17.ヒヨクの謝罪
(最悪だ……)
レオードの屋敷からの帰り道、ナナミーを背負いながら、ヒヨクの思いは重く沈んでいた。
コフィとの着替え遊びは、とっくに終わっているものだと思い込んでいた。
まさかまだ遊んでいて、ナナミーが水着に着替えているとは思いもしなかったのだ。
――カーテンを開ける前に、声をかけるべきだった。
(いや……)
何も言わずに開けてしまったものはしょうがない。
着替え中じゃなかっただけマシだ。
――問題はそこじゃない。
問題は、水着姿のナナミーを無遠慮に見てしまったことだ。
しかも腹だ。
カーテンを閉め直すこともなく、ヒヨクはアザひとつない腹を見つめてしまった。
ふと、ナナミーの白く細い腹を思い出す。
ドキンと心臓が跳ね――すぐに我に返る。
今目の前にある現実が、ヒヨクに破滅を告げていた。
(オレは嫌われた……のか……?)
あれからナナミーは何も言わない。
大人しく背中に背負われているだけだ。
最悪の可能性が脳裏をよぎる。
レオードの屋敷を出るときも、(嫌われたかもしれない)と思うと、『悪かったな』という言葉は喉元に張り付いた。
ヒヨクは黙ったままナナミーに背を向け、捕まるように促した。
いつもかけてくる、「お願いします」も「ありがとうございます」の言葉もなく、ナナミーも黙ってヒヨクの肩に捕まった。
別に礼を言ってほしいわけじゃない。
労いの言葉がほしいわけでもない。
ただ、なんでもいいから何か言ってほしかった。
いつもと変わらない言葉で、安心したかったのだ。
だがナナミーは、言葉をかけてくれないどころか――
いつもならば背中に預けてくる体を引き離し、距離を取っている。
さらに、深く長い静かなため息をついた。
ゆっくりと吐き出される息の気配を、ヒヨクは背中に感じる。
(嫌われた……)
絶望の波にのまれ、どうすべきかわからない。
ザッ、ザッ、と足音だけが響いていた。
あれから数日が過ぎたが、ナナミーは明らかにヒヨクを避けている。
朝背負うときに、「お願いします」「ありがとうございます」とは言ってくれる。
だが、それだけだ。
会社までの道のりに、機嫌良く歌うこともなくなった。
――体を起こし、ヒヨクの背に体を預けることもない。
仕事で書類を提出するときも、固く小さな声で「ここに置いておきますね」と言うだけだ。
(機嫌を取らねえと……!)
焦る思いで、極上のおやつを取り寄せた。
取り寄せ不可の、1日限定5個の『とろける半熟干し芋』だって取り寄せた。
以前なら、極上のおやつを用意した日は、必ず『帰りを待ってました。一緒に食べませんか?』と声をかけてきた。
だが――
なるべく早く仕事を切り上げて帰るようにしているが、誘ってもくれない。
取り寄せたおやつは気に入ってくれたようだが、部屋にこもって、一人でゆっくりと味わっているらしい。
ナナミーの部屋を訪ねて、「一緒に食おうぜ」と誘うこともできない。
(断られたら)と思うと、部屋の扉をノックすることもできなかった。
こんなことは初めてだった。
これまでも、ナナミーに関して多少の焦りを感じることはあったが、ここまで不安な思いを感じたことはない。
どうしたらいいのかわからず、八方塞がりだった。
(誰かに聞くか)
そう思ったが、まともな助言をくれそうな奴が思いつかない。
ヒヨクの周りにいるのは、アザ持ちの男ばかりだ。
(……いや、アイツらはダメだ)
チレッグやヒュー、クリフを思い浮かべて、ヒヨクは首を振る。
クリフみてえなのに聞いたところで、参考になるはずがない。
チレッグやヒューに聞いても、ナナミーとの不仲を喜ばせるだけだろう。
――アイツらに、余計な情報を与えるべきではない。
そしてヒヨクは、レオードとヨウを思い浮かべる。
(……いや、アイツらは頼りにならねえ)
相談したところで、『そんなことより、運命のつがいを大事にしろよ』と言われるだけだ。
ナナミーがヒヨクの運命のつがいだと、確定しているわけではない。
そんな相談など、できるはずがなかった。
途方に暮れかけて、ふと思い出す。
(……占い師がいたな)
そういえば、市場の片隅に『よく当たる』と評判の占い師がいた。
前にされた占いは外れたが、相談事なら少しくらい当てるだろう。
一筋の光を見た思いだった。
早速仕事帰りに、ヒヨクは占い師のテントを訪ねた。
「オイ、機嫌を取るにはどうすりゃいいか、教えろよ」
顔を見るなりかけた言葉に、占い師が戸惑いを見せた。
「それは……女の機嫌かの?」
当たり前のこと聞く占い師に、ヒヨクはチッと舌打ちする。他の誰の機嫌を気にするというのか。
「……テメェ占い師だろ?分かってんなら、さっさと答えろよ」
凄んで見せると、肩を揺らした占い師が、慌てたように口を開いた。
「そうじゃの。女には、欲しいものが必ずある。女の望むものを贈ればいい」
「欲しいもの?」
ナナミーに欲しいものがあると占いの結果が出たようだ。
ヒヨクは片眉を上げる。
「そうじゃ。お前さんなら、何を望まれても叶える力があるじゃろう?だったら、女の望みを叶えてやるがいい」
確かに、ヒヨクには金も力もある。
ナナミーがどれだけ高価な物を欲しがったとしても、それを贈ることなど容易いものだ。
「まあ……な。分かった」
そう返事をして金を置き、屋敷に戻ってナナミーの部屋を訪ねた。
ナナミーの部屋の扉の前で、ヒヨクは柄にもなく緊張していた。
ノックをする前に、息を整える。
扉が開いたら、最初にかける言葉は決めていた。
『この前は勝手にカーテン開けて悪かった』
――そう、謝罪するつもりだった。
だが、久しぶりに送迎と仕事以外でナナミーと顔を合わせた瞬間、言葉が飛んだ。
「ナナミー、欲しいもんあんだろ?」
謝罪の言葉を飛ばし、願いを聞いた。
「用意してやるから言えよ」
「え!……あ、でもさすがに無理なお願いですし……」
やはりナナミーは欲しいものがあるようだ。
占い師の言葉は当たっていた。
すぐに遠慮したが、ナナミーの顔が一瞬パァッと明るくなったのを、ヒヨクは見逃さなかった。
「オレに用意できねえもんなんて、ねえんだよ。いいから言えよ」
遠慮を見せたナナミーに、ヒヨクは言葉を重ねた。
ナナミーが望む物ならば、なんでも買ってやるつもりだった。
全国のさつまいも農園だろうが、高級ブティックだろうが、ヒヨクが手に入れられないものなどない。
「あ……じゃあ……」
遠慮がちに願いを口にするナナミーを、ヒヨクはじっと見つめた。
「12日間の連休をお願いします。泊まりで出かけてきますね」
「は?12日……?」
思っても見なかった答えに、ヒヨクは動揺する。
ナナミーの願いは、物ではなく、休みだった。
しかもただの休みではない。
ヒヨクの屋敷ではない、外泊の12日間だ。
(そんなん、行かせられるわけねえだろ!)
思わず出かかった言葉は、「やっばり長すぎますよね……」と気落ちした様子で話すナナミーの姿に、口にすることはできなかった。
これ以上ナナミーに、失望されたくない。
「あ、いや――分かった。12日の連休だな。有給で上に申請してやるよ」
そう言ってナナミーの部屋を出るしかなかった。
ナナミーが望むなら、ヒヨクだって12日の休みを取って一緒に行く。
だが、ナナミーはそれを望まない。
(オレは……)
――嫌われてしまったのかもしれない。
胸の奥が沈み、廊下を歩く足取りがひどく重かった。
*
占い師の言葉が、女の機嫌を取るためのありふれた一般論だったことを――言葉足らずなアザ持ちの男が知る由もなかった。




