立っていた。
見たことのない顔だった。
だが、ただの人間ではないと、なぜか分かった。
長い衣。
細い目。
静かな姿勢。
まるで、最初からこの場所にいたように。
男は、合格発表の紙を見ていた。
「誰だよ」
悠真の声が低くなる。
男は、わずかに笑った。
「勝てぬ戦を、勝てると思った時点で、敗北は決している」
慰めではなかった。
同情でもなかった。
ただ、事実を告げる声だった。
「……は?」
「戦場を誤ったな」
その一言で、思考が止まる。
戦場。
男は続けた。
「敵を知らず、己を知らず、場を知らぬ」
淡々とした声。
「ならば負ける」
悠真は歯を食いしばる。
思い当たることはあった。
算数。
速く解ける。
でも、符号を間違える。
条件を読み飛ばす。
国語。
読めているつもりで、答えがズレる。
理科。
覚えているが、理解していない。
社会。
暗記したはずなのに、並べ替えで崩れる。
模試のたびに、「次はやる」と言った。
だが、本当に変えたことは少なかった。
男は、一歩近づいた。
「悔しいか」
悠真は答えない。
「ならば、合格者の顔を見ろ」
「……何でだよ」
「勝者を見ずに、次の戦はない」
悠真は反射的に顔を上げた。
笑っている者。
泣いている者。
電話をかける者。
塾の先生らしき人に頭を下げる者。
その中に、一人だけ、異様に静かな少年がいた。
歓声を上げていない。
母親に抱きついてもいない。
ただ、掲示板を一度見て、静かに視線を外した。
まるで、受かることなど最初から分かっていたように。
男の目が、その少年を捉えた。
「覚えておけ」
「……誰だよ」
「今は知らぬ」
男は言った。
「だが、いずれお前は、あの者と戦う」
悠真の胸が、かすかにざわついた。
名前も知らない。
顔もよく見えない。
それなのに、その少年の背中だけが、妙に頭に残った。
「ふざけんな」
悠真は声を荒げた。
「俺はもう負けたんだよ」
「そうだ」
男は即答した。
「お前は負けた」
その言葉が、胸に刺さる。
「だが、敗北には二つある」
「二つ?」
「終わる敗北と、始まる敗北だ」
周囲の音が、少しずつ遠ざかっていく。
母の声も、歓声も、靴音も。
すべてが薄れていく。
男の声だけが残った。
「問う」
空気が、揺れる。
「もう一度やり直せるとしたら」
視界が歪む。
「次は、どう戦う」
悠真は息を呑んだ。
答えられなかった。
もう一度。
やり直せるなら。
もっと勉強する。
もっと頑張る。
もっと早く始める。
そんな言葉が浮かぶ。
だが、どれも違う気がした。
男は静かに言った。
「努力だけで勝てるなら、戦略など要らぬ」
悠真の心臓が強く打った。
「勉強は武器だ」
男の声が低くなる。
「模試は偵察」
「塾は陣地」
「家庭は兵站」
「偏差値は兵力」
そして、男は掲示板を見上げた。
「受験とは、戦である」
その瞬間、世界が崩れ始めた。
「悠真!」
母の声が遠くで響く。
悠真は手を伸ばした。
届かない。
男が最後に言った。
「答えは、戦の中にある」
光が裂ける。
音が消える。
足元が抜ける。
そして――
森岡悠真の世界は、一度、終わった。




