19.断食道場は恋の始まり
「あ!ラニカさん、スネイさん、こんにちは〜!」
「こんにちは、ベアゴーくん。ふふ、今日も元気ね」
仕事を終えて会社を出たところで、ベアゴーに背負われていたナナミーは、聞こえてきた挨拶の声に顔を上げた。
少し体を起こして前を見ると、ベアゴーの肩越しにラニカたちの姿が見える。
ラニカとスネイの他に、ワニエルもいた。
ラニカが隣に立つワニエルへ手を向ける。
「ベアゴーくん、紹介するわ。この子は私の親友のワニエル。私と同じパルル社のコスメ部門にいる子なの」
「ワニエルよ、よろしくね。うふふ。ベアゴーくんの話は、ラニカからよく聞いてるわ。元気で素直ないい子だって」
「え〜」
にっこりと微笑んだワニエルに、ベアゴーの声が少し照れたように弾む。
そこへスネイが声をかけた。
「ベアゴーくん、久しぶり。ねえ、これからみんなでお茶しない?この前行ったあのカフェ、今日から季節限定の『濃厚はちみつスカッシュ』始まるみたいよ」
「濃厚はちみつスカッシュ?!」
ベアゴーの声が一気に弾んだ。
「ええ。アニマル熱帯雨林産の非加熱はちみつをたっぷり使ったジュースだって。シーズン100杯限定みたい。さっきお店の看板をチェックしてきたのよ」
「100杯限定?!え〜すぐなくなっちゃいそう。急がなきゃ」
焦るベアゴーに、おかしそうにスネイが笑った。
「そうね。急がないとなくなっちゃうかも。私も今日は、『地鶏卵の半熟6分茹で卵』を頼むつもりよ」
「わ〜行こう!行こう!」
ぴょんぴょんと跳ねるベアゴーの背中で、ナナミーも揺れる。
このままでは、そのままカフェまで連れて行かれてしまいそうだ。
(私は帰りたいな……)
ナナミーは、寄り道しないで早く帰りたかった。
今日もヒヨクが特別おいしいおやつを取り寄せてくれているかもしれない。
前にカフェで頼んだきゅうりのピクルスもおいしいが、ヒヨクのおやつの方が魅力的だった。
「ベアゴーくん。さっき、ヒヨク様が早く戻れって言ってたでしょう?寄り道すると怒られちゃうかもしれないよ?早く戻らないと、ベアゴーくんの残業増えちゃうよ?」
そう言ってベアゴーを脅してみる。
「あ〜うん……。最近ヒヨク様、機嫌が悪いもんね……」
「まあっ!機嫌の悪いヒヨク様?!いいわ……素敵……!私もそんな推しを拝みたいわ……」
ベアゴーの言葉を聞いた途端、ワニエルがはふうっ、と熱い吐息をもらした。
『そうだよ。危険だよ。だから帰ろうよ』
――そう続けるはずだったナナミーの言葉は、ワニエルの熱い吐息にかき消された。
「ねえねえ、ベアゴーくん。濃厚はちみつスカッシュ、10杯ご馳走するわ。だからその、機嫌の悪いヒヨク様のお姿、もっと詳しく話してくれない?」
「え!濃厚はちみつスカッシュ10杯?!――いいの?」
「もちろんよ!この私に二言はないわ。さあ、行きましょう?」
「行こう!行こう!」
ぴょんぴょんと跳ねるベアゴーの背中で、ナナミーは悟った。
買収されたベアゴーに背負われたまま、ナナミーはカフェへ向かうしかないのだろう。
――今日のおやつは、きゅうりのピクルスに決定だ。
しょせんナナミーは、弱小種族のナマケモノ族だ。
強い種族のクマ族の背中に乗ったナナミーの、「ねえ、帰ろうよ」という言葉など、誰も聞いてくれることはない。
(……諦めよう)
諦めて、わいわいと楽しそうに盛り上がるみんなと共に運ばれていくしかない。
跳ねるベアゴーの背中で、空に浮かぶ雲も揺れていた。
* * *
案内されたのは、5人掛けのテーブルだった。
『主役のナナミーは奥に座って』と言われ、大人しく座った席は、長テーブルの一番奥――両側をみんなに囲まれる席だ。
通路に逃げることもできない席だった。
「え〜いいな〜みんなで旅行するんだ」
「もう、ベアゴーくんったら。旅行じゃなくて、修行よ?お肉の断食修行。すっごく厳しい修行になると思うわ。今のうちにたくさんお肉を食べとかなくちゃって、私焦ってるの」
きゅうりのピクルスをかじるナナミーの前で、みんなが今度の断食道場の話で盛り上がっていた。
「確かにお肉断食は厳しい修行だね〜」
ベアゴーが眉をひそめる。
「でしょう?!分かってくれるの、ベアゴーくんだけよ!修行が始まったら、こんな唐揚げひとつ食べれないのよ?」
ワニエルが唐揚げをつまみながら、テーブルに身を乗り出した。
「もう、ワニエルったら大袈裟なんだから」
苦笑したラニカが、呆れたように言葉を続ける。
「貝断食じゃないんだから。肉断食の10日なんて、あっという間よ。我慢しなさい」
「ふふ。私はワニエルちゃんの気持ちが少し分かるかも。でも、お肉は食べれないけど、卵があるじゃない」
スネイがおかしそうに笑う。
「スネイったら、全然分かってないじゃない。卵はお肉じゃないの!」
「そうだよ、卵はお肉じゃないよ、スネイさん」
ワニエルの言葉に、ベアゴーも頷く。
「ほんと分かってくれるの、ベアゴーくんだけだわ」
「そりゃ、分かるよ。お肉は正義だもん。でもさ〜ワニエルさん、お肉断ち10日間なんて、そんな厳しい修行、大丈夫?僕、差し入れ持って行ってあげようか?」
「えっ!!」
ワニエルが、パッと目を輝かせた。
「ベアゴーくん、優しい……!!」
「そんなことないよ。その断食道場、クリフ兄さんの森を借りて建ってるんだ。僕も子どもの時から行ってた森で、よく知ってるし。たまにオオカミとか獲れるんだよ」
「オオカミ?!ベアゴーくん、オオカミ獲れるの?!」
「信じられない!」とワニエルが目を丸くする。
ワニエルのリアクションに、えへへとベアゴーが照れていた。
(オオカミ……)
ナナミーの前で、みんなが信じられないくらい怖い話をしていた。
断食道場のある森には、オオカミも出るらしい。
恐ろしいワードに、ヒュッと背筋が伸びた。
どうしてみんな、そんなに笑っていられるのだろうか。
(怖い……)
ナナミーの、ピクルスを持つ手が震えた。
(やっぱり断食道場に行くのは止めようかな……)
ベアゴーにとっては捕食対象のオオカミも、ナナミーにとっては自分が被食者側になる恐ろしい相手だ。
オオカミに食べられてしまったら、有給12日どころか、永遠の休みをもらうことになる。
(やっぱり『行くの止めます』って言おう)
弱小種族として、そんな危険な森に自ら入り込むことはできない。
断食道場ではお昼寝を楽しみにしているが、永遠の眠りは怖い。
「あの、やっぱり――」
「オオカミなんて、全然大したことないよ〜。あの森では子どもの頃、トラだって獲ったんだよ」
ベアゴーの元気な声に、『やっぱり行くの止めます』というナナミーの声はかき消された。
だが、ますます危険なワードを聞いた。
(トラ……!!)
もう一度、しっかりと不参加意思を伝えなくては。
「あの、私――」
「トラ?!それも子どものころ?!ベアゴーくん、すごい!強すぎじゃない?!」
きゃあっと叫ぶワニエルの小さな悲鳴に、ナナミーの声はまたかき消される。
(……諦めよう)
しょせん弱小種族のナナミーの声は、盛り上がる会話にだって負けてしまうのだ。
ナナミーの意思など、誰にも届かないまま消えてしまう。
ポリ……と、ナナミーはきゅうりのピクルスをかじる。
「私、ベアゴーくんが来てくれたら、修行頑張れる気がする。オオカミ、待ってるわね」
「うん。もしまたトラを見つけたら、トラも獲ってくるね。そうしたら、森でバーベキューしようよ」
「も〜やだ!ベアゴーくんったら素敵すぎ!!断食道場、断然楽しみになっちゃった!」
染めた頬に手を当てて、ワニエルが身をよじる。
――ポリ……ポリ……とピクルスをかじるナナミーの目の前で、今まさにロマンスが生まれようとしていた。




