33.見つめる目
ヒヨクの屋敷には、大きな森がある。
敷地の境界線は、背の高い木々でぐるりと囲まれ、木々の隙間には、トゲトゲした固い薮でみっちりと埋め尽くされていた。
塀などなくても侵入は難しい。
中をのぞき見ることさえ容易ではない。
完璧なホームセキュリティを誇る、安心安全な屋敷だ。
そもそも、最強種族のアザ持ちの男の屋敷に忍び込もうなどという、命知らずはいるはずがない。
だが――
ある日、ナナミーは屋敷の様子を伺う目があることに気がついた。
それは偶然だった。
ナナミーは、どんなに安全な場所にいても、つい、緊急時に身を隠せる場所を確認してしまう。
屋敷の長い廊下にも、避難場所は多くある。
窓の端でまとめられた長いカーテンの陰。
高そうな置き物の裏。
いざという時に身を隠せそうな場所は見つけている。
もちろん屋敷の森も同じだ。
どこに岩や茂みがあり、どこに隠れられるのか。
あちこち把握していた。
隠れる場所を見つけることは、昔からの癖のようなものだった。
そしてある日の散歩中、たまたま敷地の境界線のトゲトゲした薮に、ナナミーひとりがしゃがみ込めそうな隙間を見つけたのだ。
見つけたからには確かめなくてはいけない。
ナナミーは、誰も見ていないことを確かめて、薮のトゲトゲに気をつけながらその隙間に入り込んだ。
鋭利に尖った固いトゲは危険だが、隙間に入りさえすれば、返ってそのトゲがナナミーを守ってくれる気がした。
――悪くない隠れ場所だ。
(あ……)
そっと視線を動かすと、薄暗い薮の隙間から外の光が見えた。
そこで、屋敷を見つめる女の存在に気がついたのだ。
背の高い女だ。
じっと屋敷を見つめている。
ナナミーも女をじっと見つめた。
だが女は動かない。通行人ではないようだ。
(ヒヨク様のファンの人かな……?)
アザ持ちの男は、全国民の憧れだ。
その中でも最強を誇るヒヨクを、一目見ようと願う女子は多い。
『ヒヨク様を見ないでください。実は私がヒヨク様の運命のつがいなんです』
ヒヨクに憧れる女子たちに、そんなふうに言えたら、と思う。
けれどそんなことを言えば、『あなたみたいなトロくさい人、ヒヨク様にふさわしくないわ!』と言われるだけだろう。
――その言葉に反論などできない。
ナナミーはただ、薮の隙間から背の高い女を見つめることしかできなかった。
女が現れたのは、その日だけではなかった。
次の日も同じ場所に立っていた。
翌日、仕事から帰って、念のために薮の隙間から外を覗いたナナミーは、その日も屋敷を見つめる女から目が離せなかった。
女は、薮の中から見つめるナナミーに気づいていない様子だ。
そのまた翌日もそうだった。
女は同じ場所で、ただ屋敷を見つめている。
ナナミーも、藪の中からただそんな女を見つめていた。
(今日も来てるかな……)
今日も仕事から帰ったナナミーは、薮の隙間に入りこんだ。
(いた)
今日も女は立っていた。
ポケットから取り出したおしゃぶり昆布を食べている。
ナナミーも、ポケットからハチミツ飴を取り出す。
薮に行くのに忙しくて、最近のおやつは、ヒヨクとお揃いで買ったハチミツ飴になっていた。
コロ……と口の中で飴を転がしながら、おしゃぶり昆布を食べる女を見つめる。
何日も見つめるうちに、ナナミーは女のことが嫌いではなくなっていた。
どこか好感が持てるのだ。
女は通行人を見ると岩陰に身を隠そうとする。
けれど、女が身を隠す前に通行人は立ち去っている。
おっとりした様子が好ましい。
時折りポケットからおしゃぶり昆布を取り出して、あんむあんむと口を動かすところも好ましい。
声をかけることはできないが、薮を隔てた先にいる、近くて遠い存在だった。
――遠い存在だと思っていた。
だが今日、突然に女がナナミーに話しかけた。
「ナナミーさん。相談したいことがあるのですが、お話を聞いてもらえませんか?あの、ほんの少しでいいんです。お時間は取りませんから」
ハッと息をのむ。
女は薮の中に潜むナナミーの存在に、とっくに気がついていたらしい。
もちろん、このままそっと屋敷に逃げ帰ることはできる。
だが、かけられた声に敵意は感じない。
『ただ話をしたい』、そんな思いが見て取れた。
「私に気づいていたんですね」
「えっ!!」
「え?」
ナナミーが声をかけると、女は明らかに動揺した。
焦ったように、キョロキョロと周囲を見渡している。
薮を隔てたナナミーに気づいてかけた言葉ではなかったらしい。
「あの……ここです。目の前です」
ナナミーは、ハチミツ飴を一つ取り出し、薮の隙間から差し出した。
「え……飴?あなたは……もしかしてナナミーさんですか?この飴……私にくれるのですか?」
戸惑いながら尋ねられた。
みっちり茂った薮の外側からは、ナナミーの姿は見えないだろう。
コクリと頷く代わりに、指先に持った飴を上下に動かして頷いてみせた。
「ありがとうございます。……あ、おいしい。よかったら私からも……これどうぞ」
渡した飴は気に入ってくれたようだ。
女はおしゃぶり昆布を薮の隙間から差し出してくれた。
受け取った昆布を、ナナミーはじっと見つめる。
ピシッと真っ直ぐに伸びた、肉厚なおしゃぶり昆布だった。
手触りからして、いつものものとは違う。
「ありがとうございます」
お礼を伝えてモグ……と食べると、ほんのりとした塩気を感じた。
モグ……モグ……と噛み続けると、昆布の濃厚な旨みが口に広がっていく。
――悪くない。
「とてもいいおしゃぶり昆布ですね」
ナナミーの感想に、女が嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。これ、チレッグ様にいただいた昆布なんです。私はモモノー様付きの使用人なんですが、『母さんの取り寄せのついでだ』って」
(チレッグ様のお母さん……?)
意外な名前を聞いた。
モモノーはチレッグの母だ。
以前青空市場にお店を出したときに、会ったことがある。
「あ、私はウミガメ族のウミュウと申します。そこにいらっしゃるとも知らずに、ナナミーさんに声をかける練習をしていました。失礼しました」
熱心に屋敷を眺めていたから、てっきりヒヨクのファンだと思っていた。
だが、どうやら違ったらしい。
ウミュウは、ナナミーに話しかける練習をしていたようだ。
確か相談したいことがあると話していた。
「ウミュウさん。私にしたい相談って……?」
声をかけた瞬間、ウミュウの顔が強張った。
その瞳が揺れ、明らかな動揺を見せた。
「あの……」
「その……」
何度も口を開いては、ウミュウが言い淀む。
よほど話しにくいことなのだろう。
ナナミーが隠れているこの場所は、門の前の通りから少し回り込んだ先にある。
これだけ言い淀むのは、通りで話すような相談事ではないはずだ。
(こんないいおしゃぶり昆布を分けてくれる人だし、部屋に呼んでも大丈夫だよね……?)
そう考えて、ナナミーはウミュウに声をかけた。
「ウミュウさん、ここでは落ち着かないと思いますし、私の部屋で話しませんか?お屋敷の門の方に、ぐるっと回ってください」
「いえ!そんな!ヒヨク様のお屋敷に入るなど、とんでもないことです!」
ナナミーの提案に、ウミュウが顔色を変えて必死に首を振った。
『それだけは絶対に無理!!』という想いが伝わった。
確かに――
ナナミーだって、ウミュウの話を聞くためだとしても、チレッグの屋敷に入るなんて無理だ。
アザ持ちの男の屋敷に足を踏み入れるほど、命知らずになれるわけがない。
「お話はここで大丈夫です。ただ、あの……そろそろモモノー様のお夕食の準備がありまして。もしよかったら、明日またここでお話させていただけませんか……?」
遠慮がちに声をかけられ、ナナミーは飴を薮の隙間から差し出し、上下に動かして頷く。
「ありがとうございます。あの、私からも……。これをもう一枚どうぞ」
飴のお礼におしゃぶり昆布を受け取って、「また明日」と約束を交わした。
ウミュウの姿が見えなくなるまで見送って、固いトゲに気をつけながら薮の隠れ家を出る。
(相談って何かな……)
ウミュウは、こんなにおいしいおしゃぶり昆布を分けてくれる人だ。
少し緊張するけれど、きっと怖い話ではないはず。
屋敷に戻りながらナナミーは、モグ……モグ……と昆布の旨みを噛み締めた。




