1-3 シュタンツァタールの夜明け
未明。
世界がまだ深い紫色と濃紺の空気の底に沈んでいる頃。
アールベルク峠の徴税拠点――アルレン城。その南斜面にある城営農園『バウホーフ』から、いくつかの小さな影がこそこそと動き出した。
「ハム、ピンク、ブッダ、ベーコン、ポルコ。みんな、ちゃんとついてきてね」
ひとりの少年がそう小声で囁きながら、5匹の豚たちの頭を順番に撫でていた。
「ああっ、ブッダ! またブッダがいない!」
豚の輪を離れて一匹、色を変えゆく空を見ているブッダを、重、とだっこして、慌てて列に戻す。
この少年、豚飼いのヘニョは、こう見えて凡百の豚飼いとは一味ちがっていた。
なんといっても、大公レオポルト三世殿下直々に、アールベルク峠のてっぺんの土地の利用許可を与えられた豚飼いなのだ。
その土地に山小屋をたてて、死にそうな人を助けるのがヘニョ少年の夢だった。そしてその山小屋でビールを15樽飲むのが大公殿下の夢らしかった。
ただし、その計画は頓挫しかけていた。
大公とヘニョの約束は口約束だったから、そんな約束なんてどれほど本気かわからないし、そもそも実在したかすらわからない、なんの証拠もなくて、なにも確かなことがない、だから山小屋建設も山頂の土地利用も認めない。それより仕事しろ――アルレン城の所有者であるシュロッフェンシュタイン家にそういわれてしまったのだ。
騎士ヤックライン・ウーバーリンが騎士の誓いを立て証言したが、知らんぷりされたらしいことも、ヘニョは小耳にはさんでいた。
大人たちにも色々あるもんだ。
ヘニョはわけしりかおだった。
だけど、大公さまはいちばん偉いんだし、大公さまが良いって言ってくれたんだからいいよね。その証拠とやらを、大公さまがいる「いんくぶるす」まで直接もらいにいけば解決。
ヘニョは単純にできていた。そして夢に生きていた。しかし仕事熱心でもあった。プライベートと仕事を両立するために、豚をつれてくことに戸惑いはなかった。豚を泊めるスペースのこととか全く考えていなかった。日当1ペニヒの豚飼い少年の、無謀すぎる大遠征計画はやはり杜撰だった。そもそも大遠征になることを予見できているか怪しい。
「はやいな、ヘニョ」
冷たい朝露の匂いがする北風の風上から、誰だかわかる声が届いた。
ハッと息を呑んで振り返ると、ちょうど外套を風にバタバタさせたヤックライン隊長が、寒そうに腕をさすりながら斜面をおりてくるところだった。
やばい、とヘニョは思った。
「おはようございます!ヤックライン隊長!」
「どこへ行く」
「いんくぶるすです」
しかしヘニョは正直だった。
農奴は、主家の許可なく土地を離れてはいけない。それはヘニョも知っていた。捕まれば鞭打ちか、最悪の場合はシュロッフェンシュタイン城の地下牢行きだ。だからこっそり行って、こっそり帰ってこようとしてたのに。
絶対に素直に言ってはいけない盤面だった。
もはやこれまで、とヘニョが諦めて沈痛な面持ちで両手首を差し出した時、ヤックライン隊長は長いため息をついた。
「……しょうがない」
懐から一通の厳重に封をされた書状を取り出し、もてあそぶ。
「すまんな。非番の日に行ってやろうと思ってたんだがしばらく時間が取れそうにない」
申し訳なさそうにしながら、書状をヘニョの手へ握らせた。
こんなきれいな書状というものを初めて手にしたヘニョだったが、手袋ごしにもすべすべと感じられ、なんだか大人っぽいにおいがした。
「この川に沿って道を行け」
隊長の指は、東の地平までまっすぐ続くシュタンツァタール谷の、はるか谷底に流れるロザンナ川、そしてその左側の斜面を、まっすぐ伸びる道をさした。先日、大公の重騎兵隊が使った、馬車も通れる日あたりのいい道だ。
「はい!」
「今日はランデックに泊まれ」
「らんでっく……」
「そうだ。この谷の裾野の町だ」
「すその……」
「橋があって、崖の上にかっこいい城がみえる。……そして、明日はイムストに泊まれ」
「いむすと……」
「そうだ。川沿いに進めばある。その次の日が、インスブルックだ」
「いんくぶるっす……」
「インスブルック、だ。見ればわかる、大きい街だ。川沿いに進めばある。
いいか、インスブルックの街に着いたら大公殿下の宮殿へ行き、その手紙を門番に渡せ。失くしたら会えないから、そのつもりでな」
ヘニョはようやっと、おや?と思い始めた。
ヤックライン隊長は、どうやら見逃してくれるらしい?
ヤックラインはヘニョの足元で寝かけている豚たちを見た。
「……連れてくのか?」
「はい!」
「やめとけ」
「いやです!」
「わかった。誰かに聞かれたら、インスブルックに豚を売りに行くとでも言っとけ」
「わかりました!」
「……金はあるか?」
「あります!」
ヘニョは胸を張って、自分の全財産が入ったズボンのポケットを叩く。ちゃりん、と重めのよい音がしてヘニョは自慢に思った。お金持ちである。
「よし。足りなかったら使え。……道中、美味いもんでも食うんだぞ」
そう言ってヤックラインが差し出してきたのは、丁度片手に乗るほどの、ずしりと重い革の小袋――中には隙間なくペニヒが入っていた。
「……!」
「今日泊まるのは?」
「らんでっく」
「そうだ。明日泊まるのは?」
「いむすと」
「そうだ。明後日は?」
「いんくぶるす」
「インスブルックな。早く行け」
ヤックラインはそう言って、にやり、と笑った。
そして腕をさすりながら、外套をバタバタさせながら、北風に頭をめちゃくちゃにされながら、斜面を登ってアルレン城の影の中へと戻っていった。
ヤックライン隊長……!
ヘニョは胸がいっぱいだった。
遠く、東の空の端が、うっすらと黄金色に染まり始める。
ヘニョはおてがみとペニヒ袋をおなかに抱きしめ、5匹の豚たちを従えて、夜明けのシュタンツァタール谷を東へ向かって歩き出した。
まだ見ぬ大都会、インスブルックを目指して。
「ああっ、ブッダ! またブッダがいない!」
(第1章・前編 / 完。中編へ続く!)




