1-5 凍てつく朝
「……ふごっ」
冷たい朝露と北風に震えながら、ヘニョが目を覚ましたとき、最初に見えたのは、見知らぬおじさんの禿げ頭だった。
昨夜、ランデックの門から締め出され、その外にある巨大な門前広場の隅っこの草むらで野宿をしたヘニョたち。明るくなってから見渡してみれば、広場のあちこちに商人の馬車が止まっていたり、テントが立っていたりした。
そういうところで飲んでいたのだろうか、泥まみれの服を着た見知らぬおじさんが、ピンクの背中を枕代わりにして、酒くさい息でいびきをかいている。ピンクも「まぁ、あったかいからいいよね」と言わんばかりに、おじさんに背中を提供している。
「うわあ……。ええ……?おーい、みんな、起きて」
ヘニョは驚きながら起き上がり、お腹に抱きしめていたヤックライン隊長の手紙が無事なのを確かめてホッとした。お金も無事だった。
アガタお姉さんに描いてもらった左手の『豚飼いの紋章』も、濡らさずにきれいに残っている。その代わり、手袋をつけずに野宿した左手は氷のように冷たくて、なかなか指が曲がらなかった。
ヘニョは起きないおじさんを苦労して道端に寝かせると、寝ぼけまなこの豚たちを引き連れて、広場の向こうできらきらと輝いている朝日の土手の上へと登った。
そこからは、ランデックという町が誇る、美しい絶景を存分に見物することができた。
「わあ……! すごいや、ハム」
眼下では、ヘニョたちがずっと一緒に歩いてきた、アールベルク峠からの白く激しい急流「ロザンナ川」が、南からとうとうと流れてくるエメラルドグリーンの大河「イン川」へと、激しい濁流の音を立てて、ガチャンと接続していた。
合流したイン川は川幅を広げ、雄大なきらめきを湛えながら、はるか東の地平へと力強く流れている。もちろん「イン川」とかいう名前をこのときヘニョが知っていたわけではないのでこれは読者向けの説明である。
そしてその濁流の真上にドスンと架かっているのが、シュロッフェンシュタイン家が支配する、巨大な屋根付きの木造橋(関所)だった。
ヘニョは、その橋の手前でピタッと足を止め、はて、と考え込んだ。
ヤックライン隊長はロザンナ川を指して、「この川に沿って道を行け」と言っていた。「ランデックには橋がある」とも。「ランデックをでたら川沿いにすすめ」とも言っていた。いま目の前にはもの凄くかっこいい大きな橋がある。正直渡ってみたい。しかし。
(ぼく、あの橋を渡るのかな……? )
ヘニョは、インスブルックまでの地理を地図のかたちでインストールしているわけではないから、ヤックライン隊長の言葉だけがたよりだった。しかしその金言には今や解釈が分からない点が発生していた。かと言って、槍を持った怖い衛兵に話しかける度胸がいまいちつかない。ヘニョが豚五匹を引き連れて、橋を見ながら「うーん、うーん」と頭をフリーズしていると。
「お困りかい、旅人の坊や」
背後から、ふわりと不思議な匂いとともに低くて優しい声が降ってきた。
振り返ると、女の人が立っていた。波打つ黒髪を風になびかせ、温かそうな毛布を肩にかけて、湯気の立つ飲み物の小さな器を手に持っている。風で顔にかかる髪を指でどかす仕草に、ヘニョはなんだかドキリとした。
◯
「お姉さん、おはようございます。ぼく、いんくぶるっすに行きたいの。この橋を渡ればいいのかな?」
ヘニョが素直に尋ねると、お姉さんは少し笑いながら眉をひそめて首をかしげた。
次に、あーわかったぞ?と言うように口を開けて何度か頷いた。
「インスブルックね? あはは、だったらその大きな橋は、渡らなくていいんだよ」
「いんすぶるっく……」
ヘニョは初めて正しくインスブルックと言えた。
お姉さんは、飲み物の器を持った方の手で橋を指した。
「そこの関所(橋)を渡るとね、シュロッフェンシュタインの厳つい男たちに、なけなしのペニヒを毟り取られちまう。インスブルックへ行くなら、橋を渡らずに、この川の左側をずうっと真っ直ぐさ」
お姉さんは飲み物を持ってない方の手で、今二人が立っている道を指し、それからいま太陽が登り始めた東の方角へ向かって、つーっと道を指差していった。
「そうすれば、税金なんて1ペニヒも払わずに、『イムスト』まで行けるよ。それで、同じ道を行けば、その向こうにインスブルックがある」
「いむすと……! 」
ヘニョは忘れかけていた地名をいま思い出せた。
「橋を渡らなくていいんだ! ありがとう、お姉さん!」
ヘニョは感謝をのべた。のべたりないという気持ちが起こったが、残念ながらヘニョには語彙がなく、悲しい気持ちだけが胸に残った。
お姉さんは、どういたしましてといって、飲み物を飲んだ。
「気をつけて行きなよ、おチビちゃん」
「はい! ありがとうございました!」
ヘニョは元気に手を振って、豚五匹を連れて、広くなった川を右手にみながら、東へ向かって歩き出した。
◯
しかし、お姉さんが温かい飲み物を飲み終わる前に、一人と五匹はとことこと戻ってきた。
ヘニョは真剣な顔をして左手を天に突き出し、何の前触れもなくいきなりぶちかました。
「豚飼いの紋章よ!我に力を!!ザンクト・アントン、聞こえますか!どうかお聞き届け下さい!この優しいお姉さんに今日はいいことがありますように!」
お姉さんは、突然始まった謎のエキシビションに動揺もせず吹き出しもせず、ヘニョに対してとっても嬉しいという笑顔を向けた。
「わーお、ありがとう。それ、素敵な紋章ね」
それから少しかがんで、ヘニョの目線と自分の目線の高さを合わせるようにして続けた。低くて心地よい、大人の声だった。
「でもね、そういうおまじないは名前を使ってするのよ。私は娼婦のナターシャ。いつか私を買ってね。優しい豚飼いさん」
「さょーふのナターシャに今日はいいことがありますように!」
ヘニョは瞬発力だけはあった。言葉にならなくても、少年の必死さはなにかを伝える力があった。
「何があるかしら。楽しみね」
ナターシャは笑って広場へ戻っていった。
◯
ランデックの目の前で合流し大きくなったイン川は、雄大なエメラルドグリーンの水面をたたえて、きらきらと光りながらヘニョたちの行く先を案内した。
「ねえ、ハム。川が大きくなったね」
ぶっひぶっひとハムは答えてくれるけれど、彼は川の雄大さにはたいして興味はなさそうだ。代わりにブッダが時々立ち止まって川の色を眺めている。
昨日どんぐりを食べすぎてお腹を下しかけていたピンクも、すっかり元気になってトコトコと歩いている。
夕方。まだ日が落ちる前にヘニョたちはヤックライン隊長に言われた通りの2つ目の宿場町、「イムスト」へとなんとか滑り込んだ。
「……ザンクト・アントンに似てるなあ」
ヘニョは、かしこげに分析した。
ランデックのような威圧的な門もなければ、頑丈な街壁もない、兵士もいない。街道沿いに素朴な木造の宿屋や商店が自然に並び、旅人たちがのんびりと行き交っている。それだけでザンクト・アントンと同じカテゴリでくくったヘニョの分析はおおざっぱだった。
ザンクト・アントンと違うのは、町の中が石畳で排水路があることと、あちこちに石造りの水飲み場や足洗い場があることだ。それらは泉であり、清らかな湧き水が絶え間なく溢れ、人々は家畜に水を飲ませたり、旅の汚れを落としたりしている。
「ブッダはそこが気に入ったんだね」
いなくなったブッダを探して路地に入り込んだヘニョたちは、行き止まりの苔むした石造りの泉に入って目を閉じているブッダを見つけた。その泉には、女性が水瓶を傾けている彫像があり、その壺から水が出てくる趣向で、ブッダはその水に打たれるのが気に入ったようだ。
高さがちょうどいいのでハムたち他の豚も、そこで水を飲みはじめ、ヘニョも休憩することにした。
◯
温かみのある木組みの壁が美しい宿場酒場。太陽が沈んですぐのちょうどいまの時間帯は、宿泊者と近所の人が同時に食事をするので、食堂は活気で満ちていた。その賑わいの中で、この店の女主人がカウンターに頬杖をついてため息をついている。
「はぁ……」
ちょうどそこへ、奥の厨房からエプロンで手を拭き拭き、彼女の夫が顔を出す。
「おい、ちょっと。裏が忙しくなってきた、きてくれよ」
「ねえ、あんた」
女主人はちらと夫をみてから再び視線を戻し、またため息をひとつついた。
「見てよ。美味しそうに食べるのよ」
促されて夫も妻の視線を追う。そして、ほう、と腕を組み、こりゃいい、と頷いた。
二人の大人の視線の先には、泥まみれの服を着た一人の少年。
目をキラキラさせながらゆっくりと口を動かし、おそるおそる飲み込み、寂しそうに息を吐くを繰り返している。
見られているとも知らないヘニョは至福の夕食を味わっていた。焼いた川魚、蜂蜜とパンとチーズ、温めたワイン、酢漬けのカブである。この町ではありふれた献立だが、ヘニョを昇天させるには十分すぎた。
「虹の味がした……」
ヘニョが食べ終わり、この世に還ってきたとき、ヘニョのテーブルの正面のカウンターの中には5人の大人がいて、全員が一斉にため息をついた。
◯
宿の探しかたも相場もわからないヘニョは、ブッダの泉の裏手にある一晩2ペニヒの宿屋を取り、食事もそこで済ませたのだった。この街には珍しく馬小屋つきのその宿は、今日は空きがあるということで、馬と相部屋で豚たちも泊めてもらえることになった。
五匹を撫でて藁を整えてやったあと、ポルコの蹄に挟まっていた小石を取ってやる。
「痛くなかったか?みんなに合わせたんだね。えらいなあ」ヘニョはポルコを多めに撫でやった。
豚たちと相部屋の馬に挨拶をしてから、ヘニョは人間用の大部屋である宿場酒場の二階へと階段を上った。
人間用の大部屋で、割り当てられた自分のベッドにこしかけ、何気なく、ぽすん!と横になったヘニョは、そのとたん跳ね起きた。
(藁じゃない……!!)
何でできてるかわからないふかふかの感触をおっかなびっくり楽しんだあと、腕と足を動かしてシーツのすべすべを楽しんだ。そして目を閉じた。
(お日さまの匂いがする……)
大部屋では誰も喋っていなかった。でも、目を閉じてみると、荷物を整理したり、毛布を引き寄せたり、人の動く気配はすぐそばに感じられた。ヘニョは夕食を思い出した。この部屋にいる人はみんなあの夕食を食べたんだ。この部屋にいる人は今みんな幸せなんだ。そう思うと元気が出た。
(おいしいもの食べました……、ヤックライン隊長……)
ヘニョは目を開けて毛布の外に出していた左手を天井にかざして見た。闇の中で目を凝らす。
『……濡らさないようにね』
あの静かなステンドグラスの聖堂で聞いた、アガタの声を思い出していた。今日の泉でもヘニョは頑なに左手だけは洗わなかった。だけどどうしても所々水が跳ねてしまい、模様は欠けたり滲んだりしていた。それでも豚飼いの紋章はまだそこにあった。
(さょーふのナターシャ、楽しいことあったかな……)
今日1日に満足しながら、ちょっとだけ後悔しながら、ヘニョは眠りに落ちていった。




