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西方水滸伝 セラデラヴェラ戦記  作者: 瓶八
第一章 ペニヒの重み
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1-4 どんぐりの森







ヤックライン隊長に言われた通り、ヘニョは真面目に歩いていた。

右手を見下ろせば、はるか谷底にロザンナ川がキラキラと光っている。先日、大公の精強な重騎兵たちが踏み固めていった軍用路は、日当たりがよくて暖かく、荷車でもすいすい進めそうな立派な一本道だった。


「よし。このまま真っ直ぐだぞ、みんな!」

ヘニョは腹巻きにはさんだ手紙をその上からさすったり、首から提げたずっしり重いペニヒ袋を服の上から握ったり、15ペニヒの入ったポケットをリズミカルに叩いたりしながら、先頭を歩いていた。


ところが、旅路はそう甘くはない。

出発してまもなく、右手の谷底に「ザンクト・アントン」の集落が見えてきたあたりで、風の向きが変わった。谷底から吹き上げる風が、山肌の広葉樹林の匂いを運んできたのだ。

ピクン、とハムの耳が跳ね上がった。

次の瞬間、ピンクも、ベーコンも、ポルコも、そして空を見ていたブッダまでもが、一斉に鼻をフゴフゴと鳴らし始めた。秋の終わりの放牧林。そこにあるのは、瑞々しく太った、極上のどんぐりの匂いだ。

「あ、おい! ハム! ダメだって、こっちのいい道を歩くんだってば!」

ヘニョの制止など、犬並みの嗅覚を持つ家畜どもには半ツォル(約1.2cm)も届かない。

ハムを先頭に、食欲に駆られた豚たちは一斉に軍用路を飛び出し、斜面下のどんぐりの森へと猛ダッシュで雪崩れ込んでいってしまった。

「ああっ! 待ってよ! え、ブッダ、そっちは崖!しかもなんでブッダは登るんだよ!」

ヘニョのプライベートと仕事の両立計画は、初手からガタガタに崩壊した。


どんぐりを貪り食うピンクとベーコンを引っ張り、低木に引っかかったポルコを助け、ブッダをだっこしながらハムを探す。それだけで、凄まじい時間と体力が失われた気がする。

気がつけば、軍用路ははるか上。

泥まみれになり、はあはあと息を切らせて豚たちをまとめていたヘニョは、森の奥にぽつんと佇む小さな石造りの教会と、その前でどんぐりとよろしくやっているハムを見つけた。


「おい!ハムー!もう!探したよ~もうっ!」

ヘニョたちが迷い込んでいたのは、木漏れ日が優しく差し込む、深い森の奥だった。

そしてその木々の隙間に、まるで忘れ去られたかのように立つ、小さな石造りの古い教会がなんだか不思議だった。

「……ザンクト・アントンの教会って、こんなだっけ?」

アルレン城からいちばん近い教会はザンクト・アントンにあったので、何度かお葬式で来たことがあったけど、森の中じゃなかった気がした。でも昔の記憶なので曖昧だ。

ヘニョが記憶を辿りながら首を傾げていると、どんぐりを食べていたハムが、遅かったじゃねえか、とでもいうように流し目でフゴッと鼻を鳴らした。


細かいことはどうあれ、ザンクト・アントン(集落)の教会なんだから、聖(ザンクト)アントンの加護のある教会にちがいない。聖アントンはヘニョが熱心に祈りを捧げている守護聖人だった。


「大公さまのところへ、行ってきます」

長旅の無事を祈ろうと、ヘニョがどろどろの手袋を合わせる。

そのとき、教会の古い木の扉が重い音を立てて、ひとりでに開いた。

「あら。かわいい豚飼いさんね」

中から出てきたのは一人の若い女の人で、ヘニョとヘニョの足元でどんぐりをポリポリしているハムたちを見て、眉を上げてうなずいた。

「旅の豚飼いさんが訪ねてくれるのは、嬉しいわ。是非お祈りしていってね」



薄暗い堂内には、古いステンドグラスがはめ込まれていた。差し込む光の中に、豚飼いの守護聖人ザンクト・アントンと、深いみどりのどんぐりの森、そして彼らに寄り添う豚たちの姿が、色鮮やかに浮かび上がっている。

うわー、という小さな感嘆とともにそれらを見上げながら歩くヘニョの後ろを教会の世話人のお姉さん――「アガタよ」と微笑まれた――が、聖アントンの逸話を話しながら歩いている。


「そうそう、もしよかったら、1ペニヒ寄付していかない?」

教壇まできたアガタは立ち止まって、コト、と、そこにある素朴な木製の献金箱に手を置いた。

「いちペニヒ……」

ヘニョは、うっと言葉を詰まらせた。

日当1ペニヒの彼にとって、それは今日1日分の命そのものだ。絶対に無駄遣いをしていいタイミングではなかった。15ペニヒはだいじなだいじな「いんくぶるっす」までの遠征費なのだ。


しかし、アガタは小首を傾げて、柔らかく微笑みかける。

「1ペニヒくれたらね、その手の甲に、この教会に伝わるかっこいい『おまじない』を描いてあげる。豚飼いの紋章よ」

「も、もんしょう……!?豚飼いの……?」

ヘニョの心はいとも簡単に揺さぶられた。


5年で15ペニヒを貯められた鉄壁の守銭奴ヘニョ。しかしこの手の誘惑にはまだ耐性がなかった。そもそも娯楽ゼロのアルレン城で食費を削っているだけだったので、物欲の恐ろしさを知らなかったというのもある。加えて、アガタの「大人の女性の、優しいお姉さんの雰囲気」に、完全にドギマギしていた。

気づいたときには、ポケットから自分の血液にも等しい財産(1ペニヒ)を取り出し、吸い込まれるように箱へ落としていた。チャリン、と虚しい音が響く。

旅の最初の最初の出鼻で、ヘニョはいきなり軍資金を無駄遣いした。


「ありがとう」

アガタは嬉しそうに微笑むと、ヘニョを椅子に座らせて、教壇の引き出しを何やらごそごそとやっていたが、やがて小さな小皿と、細い木の枝を取り出した。小皿には、水で練った真っ赤な赤土が盛られていた。

「じっとしていてね」

アガタの白くて冷たい指先が、ヘニョのどろだらけの手袋を外し、手袋の下にあってもなお泥だらけだったヘニョの左手をそっと包み込んだ。

ヘニョは心臓がバクバクして、目をきょろきょろと動かした。ヘニョの左手の甲に、アガタは細い枝先を器用に滑らせていく。

くすぐったくて、だけど、なんだかとても神聖な気持ちだった。

アガタが描いたのは、ステンドグラスの聖アントンの左手に刻まれていたものとはちがう、複雑で美しい『豚飼いの紋章』の模様だった。いくつかの植物の蔓や葉が細かく組み合わさって、丸い模様を作って行く様子を、ヘニョは息を止めるようにして固唾を飲んで見守った。

「はい、できたわ。……濡らさないでね」

アガタは満足そうにうなずくと、道具をしまい始めた。

「アガタ……!ありがとう」

その見事な出来映えに、ヘニョの脳内から、1ペニヒを失った絶望はすでに消し飛ばされていた。

ヘニョは立ち上がって教会の外へ飛び出すと、どんぐりを食べてる豚たちの真ん中に立って、まだ乾ききっていない左手を、青い空に向かって高く掲げた。


「豚飼いの紋章よ!」


ブーブー! と、ハムたちが呆れたように鼻を鳴らす。

なにも起こらない。でも、ヘニョの心は秋の大空に高く舞い上がり、晴れ晴れと高揚していた。秋の晴天とヘニョの心とどちらがどちらだか見分けがつかなかった。


読者諸君は期待してるだろうが、この赤土の落書きに、魔法の力なんてこれっぽっちもない。

だけどこれは日当1ペニヒの極貧農奴ヘニョが人生で初めて選んだ無駄遣いなんだ。その気持ちの高まりは紳士淑女の皆々様にもおわかり頂けるだろう。


言葉巧みに1ペニヒをむしり取られた豚飼いの少年は左手の甲を何度も見ながら、再び歩み出す。聖アントンの加護を受け、五匹の豚を従えて。彼の旅路に、なにかいいかんじのことがありますように。



――それからが、本当の地獄だった。

豚を追いたてて急斜面を登り、ようやく軍用路に戻ったものの、どんぐりを食いすぎて腹が膨れたピンクは早々に歩くのを拒否し、ヘニョがだっこする羽目になった。ブッダは相変わらず目を離すとすぐに迷子になる。

ヤックライン隊長は「今日中にランデックへ泊まれ」と言っていたが、とてもとても無理だった。

ヘニョと5匹の豚たちが、シュタンツァタール谷の裾野の町ランデックにたどり着いた頃には、すでに深夜で、月が夜空のてっぺんから、地上を見下ろしていた。


「……お城だ。……隊長がいってた通りだ。……かっこいいなぁ」

夜の闇の中に、崖の上にそびえ立つシュロッフェンシュタインの本城が見えた。巨大な鷹が岩棚の上に止まってこちらを見下ろしているようだった。ヘニョはその荘厳さに感動してはいるのだが、元気いっぱいだった朝のように、うわーと歓声をあげたりはできない。


閉門時間をとっくにすぎ、ランデックの門は当然、固く閉ざされている。門番を叩き起こす度胸も発想も、ヘニョにはない。

「うう、寒いね……ハム、みんな、ここで寝よう」

ヘニョは冷たい夜露が降りているのもかまわず、城外の草むらで、5匹の豚たちと体を寄せ合い、寝ることにした。

山岳地帯の秋の野宿は過酷という言葉ではとても言い表せない危険行為。だが、ヘニョには温かい豚たちがいるし、アルレン城で寒さには鍛えられているし、ヘニョの心はまだ、ヤックライン隊長の手紙への信頼と、大公への期待で、暖かく弾んでいた。


「隊長……、つけました……」

手の甲の豚飼いの紋章を眺める暇もなく、ヘニョは5匹の豚たちの真ん中で眠りに落ちた。







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