30.戻る日常
お昼休みあとの、窓から差し込む午後の日差しが温かった。
書類に落としていた視界がふっと揺らぐ。
ふわああんと、ナナミーの口からあくびがもれた。
瞬間――ヒヨクと目が合った。
(ヤバい!)
ドッ!と心臓が跳ねる。
慌てて口を閉じ、さっと視線を逸らした。
何事もなかったかのように書類へ目を落とす。
おでこにヒヨクの視線が刺さっている。
けれど必死に、気付かないふりをした。
ドッドッドッと、波打つ鼓動が耳の奥でうるさく響いていた。
10日間の瞑想修行で、すっかり修行体質が身に付いてしまったようだ。
お弁当後の午後の仕事は、修行モードに入りがちになっている。
断食道場生活では、確かにヒヨクは優しかった。
ナナミーの瞑想修行のペースに合わせて、いつでもおいしい料理を作ってくれた。
けれど、元々は鬼畜な上司だ。
いつ鬼畜スイッチが入ってもおかしくない。
『ナナミー、仕事中にあくびなんていい度胸してんな。そんな暇ならこれもやれよ』
以前のようにそう言って、山のような書類を押し付けられるかもしれない。
それでは済まされないかもしれない。
『今日は残業だ』
『もちろん、明日もだ』
『今度の休みも仕事しろよ』
――そう言われてもおかしくない。
あくび一つで、鬼畜な上司が再び目を覚ます可能性は十分にあった。
「えーっとここは……」
ナナミーは書類を指でなぞりながら呟き、いかにも仕事中という顔をした。
――だというのに。
「ナナミー。お前今、あくびしただろ」
ナナミーの隣の席のゴルゴが、余計なことを言い出した。ヘラヘラ笑いながら話す声が大きすぎる。
――ヒヨクに聞こえてしまう。
(この、ゴリラ野郎めっ!)
ナナミーはぐっと眉間に力を込める。
ゴルゴには、『余計なこと言わないでよ!』と言ってやりたい。
けれど相手は強い種族のゴリラ族の男だ。
言いたい言葉は当然言えるはずもなく、ナナミーはにこやかに笑って見せた。
「まさか。そんなわけないでしょ。今日の書類があまりにも難しいから、ため息ついただけだよ」
ヒヨクに聞こえるように、『あれはため息』だったと主張する。
仕事中のあくびを、決して認めるわけにはいかない。
それは危険極まりない行為だ。
その責任は、本人だけではなく周りの者まで及んでしまう。
あくびの連帯責任を取らされ、残業に巻き込まれたことは数え切れない。
ヒヨクを知る者ならば、その危険は身に染みているはずだ。
ゴルゴもその危険を知っているはず。
――知っているはずなのに。
「は?あれがため息のわけねえだろ。その冗談、面白くなさすぎて逆に笑えるな」
ゴルゴがさらに余計なことを言いながら、ガハハと笑う。
その笑い声が部屋に響いた。
(終わった……)
ナナミーは自分の未来を悟った。
あくびをした罪で、今日は残業だ。
明日も、明後日も、次の休みも、きっとそうだ。
そこにヒヨクの苛立ったような声が、ゴルゴに向けられた。
「ゴルゴ、仕事中に楽しそうじゃねえか。仕事が足りねみてえだな。そんな余裕あんなら、これもやれよ」
「え〜オレじゃなくて、余裕あんのはナナミーっすよ」
ヒヨクに書類の束をバサッと差し出され、ゴルゴが不満そうな声を上げる。
ゴルゴの言葉に、ナナミーの肩が大きく跳ねた。
「……聞こえねえのか?」
ヒヨクの声が低くなり、ヒュッとゴルゴが息をのむ音が聞こえた。
しん……と部屋が静まり、緊張感が高まっていた。
「すみません。すぐやります」
ゴルゴが小さな声で返事をして、ヒヨクのデスクまで書類を受け取りに行く。
(次は私だ)
ペンを持つ手が震えた。
次はナナミーが裁かれる番だ。
ゴルゴに名前を出されてしまったし、あくびの罪はすでに明るみになっている。
今さら言い逃れできるはずがない。
ナナミーは書類を見つめながら断罪の時を待った。
コチ……コチ……
壁に掛かった時計の音だけが、静かな部屋に響いている。
(……あれ?)
しばらく待っても、何も起こらない。
部屋の中にはまだ緊張感は残っていて、皆がヒヨクの様子を伺いながら、ペンを走らせる音だけが響いていた。
けれどヒヨクは何も言わない。
ナナミーは恐る恐る顔を上げた。
そう……っヒヨクに視線を向けてみる。
(仕事してる……)
ナナミーの見つめる先で、ヒヨクは書類に目を走らせていた。
もしかするとナナミーは、あくびの罪を逃れられたのかもしれない。
「この書類、大変だったな……」
念のため呟いてみせ、すでに終わった書類をトントンと整えた。
またチラッとヒヨクに視線を向けたが、ヒヨクは変わらず書類に目を落としていた。
(助かった……?)
ふう、と安堵の息をつく。
残業の危険は去っていた。
残りの仕事を定時キッチリに終わらせれば、ナナミーは無事に今日も帰れそうだ。
ふふ〜ん♪と歌い出しそうになる気持ちをぐっと抑えて、ナナミーは次の書類の束に手を伸ばした。
* * *
ナナミーの強張った顔から緊張が消え、今にも歌い出しそうなほど口元が緩んでいた。
はああっ、とヒヨクは内心安堵の息をつく。
午後の日差しの中、ナナミーが眠そうにしていることには気づいていた。
ユラ……と頭が揺れるたび、このまま倒れるのではないかと視界の端で気に掛けていたほどだ。
カクン、と小さく頭を揺らして目を覚ました様子を見せた時には、思わずほっとした。
――決して、あくびを責めるつもりなどなかった。
だが、そのままナナミーを見つめていたのがいけなかったのだろうか。
視線が合った瞬間、スッと目を逸らされた。
書類に目を落としながら、『えーっとここは……』と呟く声が震えていた。書類をなぞる指先までも小刻みに震えている。
ふと、幼い頃に見た、母親のコフィの姿が頭をよぎる。
『いい?ヒヨク。鬼畜な言動に注意するのよ?鬼畜な仕打ちは……一生忘れないものよ?』
何があってそんな話をされたのかは分からない。
だが、そう話すコフィの目は妙に暗かった。
そしてコフィの後ろでは、『あの時は悪かった』とレオードが必死に謝っていた。
運命のつがいのアザなどなかった当時は、(鬱陶しい話しやがって)としか思っていなかった。
だが、今ならコフィの言葉の意味することがわかる。
『一生忘れない』
コフィは今でも、事あるごとに昔話を蒸し返す。
あの言葉は本物だった。
そしてナナミーもまた――
これまで当然のようにさせてきた残業を、一生忘れるつもりはないのだろう。
(まさか……)
ドクン!と、心臓が跳ねた。
(一生、オレの運命のつがいだと名乗り出る気はねえのか……?)
その時、ガハハと笑い声が部屋に響いた。
ゴルゴの野郎が、ナナミーを見て楽しそうに笑っていた。
(あの野郎……!)
思わず山ほどの書類をゴルゴに押し付けてやった。
だが、その苛立ちを見たナナミーはさらに怯えてしまったらしい。
書類から顔を上げようともしない。
ヒヨクはぐっと口を引き結び、書類に目を走らせるふりをしながら、ナナミーの様子を見守った。
今のナナミーは、フン♪フン♪フン♪と声には出さないまま、リズムを取るように小さく顔を揺らしている。
あとは定時きっかりに、『時間だ。上がっていいぞ』と声をかければいい。
ナナミーに嫌われる危険はすでに過ぎ去った。
壁時計が、コチ……コチ……と平和な時を刻んでいた。




