24.ぶどう警備員ヒヨク
「ワッニエッルさーん!」
遠くで声がする。
(ベアゴーくんだ……)
目を開けて体を起こすと、カーテンから明るい光が差し込んでいた。
昨夜早くから瞑想修行に入っていたが、長引いてしまったようだ。
時計を見ると、お昼を少し過ぎていた。
(朝……じゃなくて、お昼ごはん食べに行こうかな)
断食道場の食堂では、朝と昼とおやつと夕食の四食が用意されている。
お昼を少し過ぎた今なら、食堂にいる人は少ないかもしれない。
バイキング形式の料理を取るのに、『ちょっと早くしなさいよ』『遅せえんだよ』と責められる危険は低いだろう。
「ワッニエッルさーん!」
またベアゴーの声が聞こえた。
今日は休日だ。
仕事がお休みの今日、ベアゴーはお昼から遊びに来たようだ。
ナナミーは着替えを済ませて、窓際に向かい、カーテンを開ける。
「おはよう、ベアゴーくん」
そう声をかけようとして――喉元に声が貼り付いた。
中庭に立ったベアゴーが、両脇に大きな魚を抱えていた。
ビッチビッチと激しく暴れる二匹の魚が、ベシッ!ベシッ!とベアゴーを叩いている。
「ベアゴーくん!ごめんね、お待たせ!わあ!素敵な食後のデザート!今行くわね!」
そこに聞こえたワニエルの声が弾んでいた。
中庭から視線を上げると、いくつか先の部屋の窓からワニエルが手を振っている。
どうやらお昼ごはんから戻ってきたらしい。
(デザート……)
あの大きな魚は、食後のデザートの差し入れだったようだ。
ワニエルのデザートが、ベシッ!ベシッ!と、嬉しそうに笑うベアゴーを叩いていた。
「ナナミー、起きたのか?」
「あ、ヒヨク様。おはようございます」
暴れる魚を眺めていたら、いつの間にか中庭にヒヨクも立っていた。
「昼に食い過ぎると、夕食食えねえだろ?デザート食うか?そこの森でぶどう見つけたから採ってきたぞ」
小脇に抱えていたカゴを見せてくれると、中には艶やかなブドウが入っていた。
「森のぶどう……!すぐ行きます!」
ヒヨクの選んでくれたぶどうは、きっと特別おいしいに違いない。
心は弾んでいた。
昨夜からの瞑想修行で、今日のコンディションも最高に整っている。
スタ……スタ……と長い廊下を足早に歩き、ナナミーはヒヨクの元へ急いだ。
中庭に出ると、すでにワニエルのデザート作りは始まっていた。
中庭に入ってすぐの場所に、今日もまた焚き火台が用意され、網の上には二匹の大きな魚が焼かれている。
ゴウゴウと燃え盛る火の中で、バチバチ音を立てながら、お魚の影が揺らめいていた。
今日は、お肉の毛が焼ける怖い匂いはしていない。
昨日あれだけ怖い匂いを体験した後なので、匂いはあまり気にならなかった。
昨日ほど怖くない。
昨夜の瞑想修行で心と体が整えられて、少し強くなっているのかもしれない。
「ナナミー、何見てんだ?こっちだ」
ヒヨクに呼ばれて、ナナミーはスタ……!スタ……!と力強くヒヨクの元へ急いだ。
森のぶどうは香りが濃い。
ヒヨクに近づいただけで、紫色の香りを感じた。
――それはとても懐かしい香りだ。
森の中でも強く香るぶどうは、すぐに他の誰かが見つけてしまう。
たとえ奇跡的に見つけることができても、『そのぶどう、寄越せよ』『トロくさいあなたには贅沢よ』と言われて取られてしまうものだ。
ぶどうを見つけたときは、素早く狭い隠れ基地に隠れて、ゆっくりと味わう。
それが森でぶどうを見つけたときの、正しい食べ方だ。
ここは開けた中庭で、隠れる場所はないが、最強種族のアザ持ちのヒヨクがいる。
今日は誰にも取られずに、貴重なぶどうを味わうことができるだろう。
「わぁ〜……」
カゴの中からヒヨクがぶどうを一房取り出した瞬間、ブワッとブドウの香りが鼻に抜けた。
「おいしそう……」
ドキドキしながら一粒ぶどうを口に含むと、口の中に果樹園が広がった。
(ぶどう―――!!!)
カッ……と目を見開く。
噛んだ瞬間に果汁が弾けた。
濃い甘味の奥にほんの少し渋みがあって、深い紫色の味わいだった。
ヒヨクの屋敷のぶどうとは違うが、このぶどうもまた、ぶどう界のプリンスだ。
モグ……モグ……と、まだ口の中にあるにも関わらず、次の一粒を手に取ってしまう。
「うまいか?」
ヒヨクにそう尋ねられたが、口の中がいっぱいで答えることができない。
返事の代わりに、ナナミーは力強く頷いた。
モグ……モグ……と食べる手が止まらない。
夢中になって食べながら、ハッと気がつく。
いつだって森のぶどうは、誰か他の人のものだ。
奇跡が起きない限り、ナナミーが口にすることはできない。
安心してぶどうを食べるために、ヒヨクにお願いしなくてはいけないことがある。
ナナミーは口の中のぶどうをゴクリと飲み込んで、ヒヨクに声をかけた。
「ヒヨク様」
「なんだ?」
「ぶどうを食べる間、このまま側にいてくれませんか?」
そう言った瞬間――
ヒヨクが目を見開いた。
しん……と静寂が広がる。
弱小種族のナナミーが、最強種族のアザ持ちの男に願いを伝えるなど、愚かの極みだ。
ヒヨクのぶどうのあまりのおいしさに、立場もわきまえず、つい口をついた願いごとだった。
だが、やはり命知らずな言葉だったのかもしれない。
ヒヨクが黙ってしまった。
『ふざけてんのか? どこまで面倒見りゃ気が済むんだよ』
――ヒヨクの沈黙が、そう語っていた。
ヒュッと背筋が冷える。
「あの、すみません!なんでもないです!」
「なんで謝んだよ。……側にいるに決まってんだろ」
(ヤバい!調子に乗り過ぎた!)
ナナミーが慌てて謝ると、ヒヨクがそう答えてくれた。
ナナミーの必死な謝罪の心が届いたようだ。
(助かった……)
「ありがとうございます」
ほっと安心して、えへへと笑ってお礼を伝えた。
「ほら、手え止まってんぞ。早く食わねえと、腹が膨れて食えなくなるぞ」
そうだ。今は貴重な森のぶどうを食べているときだ。
急がなくてはいけない。
ナナミーは急いでぶどうを一粒口に含む。
モグ……モグ……と食べながら、また次の一粒を掴んだ。
* * *
『ぶどうを食べる間、このまま側にいてね?』
それは、コフィがレオードにかける言葉だ。
コフィの実家のある森に遊びに行き、ぶどうを見つけるたびに、必ずコフィがレオードにかける言葉だった。
『側にいるに決まってんだろ?』
そしてそれは、レオードが必ず返す言葉だ。
(母さんも、めんどくせぇこと言ってんな)
(食べるのもトロくさいヤツに付き合うなんて、親父ももの好きな野郎だな)
ヒヨクはずっとそう思っていたが、今なら分かる。
それは――運命のつがい同士の会話だ。
『食べる間も側にいてほしい』と願う気持ちであり、『いつでも側にいたい』と応える言葉だ。
(やっぱナナミーが運命のつがいなんじゃねえか)
ヒヨクと同じアザを、すでに体のどこかに持っているのか――それとも、これからアザが表れるのかは分からない。
けれど無意識にも、ナナミーは運命を感じさせる言葉を口にしていた。
(心臓が止まるかと思ったぜ……)
ヒヨクは緩みそうになる口元を、手で押さえる。
ナナミーを見ると、ヒヨクの採ったぶどうを、ゆっくりではあるが夢中になって食べていた。
どれだけ時間がかかろうとも、この姿を見飽きることはないだろう。
胸の奥が、どうしようもなく満たされていた。




