1-7 赤き印章
大公レオポルト三世から直々に特許状を授与された、非凡なる農奴にして豚飼いの少年ヘニョ。五匹の豚をつれ、インスブルックの大都会をあとにして、イン川を左に眺めつつ、恩人ヤックライン隊長が首を長くして待つ故郷(?)アルレン城を目指し、意気揚々と街道を歩いていた。旅が経験させたさまざまなことが、ヘニョ少年をほんの少しだけ大人にさせていた。
イムストの街では、ブッダを追いかけて、ふたたびあの古い泉の裏の2ペニヒの宿に泊まることができた。またもオマケされた豚たちの宿代にお礼をいって、馬小屋掃除の手伝いをした。
天気が悪くなりそうだからと、カッパを一枚もらい、お腹の腹巻きに隠した特許状を守る決意を新たに、ヘニョたちは足早にイン川を遡り、ランデックの町へと急いでいた。
行きに下り坂を降りる者は、帰りは登り坂を登る。
そして、山の天気は変わりやすい。
ランデックの手前で、空はにわかに曇り始め、激しい雨が降り始めた。
「みんな、走って! 急げ急げ!」
雨宿りをすればよかった。でもどうしても今日中にランデックに行きたかったヘニョは豚たちを急がせた。イムストでゆっくり休めたヘニョも豚たちも元気一杯だった。だからずっと登り坂であるにも関わらず最初は走るのも楽しかった。しかし秋の雨は長く、冷たく、容赦なくヘニョたちを叩いた。そしてその雨は、ヘニョの左手の甲にこの旅のあいだずっとあった『豚飼いの紋章』――ザンクト・アントンの教会で描いてもらった赤土のおまじない――を、跡形もなく洗い流してしまった。
(豚飼いの紋章……。今までありがとう……)
落ち込んでいる暇はなかった。ベーコンが冷たい雨に当てられて風邪を引きそうだった。ヘニョは自分が来ていたカッパをベーコンに巻いて紐で縛ってやった。ベーコンは熱を出していた。ランデックの町に入ったら、ヤックライン隊長に貰ったお金を使ってでも、絶対に屋根のある温かい宿を取ってやろうとヘニョは思った。 地面はぬかるんで度々滑り、服は芯から冷えて重たくなっていった。
◯
それでも日の入り前に一人と五匹が、ランデックの堅牢な木造門の前にたどり着いたとき。
「徒歩1ペニヒ。豚の群れひとかたまり3ペニヒ。合わせて4ペニヒだ」
ぎらりとした槍を持ったシュロッフェンシュタイン家の兵士にそう遮られ、ヘニョは少し考えた。
4ペニヒならば、自分の持ち出しでぎりぎり払える。だけど今日は豚たちのために温かい家がほしい。
ザンクト・アントンで寄付して1ペニヒ。イムストで往復4ペニヒ。インスブルックで泊まって3ペニヒ。昼にパンを買って食べた分が合わせて2ペニヒ。ここまでで使ったお金は合計10ペニヒ。残り5ペニヒ。
もしこの税金を払わなくていいのなら、今日の宿代をきっと自分のお金で払える。そうしたら、ヤックライン隊長のお金に手をつけずに全部返すことができる。
ヘニョはインスブルックの城門でのことを思い出していた。
インスブルックの城門で学んだことは、偉い人のお手紙というものは、入街税をちゃらにするということだ。
そしていまヘニョはとても偉い人のお手紙を持っている。
この生意気な豚飼いは完全に味をしめていた。
◯
「ランデックの騎士さま、これを読んでください! ぼくは大公殿下の使者です!アルレン城のヤックライン隊長向けのお手紙をあずかった使者です!」
ヘニョは腹巻きから、大公レオポルト三世から貰ったばかりの、まばゆい特許公文書を取り出して手渡した。それに何が書いてあるのか知らないまま。
よかった。濡れずに守れていた。と安堵しながら。
通るかな。通ってくれるといいなあ。と不安に思いながら。
門番は羊皮紙を受け取って、内容を読むと、驚いた顔をしてヘニョを見て、もう一人の門番に耳打ちすると、どこかへ行ってしまった。だいじなだいじな大公さまのお手紙も、断りもなく持っていかれてしまった。
ヘニョと豚たちは、残った門番に動くなと言われ、大人しくそのとおりにしていた。木造ゲートの影になるべく寄って、雨に少しでも濡れないように立っていた。雨風が吹き付ける中をヘニョと豚たちはベーコンの周りに集まって、いつも自由なブッダまでもぎゅっと寄って、ベーコンを温めていた。ハムが他の豚をかばって一番雨の当たるところをゆずらなかったから、いいこだねとヘニョは撫でた。
そして日が落ちて辺りが真っ暗のどしゃ降りになった頃、ようやく門番は帰って来た。
「アルレン城のヘンリク。貴様を豚泥棒と公文書偽造の罪で拘束する」
ヘニョはわけもわからず特許状を奪われ、暗く冷たい地下牢へ叩き落とされた。
◯
シュロッフェンシュタイン側にとって幸いなことに、その公文書にはまだ大公の正式な「印」が押されていなかった。
「しかし御署名はどうやら本物のようです」
文官の緊張した物言いを、シュロッフェンシュタイン家当主コンラートは鼻で笑った。
「大公の署名? フン、印のない文書などただの落書き、偽書だ。
だが、放っておけばやがて大公が本当に特権を認めてしまう。明日にでも、この偽書を持った小僧を『偽造罪・反逆罪』で即座に処刑し、すべてを闇に葬れ。
それと、この小僧に知恵をつけ、大公と引き合わせた身内の裏切り者――ヤックラインを今すぐ捕縛しろ。二人まとめて断頭台へ送るのだ」
◯
(隊長、すみません……)
冷たく暗い地下牢の、ゴザとむしろのあいだで、ヘニョは、天井を見つめて、いったい何が起きてるんだろうと思いをめぐらせた。
農奴なのにインスブルックに行こうとしたこと、豚たちをつれていったこと、これがやっぱり悪かったのかもしれない。
あのとき4ペニヒを払っていたらこんなことにならなかったかもしれない。
大公さまと約束したのに、ヤックライン隊長が真実ですと言ったのに、それが信じてもらえないことが悔しかった。
でも少し待てば、ヤックライン隊長がインスブルックに行ったり、大公さまにお手紙を出したり、もっといい方法があったのかもしれない。
それに豚の世話も城の人に頼めばよかったかもしれない。
(ベーコン、大丈夫かな……)
ヘニョはザンクト・アントンに、ベーコンをお守りくださいと祈った。
(この街に今日もナターシャがいるのかなあ……)
彼女の低い声と、温かそうな毛布と、小さな器に入った湯気の立つ飲み物が、その夜は何度も思い出された。
◯
翌朝。雨は上がり、雲ひとつない青空が広がっていた。
地下牢から引きずり出されたヘニョが次に押し込まれたのは、見上げるほど高い、鳥かごのような、頑丈な鉄格子の檻だった。
ゴトゴトと、家畜のように檻ごと荷馬車で運ばれながら、ヘニョは格子に顔を押し付けるようにして、必死に外の様子を窺った。
朝の光に照らされたランデックの街は、アルレン城やイムストとはまるで違う、息が詰まるほどのものものしさに支配されていた。
大通りを往くのは、頭に黒いダチョウの羽を飾った不気味な黒馬の二頭立て馬車。
辻の四隅に立つ高い監視塔からは、兵士たちが民を見下ろしている。
そして、崖の上の城の高いバルコニーを見上げたとき、ヘニョは息をのんだ。そこには、黒と毛皮の重厚なドレスを纏った貴婦人たちが、冷徹な美しさで立ち並び、そのすべての目が檻の中の自分をじっと見下ろしていた。シュロッフェンシュタイン家の女性たちがいるそのテラスには――この一族の紋章旗「赤地に白の三本足の鷹」が、たなびいている。
◯
やがて荷馬車は、凄まじい数の商人と馬車、荷駄、兵士、家畜、そして彼らを相手に商売する市民たちがごった返す、広大な『徴税待ち合い広場』へと滑り込んだ。見渡すかぎりの人の波に突っ込んでいく罪人の馬車を、押し退けられた人たちはまじまじと覗き込んできた。
馬車から下ろされ、広場に常設された黒光りする木造の処刑台へと連行される。
みっしみっしと階段をのぼったその上で、ヘニョは大きな衝撃を受けた。
(ヤックライン隊長……!?)
後ろ手に縛られたヤックライン隊長――アルレン城城代ヤックライン・ウーバーリンが、観衆に向けてひざまずかされていた。
(隊長になんてことを……!!!)
ヘニョは猿ぐつわをされていることも忘れて声にならない声をあげた。
さらにその向こうには、ハム、ピンク、ブッダ、ベーコン、ポルコの5匹の豚たちまでが、チャーシューのように縛られて転がされている。 ハムだけが縄を解こうともがいていて兵士に足で踏みつけられていた。
「罪人ヘンリクの罪状を申し渡す! 主家の豚を無断で連れ出した『豚泥棒』、ならびに大公の名を騙った『公文書偽造』、ならびに徴税を逃れようとした『脱税』!以上の罪により、本日これより死刑に処す!」
死刑執行人の冷酷な声が広場に響き渡る。
ヘニョと同じく猿ぐつわを噛まされたヤックライン隊長は疲れきった顔でヘニョに視線を送った。
その瞳は困り果てたような諦めたような、それでもヘニョを心配するようないつもの隊長らしさがあった。
ヘニョの左手には、もうザンクト・アントンの加護は残っていなかった。奇跡を祈る声すら出ない。首切り斧の分厚くて冷たくて油を塗られた刃が、ヘニョの首筋に当てられ、何度か振り下ろす真似をされる。死刑執行人は、観衆の注目が集まるのをそうやって待っていた。もう終わりだ、僕は死ぬんだ、とヘニョは自然と受け入れられた。その時だった。
◯
地響きが起き、ドドドドという、凄まじい数の蹄の音が、大気を震わせ近づいてくる。
「――どけい! 我こそはチロルの星レオポルト突撃公なるぞ!宿星の進軍を阻む者は何奴か!」
馬のいななきと轟くような大声に群衆が悲鳴をあげ左右に割れてゆく。その中央を、まばゆい白銀の鎧を纏い、立派な軍馬に跨った大公レオポルト三世が、精強な重騎兵隊を引き連れて猛然と突っ込んできた。
幾多の戦場を駆け抜けたこの武人大公の突撃の恐ろしさに、処刑の執行が行われようとしていたことなど、この場の誰もが忘れていた。大公は馬の上から、唖然とするシュロッフェンシュタイン家の騎士たちを睨みつけ、それから断頭台のヘニョを見て、豪快に笑った。
「すまないな、ヘンリク! わしとしたことが、あの日うっかり『判子』を押し忘れてしまったわい!」
悲鳴が落ち着いた広場全体は、ひそひそ、ざわざわとさざめきが広がっていく。
みんな何が起きているのかと左右に聞いているのだ。
大公は馬から降りると、大股で断頭台へと登り、シュロッフェンシュタイン家の当主コンラートの前に歩み寄った。
「コンラート卿、このたびは我が不手際で、貴殿の領内の騎士たちに『本物の大公文書』を偽物と勘違いさせた。その上、我が直属の使者を処刑しようとするという大罪を犯させてしまうところだった。だが、許せ。わしは間に合った。わしが今ここで判子を押せば、万事解決だな?」
「で、殿下……! 恐れながら、この農奴は主家の許可なく……」
コンラートが抗議しようとするが、大公が歯を剥き出して睨み付けると言葉が途切れてしまった。
「我が使者に持たせた書状は他でもない、ここにいる豚飼いヘンリクが草案し、我が忠義なる騎士ヤックラインが保証した、アールベルクの神聖なる救護所計画への許可証だ。この計画には多くの人の助けが必要だ。シュロッフェンシュタイン家ほどの格式ある名門ならば、大公のわしに倣って、私財をどっさりと投じて、この少年の山小屋建設に『協力』することで、この不運な騎士とあわれな少年に報いてくれることであろう?どうだコンラート、今この場で、領民たちの前で誓ってはいかがか」
大公の大地を割るような大声と畳みかけるような政治的威圧の前に、コンラートは青ざめていたが、ついに諦めたようだった。両手をうち、その手を聴衆に向かって大きく開いた。
「……はははっ、さすがは殿下。見事なおさばきでございます。我がシュロッフェンシュタインも、このたびの失態を償うべく、世のため人のため、貧しい旅人のため、我が民であるところの豚飼いヘンリクの試みに、喜びをもって協力いたしたく……」
「いまの言葉を、きいたものは?」
大公が振り返って民を煽ると、私は聞いた!俺も確かに聞いたぞ!と叫ぶ声が帰ってくる。
大公はよしよしと頷いた。
「コンラート・シュロッフェンシュタインの願いを確かに聞き届けた。ここにいる全ての人間と、この大公レオポルト三世が、証人である」
その場で、コンラートに特許状をもって来させ、署名させ、そこへ真っ赤な蝋を垂らし、ハプスブルク家の本物の重い印章(判子)をドスンと叩き込んだ。
◯
「騎士ヤックライン・ウーバーリン!豚飼いヘンリク!またその豚五頭!貴殿らにかけられていた疑いは晴れた!こたびの貴殿らの無罪を、シュロッフェンシュタイン家当主コンラート・シュロッフェンシュタインが保証することをここに宣誓する!」
その瞬間、ことの成り行きを理解した広場の数千人の聴衆は、何かを一斉に喋り始め、動き始め、自分達の日常へと帰っていった。
縄を解かれたヘニョとヤックラインは、すぐに立ち上がる元気もなく、その光景を眺めていた。
「ヘニョ」
「はい!ヤックライン隊長!」
「うまいもん食べれたか?」
「お魚と蜂蜜を食べました!」
「よし。それはよかった」
ヤックラインは、ふう、と息を吐いた。
◯
「ありがとうございました!大公さま!」
処刑台から解放されたヘニョの頭をぽんぽんと叩いて、大公は顔を近づけた。
「油断するな。これであきらめるやつらではないぞ」
えっ?という顔のヘニョを置き去りにして、大公は、再び軍馬に跨った。
そして今度は朗らかに遠くまで聞こえるように言った。
「気をつけて行けよ、ヘンリク。お前の『家』の完成を、楽しみにしているぞ」
◯
インスブルック宮殿に帰って来た大公レオポルト三世は、寝室の長椅子にどっかりと腰掛け、怒りをあらわにゴブレットを煽っていた。
「シュロッフェンシュタインの禿鷹め。そんなことだろうと思ったわい。あの日、あの大きな豚の丸焼きがでた晩餐会で、豚飼い小僧とヤックラインの爆笑エピソードを、わしはわざわざ三回はしたのだぞ?あいつも奥方も、それは傑作でございますね、と応じてくれたではないか。その上でよろしく頼むとわしは言ったではないか。それなのに『知らないふり』を決め込んで、印がないのをいいことに我が使者を磨り潰そうとしおって。よほど、聖域とあの小僧が気に入らんらしい」
「ですから印章を押すなとご指示なさったのでございますね」
大公の書記官ハンスは傍らに立ち、大公のゴブレットに最後のワインを注ぐ。
「さてな。おい、次のワインを持て」
大公は杯を一息に煽った。
◯
こうして、ヘニョが始めた無謀なプロジェクトは、さまざまな陣営の思惑を巻き込みながら、新たな局面へと突入していくのだった。
(第1章・後編 / 完。第2章へ続く!)




