18.断食道場の人数枠
仕事帰り。
屋敷の前まで背負ってもらい、帰っていくベアゴーにバイバイと手を振った、その時だった。
「あ。申し込み書……」
ナナミーはゴソ……とカバンを探り、広告を切り取った申し込み書を取り出した。
「ポストに入れるの忘れちゃった……」
早く申し込みを終えなくては、断食道場の枠が埋まってしまうかもしれない。
「ポスト……」
顔を上げたときには、ベアゴーの背中はもう見えなかった。
せっかく帰ってきたのに、あの道の角のポストまで歩かなくてはいけない。
仕事終わりの運動に、ナナミーはふう……とため息をつく。
そしてノロ……と足を踏み出した。
「あら?ナナミーじゃない」
「あ。ワニエルさん、こんにちは」
道を少し歩いたところで、ワニエルと出会った。
ナナミーはペコリと頭を下げる。
「お仕事帰りですか?ワニエルさんのお家、この道を通るんですね」
「ええ、そうよ。家とは反対方向だけど、毎日この道を通って帰るの。推しの聖地ですもの」
バッチリメイクの目をほそめて、ワニエルがうふふと笑う。
「推しの聖地……ですか?」
この通りにそんなものがあるのだろうか。
キョロ……とナナミーは目を動かす。
「ナナミーったらどこ見てるの?そこよ、そこ。このお屋敷よ。ヒヨク様のお屋敷を拝んで仕事の疲れを癒すのよ」
「ソウナンデスネ〜……」
ヒヨクの屋敷に目を向けたワニエルの目が、キラリと光った気がして、ナナミーは曖昧に笑う。
そうだ。
ワニエルは熱狂的なヒヨクのファンだった。
ヒヨクに解散させられたと聞いたが―― ヒヨクの秘密ファンクラブの会員だったと、以前ラニカが話していた。
ドクドクドク……と心臓がうるさい。
弱小種族の本能が、『ヒヨクの屋敷に居候していることを知られたら、終わりだ』と告げていた。
「ナナミーって……」
ワニエルの口から名前を呼ばれ、ドクン、と一際大きく心臓が鳴った。
「あのヒヨク様に無関心でいられるから、居候なんてさせてもらえてるのね。もう、ほんとクールなんだから」
「……あ、はい」
――居候は知られていた。
決してナナミーはヒヨクに無関心なわけでも、クールなわけでもない。
だがここは何も言わない方がいいだろう。
ナナミーはまた曖昧に頷いた。
「ナナミーこそ何してるの?お屋敷に帰ってきたんでしょう?」
「あ、はい。ポストに入れ忘れたこれを、出しに行くところなんです」
「これ」と言いながら、ナナミーは広告をピラ……と振る。
「何それ?何かの申し込み書?見せてもらっていい?」
コクリと頷き手渡すと、広告の申し込み用紙を見つめたワニエルが目を見開いた。
「肉断ち断食道場10日間コースって……ナナミー、あなたダイエット修行するつもり!?」
「はい。12日の有給休暇もらったんです」
えへへと笑うと、ワニエルがバッ!と両手で口を押さえて、目を潤ませた。
「なんて子なの……!ナナミーのモデル魂は一流ね……!『捕獲のナナミー』って言われるわけだわ。いけない、鳥肌が立っちゃった」
ワニエルが、はふぅっと熱っぽい吐息をもらす。
「え、いえ、私は――」
「いいの!」
『私はモデルを目指しているわけじゃないですよ』という言葉は、ワニエルに遮られた。
「いいのよ、何も言わないで。――分かってる。ナナミー、あなたの覚悟はしっかりと受け取ったわ。安心して?私たちはナナミーに付いていくつもりよ」
「え……?」
覚悟、とはなんだろう。
何を安心していいのか分からない。
「あの……」
「大丈夫よ。ナナミーは一人じゃないわ。私たちが付いてる。急いでラニカとスネイにも連絡するわね」
「え、あの、何を……」
何が大丈夫なのか分からない。
一人じゃないとはどういうことなのか。
どうしてここでラニカとスネイの名前が出るのか。
聞きたいことはたくさんあった。
だが――
「はい。これポストに出しておいて。私これからラニカの寮に急ぐから。またね、ナナミー」
ワニエルはおもむろにカバンからペンを取り出すと、ナナミーから受け取った広告に、キュキュッと何かを書き込んだ。
「これでいいわ……」
ワニエルは満足そうに呟くと、広告をナナミーに押し返し、あっという間に駆け去ってしまった。
呆然と見送るワニエルの背は、遠くの曲がり角に消えた。
目の前に長く伸びる道路には、もう誰の姿も見えない。
しばらく立ち尽くして、ナナミーは広告に目を落とす。
(何書いてたのかな……)
「あ」
『1人』と書いていた申し込み人数の記入箇所は、1から4に書き直されていた。
(4人……)
ナナミーと、ワニエル。
そしてラニカとスネイ。
――合わせて4人。
どうやらワニエルたちも、断食道場10日間コースに参加するらしい。
* * *
「ナナミー様。今日のおやつは、ヒヨク様が特別に取り寄せた、フルーツトマトですよ。普通のトマトの3倍も甘いそうです」
「フルーツトマト……」
仕事から帰ったナナミーに、ユキが声をかけると、ナナミーがゴクリとツバを飲み込んだ。
フルーツトマトは、ヒヨクがナナミーのために特別に取り寄せたものだ。
ナナミーの帰宅時間に合わせて収穫したものを運ばせている。
ユキは、レオードの屋敷で起きた水着騒動を、母親のスノウから聞いていた。
『つがい付き使用人として、ナナミー様のお気持ちをしっかりと鎮めるのよ』と言われている。
ヒヨクを避けるようになってしまったナナミーに、ユキもなんとか心を開いてもらえるよう、頑張っているところだった。
ユキが見る限り、ナナミーはヒヨクに対して怒ってはいない。
『ヒヨク様が特別に』と伝えた瞬間、嬉しそうに顔を輝かせる。
それでも以前と態度が違うのは、どうやら見られた水着姿が恥ずかしかったからだろう。
いつもよりおやつを食べ過ぎた日は、気にするようにお腹をさすっていた。
『お腹なんて全然気にする必要なんてないですよ』
『むしろもっとたくさん食べてください』
『ヒヨク様もお喜びになりますよ』
――そう、ナナミーに伝えたい。
だが、ユキはプロフェッショナルなつがい付き使用人だ。
運命のつがいが結ばれるまでの道のりに、土足で踏み込むようなことはできない。
ユキにできることはただ、黙って二人を見守ることだけだ。
「ヒヨク様ももうすぐお帰りになると思いますよ。今日の特別なおやつは、ヒヨク様の執務室で召し上がられますか」
(ヒヨク様が、ナナミー様の誘いを待ってますよ。どうか一緒に召し上がってください)
――そんな思いを込めて、使用人としてそっとナナミーの背中を押すことしかできない。
ユキの言葉に、ナナミーの瞳が揺れる。
きっと、ヒヨクに会いたいのだろう。
(今日こそは……!)
固唾をのんでユキはナナミーを見守る。
だが、やがてナナミーは悲しそうにフル……フル……と首を振った。
どうやら今日もヒヨクを誘う勇気は出なかったらしい。
「お部屋で召し上がりますか?」
少しだけ残念に思いながら、ユキがそう尋ねると、ナナミーはコクリと頷いた。
おそらく、だが。
お取り寄せのおやつがおいしすぎて、ヒヨクの前でいつもより食べすぎてしまうことを、ナナミーは恐れているのだろう。
『ヒヨク様、特別なおやつは危険ですよ』
――ユキはそうヒヨクに報告したい。
だが、プロフェッショナルなつがい付き使用人として、それは決してできない助言なのだ。




