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偏差値は戦である  作者: 受験孔明
第二部 再構築〜中学生活編
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第二部 第2話「休憩」

第二部 第2話 休戦


 中学校に入学して、一週間が過ぎていた。


 教室の空気は、まだ落ち着かない。


 部活。

 席替え。

 友達。

 誰と帰るか。

 誰と昼を食べるか。


 そんな話ばかりが飛び交っている。


 受験の話は、もうほとんど出ない。


 出たとしても、


「どこ受かった?」


 その程度だった。


 それも、最初の数日だけ。


 結果は、もう終わった話になっていた。


 森岡悠真は、その空気を少し不思議な気持ちで見ていた。


(終わったんだな)


 本当に。


 終わったのだ。


 あれだけ毎日考えていたことが。

 あれだけ生活の中心だったものが。

 あれだけ家の空気を支配していたものが。


 今は、誰も話題にしない。


 まるで最初から存在しなかったみたいに。


 数学の授業。


 教師が黒板に問題を書く。


 正負の数。

 加法と減法。


 教室の何人かが首を傾げている。


 悠真は、黒板を見た。


(簡単だな)


 自然と思った。


 受験期なら、一瞬だった。


 計算そのものは難しくない。

 条件も複雑ではない。

 ひっかけもない。

 読み替えもいらない。


 教師が言う。


「分かる人?」


 数人が手を挙げる。


 悠真は少しだけ考えた。


 そして、手を挙げた。


「森岡」


「二です」


「正解」


 それだけ。


 教師は次へ進む。


 悠真も、それ以上は何もしない。


(こんなもんか)


 悪い気はしなかった。


 分かる。

 解ける。

 周囲より少し早い。


 それは確かに気持ちよかった。


 だが、同時に、どこか物足りなさもあった。


 昼休み。


 クラスメイトが話しかけてくる。


「森岡、頭いいよな」


「普通だよ」


「受験したんだろ?」


「まあな」


「すげえじゃん」


 悠真は曖昧に笑った。


 深く話す気はなかった。


 中学受験の話をしても仕方ない。


 ここではもう、過去だからだ。


 合格した学校。

 落ちた学校。

 偏差値。

 順位。

 模試。

 クラス分け。

 過去問。


 それらは、もうこの教室では意味を持たない。


 今は全員が、同じ中学一年生だった。


(リセットか)


 そんな言葉が浮かんだ。


 受験で何位だったとか。

 どこを受けたとか。

 どれだけ勉強したとか。


 そんなものは、ここではあまり関係ない。


 新しい制服。

 新しい席。

 新しい先生。

 新しい友達。


 全員が、同じところから始まるように見える。


 だが、悠真には少しだけ分かっていた。


 本当は、同じではない。


 見えない積み上げは、消えない。


 ただ、今は見えていないだけだ。


 放課後。


 部活見学の案内が配られた。


 教室が少し騒がしくなる。


「サッカー部行く?」

「野球も見る」

「バスケ人気らしいぞ」

「文化部も見たいな」


 楽しそうだった。


 受験の時にはなかった空気だ。


 勝ち負けではない。

 偏差値でもない。

 順位でもない。


 ただ、何をやるかを選ぶ空気。


「森岡は?」


 誰かが聞いた。


「たぶんサッカー」


「お、いいじゃん」


 悠真は頷いた。


 体を動かしたかった。


 ずっと勉強ばかりだったから。


 ボールを追いたかった。

 息が切れるまで走りたかった。

 何も考えずに、ただ体を動かしたかった。


 帰り道。


 春の風が吹いている。


 制服はまだ少し慣れない。


 新しい通学路。

 新しい友達。

 新しい学校。


 本来なら、わくわくするはずだった。


 実際、楽しくないわけではない。


 だが、どこか実感が薄かった。


(楽だな)


 ふと思った。


 模試がない。

 偏差値もない。

 順位表もない。

 クラス分けもない。


 今日中にやらなければならない課題もない。

 明日の小テストに追われることもない。

 何もしなくても、誰にも怒られない。


(楽だ)


 それは本音だった。


 家に帰る。


 母はまだ仕事から戻っていない。


 静かな家。


 自分の部屋に入る。


 机の上を見る。


 問題集。

 ノート。

 過去問。

 模試の解き直し。

 色の付いた付箋。


 受験の痕跡が、そのまま残っている。


 片付ける気にはなれなかった。


 片付けたら、本当に終わってしまう気がした。


 悠真は、一冊の問題集を手に取った。


 開く。


 速さと比。


 受験直前に、何度も解いたページ。


 鉛筆の跡が残っている。

 赤ペンで直した式がある。

 横には、小さく書いた文字。


 条件を二回読む。

 単位を確認。

 捨て問判断。


(懐かしいな)


 まだ一か月も経っていないのに、ずいぶん昔のことのように感じた。


 問題を見る。


 解き方は分かる。


 たぶん今でも解ける。


 いや。


 解ける。


 だが、手は動かなかった。


(今はいいか)


 ページを閉じる。


 机に戻す。


 勉強したくないわけではない。


 嫌いになったわけでもない。


 ただ、疲れていた。


 気づいていなかっただけで。


 心も。

 頭も。

 ずっと張り詰めていたのだ。


 ベッドに倒れ込む。


 天井を見上げる。


(これから、どうするんだろうな)


 問いは浮かぶ。


 だが、深く考えない。


 まだいい。


 少しくらい休んでもいい。


 そんな気がした。


 コンコン。


 ドアが開く。


 心太だった。


「兄ちゃん」


「ん?」


「暇?」


「まあ」


 心太が笑う。


「じゃあ、ゲームしよう」


 悠真も少し笑った。


「いいぞ」


 立ち上がる。


 机の上の問題集は、そのままだ。


(あとでいい)


 そう思った。


 その日の夜。


 悠真は、一秒も勉強しなかった。


 罪悪感もなかった。


 むしろ、少しだけ気持ちよかった。


 受験が終わったのだ。


 休んでもいい。


 誰も責めない。


 そう思えた。


 夕飯のとき、母も何も言わなかった。


「学校どう?」


「普通」


「友達できた?」


「まあ、少し」


「部活は?」


「サッカー見る」


「いいね」


 それだけだった。


 母もまた、休んでいるように見えた。


 毎日の声かけ。

 塾の送迎。

 プリント整理。

 模試の確認。

 出願資料。

 合格発表。


 それらから、ようやく解放された顔だった。


 夜。


 部屋に戻る。


 机の上の問題集は、まだそこにあった。


 開かれないまま。


 片付けられないまま。


 静かに置かれている。


 まるで、また開かれる日を待っているように。


 悠真は電気を消した。


 暗くなった部屋で、問題集の輪郭だけが薄く残る。


 受験は終わった。


 戦いも終わった。


 今は休んでいい。


 そう思って目を閉じた。


 だが、眠りに落ちる直前。


 ふと、頭の奥に言葉が浮かんだ。


 休戦。


 終戦ではない。


 悠真は目を開けた。


 暗い天井が見える。


 誰かに言われたわけではない。


 声が聞こえたわけでもない。


 ただ、その言葉だけが残っていた。


 休戦。


 悠真は小さく息を吐いた。


「……まあ、いいか」


 そう呟いて、今度こそ目を閉じた。


 机の上の問題集だけが、暗闇の中で静かにそこに残っていた。


 その輪郭は、もう教材には見えなかった。


 閉じられたままの、次の戦場への入口に見えた。


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