第二部 第3話「主戦場」
第二部 第3話 主戦場
放課後の教室は騒がしかった。
部活。
スマホ。
ゲーム。
休日の予定。
中学生らしい会話が飛び交っている。
その中に、少しだけ違う話題が混じった。
「県立トップ校って、やっぱすごいんやろ?」
「そりゃそうやろ。毎年、東大とか九大とか出るし」
「行けたら勝ちよな」
何気ない会話だった。
だが、その言葉に悠真は反応した。
勝ち。
窓の外を見ながら、少しだけ考える。
(勝ち、か)
この地域で一番偏差値が高い公立高校。
進学実績も良い。
先生も親も、そこを目指せと言う。
それは間違っていない。
むしろ正しい。
だが。
(それで全部か?)
その違和感が消えなかった。
受験を経験したからだろうか。
偏差値だけで語れないものがあることを、少しだけ知ってしまった。
同じ県内でも違う。
公立と私立でも違う。
附設。
ラ・サール。
青雲。
早稲田佐賀。
弘学館。
中学受験のときに耳にした名前は、ただの学校名ではなかった。
それぞれに文化があった。
それぞれに戦い方があった。
それぞれに、そこを選ぶ理由があった。
「森岡は?」
声をかけられる。
「ん?」
「高校」
悠真は少し考えた。
「まだ分からん」
本音だった。
「まあ、とりあえず県立トップ校やろ」
別の男子が言う。
当然のように。
前提のように。
疑う余地もないように。
悠真は苦笑した。
(普通、か)
悪い選択ではない。
むしろ、かなり良い選択だ。
家から通えて。
学費も抑えられて。
進学実績もある。
周囲からも評価される。
親からすれば、安心できる道だろう。
だが、自分が本当にそこを目指したいのかは分からなかった。
チャイムが鳴る。
教室が一気に動き出す。
帰宅部は鞄を持ち。
部活組は急いで教室を出る。
悠真も立ち上がった。
帰宅後。
仕事から帰ってきた母と、リビングで少し話した。
「学校どう?」
「普通」
いつもの会話。
少しの沈黙。
そして母が言った。
「高校は、県立トップ校を目指すのが一番いいと思うよ」
やはりその話になる。
悠真はコップの水を見つめた。
「無理に遠く行かなくてもいいし」
「進学実績もいいし」
「ちゃんとした進路だし」
母の言葉は正しい。
現実的で。
堅実で。
安心できる。
だが。
「……普通って何だよ」
気づけば口に出ていた。
母が少し驚く。
「何って?」
「普通って」
悠真は顔を上げた。
「この辺で一番いい高校に行くこと?」
母は少し考えた。
「そうじゃない?」
「それって、この辺の話だろ」
母は黙った。
否定はしない。
だが、引き下がりもしない。
「そうかもしれない」
「でもね」
一拍。
「それで十分な人がほとんどなの」
悠真は何も言わなかった。
十分。
その言葉が引っかかった。
十分とは何だろう。
誰にとっての十分なのだろう。
県立トップ校で十分。
それは分かる。
たぶん、ほとんどの人にとってはそうなのだ。
だが。
藤堂優駿なら、どう考えるだろう。
あいつは、そこで止まるだろうか。
附設やラ・サールを当然のように見ていた人間が、県内の「普通の正解」だけで満足するだろうか。
そこまで考えて、悠真は少し嫌な気持ちになった。
また藤堂の名前を考えている。
勝手に基準にしている。
まだ敵でもないのに。
リビングでは、心太が本を読んでいた。
「兄ちゃん」
「何」
「顔、変」
「うるさい」
「また何か考えすぎてる」
心太は顔も上げずに言った。
悠真は少しだけ黙った。
「お前さ」
「何」
「高校とか考えたことある?」
「ない」
即答だった。
「早くね?」
「普通、小四で考えないでしょ」
「まあな」
心太はページをめくった。
「でも、兄ちゃんは考えた方がいいんじゃない」
「何で」
「考えずに流されると、あとで文句言いそうだから」
悠真は言い返せなかった。
こういうところが嫌だった。
心太は、深く考えているように見えない。
だが、たまに核心だけを抜いてくる。
悠真は何も言わず、自分の部屋へ向かった。
机に座る。
ノートを開く。
白紙。
ペンを持つ。
少し考える。
そして書いた。
主戦場
その下に続ける。
学校
塾
高校受験
内申
部活
手が止まる。
(どこだ)
高校受験は、中学受験とは違う。
学校の成績がある。
提出物がある。
授業態度がある。
内申がある。
定期テストもある。
だが同時に。
難関校を狙うなら、学校だけでは足りない。
塾も必要だ。
演習も必要だ。
学校では出ないレベルの問題も必要になる。
周囲とは違う速度で進む必要もある。
全部やるのか。
全部に全力を出すのか。
(無理だろ)
正直な感想だった。
時間も体力も有限だ。
すべてに全力を出せば、どこかで崩れる。
部活もある。
友達もできる。
学校行事もある。
中学生活は、受験だけではない。
だが、受験を完全に忘れた者から、順に落ちていく気もした。
ふと、机の端にある問題集が目に入った。
中学受験で使っていた塾の教材。
何気なく開く。
問題を見る。
学校では絶対に出ないレベル。
だが。
(解ける)
手が動く。
式を書く。
条件を整理する。
崩す。
組み直す。
そして答えが出る。
少しだけ気持ちよかった。
ページを閉じる。
(意味あるのか)
一瞬そう思う。
高校受験にそのまま出るわけではない。
中学の授業とも違う。
今やる必要があるのかも分からない。
だが、すぐに別の考えが浮かぶ。
(これをやっているやつと)
(やってないやつ)
差は埋まるか。
答えはすぐに出た。
(埋まらない)
むしろ。
(広がる)
今は見えないだけだ。
半年後。
一年後。
二年後。
その差は形になる。
悠真はノートを見る。
主戦場。
その文字の下に書き足そうとして、止まる。
塾=本戦
そう書こうとして、やめた。
まだ早い気がした。
学校も切れない。
内申も切れない。
部活もある。
県立トップ校を狙うなら、学校で手を抜くことはできない。
一方で、附設やラ・サールを本気で視野に入れるなら、学校の定期テストだけでは足りない。
では、自分はどこを目指すのか。
そもそも、どこを目指せるのか。
まだ情報が足りない。
その時。
コンコン。
ドアが開く。
母だった。
「ちょっといい?」
「何?」
母は少し迷ってから言う。
「内申は落とさないでね」
やはりそこだった。
「公立上位校を狙うなら、五教科だけじゃなくて、副教科も大事だから」
「提出物もちゃんとして」
「授業も聞いて」
「分かってるよね?」
「……分かってる」
母は少し安心した顔をした。
「お願いね」
そう言って部屋を出る。
扉が閉まる。
静寂。
悠真は天井を見上げた。
(めんどくせぇ)
本音だった。
だが。
嫌ではなかった。
少なくとも。
退屈ではない。
中学受験のときは、目の前に戦場があった。
模試。
塾のクラス。
志望校判定。
過去問。
合格最低点。
勝ち負けが見えやすかった。
だが、今は違う。
学校。
内申。
部活。
塾。
親の期待。
友達との距離。
地域の常識。
県外難関校という選択肢。
全部が絡み合っている。
どれが主戦場なのか。
どこで勝てばいいのか。
どこを捨ててはいけないのか。
まだ見えない。
ペンを持つ。
そして、主戦場の下に一行だけ書き足した。
未定
しばらくその文字を見つめる。
今は決められない。
決めるには、まだ情報が足りない。
それが結論だった。
その時。
スマートフォンが震えた。
机の上で小さく光る。
画面を見る。
藤堂優駿。
メッセージは一行だけだった。
『塾、どうする?』
悠真は少しだけ笑った。
窓の外を見る。
夕焼けだった。
中学受験は終わった。
そのはずだった。
だが。
どうやら本当に終わったわけではないらしい。
悠真はスマホを手に取った。
返信画面を開く。
少しだけ考える。
そして、指を動かした。
『まだ分からん。でも、考えてる』
送信。
すぐに既読がついた。
返事はなかなか来なかった。
その沈黙が、妙に重かった。
やがて、画面に短い返信が浮かんだ。
『なら、早い方がいい』
悠真はその文字を見つめた。
早い方がいい。
その通りだった。
休戦は、心地よい。
だが、長すぎる休戦は、ただの遅れになる。
机の上のノート。
主戦場。
未定。
その二つの言葉が、夕焼けの中で薄く赤く染まっていた。
第二の戦場は。
静かに動き始めていた。




