20.断食道場の道のりに思うこと
「そろそろ行くか。ほら、乗れよ」
いよいよ断食修行が始まる日の朝、ヒヨクがナナミーに背を向けて、屈んでくれた。
道場までの移動日として、前後に一日ずつ取っていたが、断食修行の話を聞いたヒヨクが送り迎えを申し出てくれた。
ちょうど同じ方面に、同じ日程の出張が入っていたらしい。
奇跡に近いほどの偶然は、ナナミーがヒヨクの運命のつがいだからだろうか。
(断食修行を頑張って、自信あるお腹を手に入れたら、運命のつがいを名乗り出てみようかな……)
少し、そんなふうに考えている。
ナナミーは、これからの10日間、断食修行生活と真剣に向き合うつもりだ。
「よろしくお願いします」
そう声をかけて、ヒヨクの肩に掴まり、体を起こしてスウッ……と息を吸い込んだ。
お腹の引っ込みはしばらくしか続かないが、ヒヨクの背中になるべく体を預けないようにしている。
「……行くぞ」
ヒヨクの低く呟くような声で、ナナミーの断食修行の旅が始まった。
ラニカたちとは現地で会う予定だ。
断食修行にはラニカたちがいるが、他の種族の子たちもきっといる。強い種族の、意地悪な子もいるかもしれない。
男女を問わず参加できる修行だから、男子の参加者もいるはずだ。
運命のつがいがいるナナミーは、つがい以外の異性から好意以上の想いを向けられると、胸がムカムカして気持ちが悪くなってしまう。
ヒヨクの屋敷に居候するようになってから、そんな思いをすることはなくなっていて忘れていたが、ここへ来て少し不安を感じていた。
(『こんな子と一緒にいたら、こっちがトロくさくなっちゃうわ』とか言われるのも怖いし、男の子に『一緒にご飯食べよう』なんて誘われるのも嫌だな……)
そんなことを考えていたら、少し気持ちが重くなって、知らずふう……とため息がもれた。
(でも……)
ナナミーは、被っている帽子をそっと撫でる。
今日被ってきたのは、ヘビの刺繍が入った帽子だ。
ヒヨクの選んでくれた帽子は、もし『その帽子、よこしなさいよ』と言われて取られるのが嫌で、この帽子を選んでいた。
それに、この帽子には迫力のある刺繍が入っている。とぐろを巻いて舌を出すこのヘビの刺繍で、怖い子も嫌な子も遠ざけるつもりだ。
ザッ、ザッ、と歩くヒヨクの足音が聞こえる。
その力強い足音に、ナナミーはどこか安心していた。
* * *
背負った瞬間、背中越しにナナミーがわずかに距離を取ったのが分かった。
ナナミーはまだ、ヒヨクを許すつもりはないらしい。
それとも――
(本気で嫌われたか……?)
(いや、考えるな)
(そんなはずはねえ)
何度も打ち消してきた不安が、またヒヨクの胸に浮かぶ。
心は重く沈んでいった。
今日ナナミーは、ヘビの刺繍が入った帽子を被っている。
これまではヒヨクの選んだ、ツバの広い帽子を被っていたというのに、出かける今日ナナミーが選んだのは、チレッグの選んだ帽子だった。
ナナミーの帽子は、『ヒヨクを選ばない』という意思表示なんだろうか。
(まさか……オレを捨てるつもりか……?)
付き合っていたわけではない。
だが、「上司と部下」という関係以上の絆はあると思っていた。
むしろ――ナナミーはヒヨクのことを想っているとさえ思い込んでいた。
『お前、チレッグを選ぶつもりかよ』
帽子を見た瞬間、問いただしたい思いに駆られたが、聞くことはできなかった。
もしそんなことを聞いて、『そうなんです。実はチレッグ様が好きなんです』なんて言われたら、チレッグを消しに行く衝動を抑えられるはずがない。
ぐっと口を引き結んだまま、ヒヨクは歩き続けた。
背中のナナミーは、今日も歌わない。
ザッ、ザッ、と歩く足音だけがやけに大きく響いていた。
断食道場の建つ森は、それほど離れていない。
何も話さないまま歩くうちに、森が見えてきた。
――もうすぐナナミーを下ろさなくてはいけない。
そう思った矢先だった。
「あ……森だ。ヒヨク様、送ってくれて、ありがとうございます」
まだ森が見え始めたばかりだというのに、もうお礼を告げられた。
『早くオレと離れてえのかよ』
――問いただしたい言葉は、やはり喉に張り付いた。
ゴソ……と背中でナナミーが動く。
(もう下りる準備かよ)
そんな思いで、ぐっと口を引き結ぶと、ナナミーが背中越しに何かを差し出した。
「あの、これ。よかったらどうぞ」
「なんだ?」
受け取った物に視線を向けると、小さな缶だった。
『復刻版!非加熱はちみつアメ』とプリントされている。
「……アメ?」
思ってもいない物を受け取り、目を瞬かせた。
「それ、この前ラニカさんたちと行ったカフェで買ったんです。ベアゴーくんが頼んだ『非加熱はちみつジュース』、すごくおいしいって話してたから。レジ横で見つけて、二つ買っちゃいました」
溢れ出しそうだった怒りが、サッと霧散した。
砂糖の塊などうまいと思ったことなどないが、ナナミーからの物なら別だ。
だが、ふっと影が差す。
ナナミーはアメを二つ買ったと言った。
ならば――もう一つは誰のための物なのか。
「……二つ?」
「はい。私もお揃いで買ったんです。もし、修行でどうしてもお腹が空いたときのために、非常食に持ってきました」
「……そうかよ」
飴はお揃いだった。
サアッと光が差すようだった。
「もっと早く渡そうと思ってたけど、ヒヨク様、最近お仕事忙しそうで会えなかったですし……。昨日も夜遅かったんですよね?」
「まあな。この出張で、向こうの仕事を空けるからな」
続いたナナミーの言葉に、胸が弾む。
ナナミーと同じ日程で休みを取るために、ずっと必死に仕事を片付けていた。
部下たちにも『キリキリ仕事しろや』と追い立てたほどだ。
昨日の朝は、先に休みに入ったナナミーを送る必要もなかったので、顔を合わせることもできず、さらに機嫌が悪かった。
連日の残業に付き合わせていた部下は、今日からヒヨクがいなくなって、ホッとしているだろう。
今日からの10日間は、クリフから買い取ったこの森で、バーベキュー開発を進める予定だ。
仕事の名目はあるが、ナナミーの近くにいられるのだから、実質遊びに来たようなものだった。
「ナナミー、その帽子なんだよ。ツバの広い、オレが選んでやった帽子の方がよかったんじゃねえか?」
心が軽くなり、つい饒舌になる。
思わず口から出た言葉に、(余計なこと言っちまった)と緊張が走る。
もし、『チレッグ様の選んだ帽子だから』なんて言われたら――
ヒヨクは無意識に息を止める。
「強い子に取られちゃうと困るから……」
ポツリと呟くナナミーの声は、どこか悲しそうだった。
チレッグの帽子を選んだのは、ヒヨクの帽子を取られないためだったようだ。
「あ?そんなふざけた野郎はオレが片付けてやるよ」
抑えきれないほどの喜びが湧き上がり、声まで弾んでしまう。
機嫌良く歩くうちに、森の中の断食道場に着いた。
「なんだ?オレの出張場所のすぐ隣じゃねえか。ナナミー、オレはこっちの建物で、この森のバーベキュー開発の仕事入ってんだ。試し焼きとかするから、メシはこっちで食えよ」
ヒヨクのかけた声に、パァッとナナミーの顔が明るくなる。
「まあ、この森でオレの屋敷ほどのもんは採れねえだろうが、オレの料理の腕は知ってんだろ?」
大きく頷くナナミーに、さっきまで胸を塞いでいた重さが、嘘みたいに消えていた。




