4m-3
インスブルックの中央広場は、華やかな「春の祭り」の喜びに満ちていた。
四階建ての建物に囲まれた広場から見上げる都市の空は狭い。
しかし今日はそこに、水色と黄色の鮮やかな布が幾重にも渡され、春のそよ風に膨らんでいる。
地上でも、広場を囲む建物の扉や窓に、そして行き交う家畜や乙女にまで、水色と黄色の布やリボンが結ばれ、可憐な春の白い花が飾り付けられている。
「見てよ。青と黄色よ。ハプスブルク領チロルでよ? これ絶対、ヴィルヘルム公子のご成婚祝いの流用じゃない?」
最も手の速い宮廷絵師のルチアは、淡い薄荷色の軽やかなドレスに身を包み、信じられない、といった顔で左右の男に話しかけた。
「そうか! ヤドヴィガのアンジュー紋章は、青地に金色の三本百合!! ルチアさんさすがです! それじゃあ、この会場のどこかに、白い鷲ももしかしたらいるかも!?」
最も若い紋章官ヘラルドは、大興奮で飛び上がり、キョロキョロと辺りを見回し始める。
「結構なことです。チロル伯領の財政は潤沢とは言えませんからね」
最も字の美しい書記官のヴェーバーは、完璧な姿勢で歩きながら、長い指で、飛んできた白い花びらを捕まえた。
「ちょっと! 心がないの? 紋章オタクに文字オタク。婚約破棄してきた許嫁のイメージカラーの飾りつけを、父親の追悼の飾り付けに流用されたのよ? 傷心の公子の気持ちを考えてみなさいよ!」
怒るルチア。
「なんとも思いません」
ぴしゃりとヴェーバー。
「まあまあ、二人とも!きれいだからいいじゃないですか。あ、あんなところにレア紋章が!」
駆け出していく元気なヘラルド。その背中には、分厚い紋章図鑑がくくりつけられている。
同じ広場の片隅に、ひときわ大きな歓声を浴びている一角があった。幼い子供たちが集まり、木で作られた小さな舞台を取り囲み、目を輝かせている。
「さあさあ、お立ち会い! 欧州中を揺るがす世紀の大ロマンス! 我らが誇るハプスブルクの若き公子ヴィルヘルム殿下が、愛しのポーランド女王ヤドヴィガ様を助けに行く物語でございます!」
布で作られたパペット人形の口がパクパクと動く。
舞台の下に潜り込んだ役者が、よく通る声を巧みに使い分けながら、忙しなく手を動かしている。
「……あぁ、愛しのヴィルヘルム! ポーランドの意地悪な貴族どもに塔へ幽閉された私は、あなたの愛の歌を聞いてじっとしていられません! 待っていて、今すぐ斧を持ってそっちへ行きますわ! 覚悟しろポーランド貴族ども、城門ごと叩き壊してやりますわーーーッ!!」
人形の姫が巨大な斧を振り回して暴れる大活劇に、子供たちは釘付けで、手を叩いて大喜びしている。
そんな小さな子供たちの輪の中に混ざって、濃緑のマントを羽織った素朴な少年――16歳のヘニョも、歓声を上げていた。
「うわあ、お人形、かわいいね! 動かすの上手だなあ! 生きてるみたいだ!」
周囲の子供たちより頭ひとつ高いこの少年、どうやら精神年齢が10歳前後の子供たちとそう変わらないらしい。16歳といえば、もう立派な働き手であるこの世界で、なかなかに心配な存在といえる。
しかし幸いなことに、実は彼は並みの少年ではない。農奴でありながら、前大公レオポルト三世への直訴に成功し、アールベルク峠の極寒の地に、救護所を立ち上げ、行き倒れの旅人を助けている、えらくご立派な少年なのである。しかも、中世ヨーロッパでは珍しく、農奴身分を脱出し、なんと今は自由民。まさに順風満帆、その上これから、欧州全土を股にかけた、仲間集めの旅に向かうところなのだが……。
「ねえ、タデクさん! ……あれ?」
子供向けの人形劇に足を止めてしまったばかりに、彼は早速、仲間からはぐれていた。
◯
「ギャハハハハハ!!! 斧だって!! ヤドヴィガの姉ちゃん、めちゃくちゃ暴れているじゃん!!」
その広場の人形劇を、石造りの立派な建物の二階バルコニーから見下ろしている高貴な少年たちがいた。
レオポルト三世の遺児にして、十歳の三男エルンストは、ヤドヴィガ女王の大活躍に床を叩いて爆笑の真っ最中。ターゲットを外さない人形劇の演出家、どうやら腕がいいらしい。
一応エルンストの名誉のために言っておくと、彼はただ純粋に人形劇を楽しんでいたわけではない。
ヤドヴィガとともにウイーン宮廷で育てられたレオポルト三世の四兄弟――とくに年の近いエルンストにとって、ヤドヴィガは物心ついた時から幼馴染みの『お姉ちゃん』であった。知り合いがネタにされているのが愉快だったのである。
「え〜、おもしろ〜い。あんな大きな斧を振り回す人形なら、僕のカツレツも代わりに切ってほしいなぁ」
十五歳の次男レオポルトも、父親似の大きなお腹を揺らしてクスクスと笑っている。感性が独特だが、食べ盛りの真っ只中で、縦にも横にもすくすくと育っていた。
五歳児の四男フリードリヒは、バルコニーの手すりから離れて母親のスカートの裾を、ひし、と握って顔を伏せている。この子は高いところがまず怖かった。
その横で、当の本人である十六歳の長男ヴィルヘルムだけが、母親似の端正な顔を曇らせて、遠くを見つめ、ため息をついている。その憂いの大人っぽさは、ヘニョと同い年とはとても思えない。
「あんなに大きくないけど、斧は本当だよ……エルンスト。ああ、ヤドヴィガ……なぜ君と僕は、結ばれない……わが心は、アプトリュリヒ(迷い乱れる)」
「まじかよ、ヤドヴィガ姉ちゃんやるじゃん。ポーランド女つええええ!」
「愛の歌は本当なんですか? ヴィルヘルム」
「ノーコメントです、母上……」
四人の息子を生んでも、まだ若々しい、三十五歳のヴィリディスは、長男をからかって、ふふふと笑った。
◯
「タデクさん! ぼくも、屋台で何か食べてみたい。いいですか?」
「……好きにしろ」
人形劇の観衆から距離を取っていたタデクを見つけ、ヘニョはトコトコと近づいて行って許可を取った。
子供たちが屋台で買ったものを食べながら、劇を見ていたので、なるほど! と思ったのだ。
小遣いはもらっており、小さな財布は腰のベルトに吊っていた。
「タデクさんは、」
「行かない」
「タデクさんも、」
「食べない」
少しシュン……となるヘニョだったが、「じゃあ、行ってきます!」と告げて、元気に歩いていく。
三軒並んだ屋台の食べ物は、どれもありふれたものだったが、ついこの間まで日当1ペニヒの極貧守銭奴だったヘニョにとっては、どれも食べたことがない。
まず最有力は、屋台中央のキアヒル。揚げパンの中央をドーナツのように窪ませて、そこに具を盛るスタイルの軽食だ。しかもキアヒルは、具に甘味ルートと塩気ルートがあるので、そこも悩みポイントだった。
その脇を固めるのが、丸クネーデルと、カリカリクネーデルだ。
丸クネーデルは、チーズとパンと肉を丸めた団子入りのスープ。カリカリクネーデルは、その団子をチーズ多めで作り、鉄板の上でカリカリになるまで押し潰した中世チロル風のお焼きだった。
どの屋台からも油のいい香りがして、お腹の空いたヘニョを思考停止にさせる。
ヘニョが(やばい、決められない……!)と焦っていると――。
トン、とぶつかった小さな子供が、ヘニョの腰の小さな財布をフッと掠め取っていった。
屋台に夢中のヘニョは、自分がスラれたことに全く気づかない。
「あ、すみません……」
スリの子供はヘニョの謝罪に返しもせず、同じ早さで歩き、広場の正面で絶賛建設中の「時計塔の工事現場」の足場の内側へ、するりと滑り込む。
聖ゲオルギウスの祝日の今日、誰も働いていないその建設現場は、まだ組み上げられていない巨大な歯車や足場板が整然と並んでいる。
その物陰の、誰の目にもつかない暗がりの中に、その子供は座り込んだ。
「へへ、まぬけめ。中身はいくら入って――」と、小さな財布を開けようとした、その時だった。
「――こんにちは、坊や」
背後から、若い女の声がした。
「!?」
子供が跳ね上がるより早く、音もなく子供の手首が捕まれ、その指の関節が捉えられ、逆方向に極められた。
「……ねえ、あなたの大事な商売道具、壊されたくないわよね? 技術を失いたくないのなら、大人しくしてなさい」
自分の隣にしゃがみ、自分の指を極めている無表情の男が怖いが話しかけてくるのはその男ではない。さきほど後ろから聞こえた若い女の声が、今度は上から降ってくる。
見上げると、足場の上にいつの間にかしゃがみこんだ淡い薄荷色のドレスの女が、猫のような目でスリの子供を見下ろしている。
「ちょっとヘラルド。この子って、やっぱ犯罪組織の末端なのかしら? スリ技術って高度じゃない? 誰かに教わらないと、無理よねえ」
◯
一方、ヘニョはまだ屋台の前にいた。
「おじさん! その林檎のキアヒルひとつください!」
「あいよ、1ペニヒだ」
「はい!」
ついに林檎の甘煮をたっぷりのせた揚げパンに決めたヘニョが、強い決意の眼差しのままに腰に手をやると、そこにあるはずの重みがない。
「あれ……?」
ヘニョが首を傾げてマントをまくり、腰の回りをポンポンさわっていると、背後から声がかけられる。
「――落ちていましたよ、ヘンリク様」
ヘニョが振り返ると、完璧な姿勢のヴェーバーが、指の先にヘニョの小さな財布をちょこんとつまんで立っていた。その横では、ルチアが、何事もなかったかのように、キャベツの塩漬けのキアヒルを頬張っている。
「お小遣いは大事にしなさいよ、ヘニョ君?」
「わあぁ! ヴェーバーさん、ルチアさん! ありがとう! どこにあったの?」
「……時計塔の建設現場で、拾ってまいりました」
ヴェーバーが意味ありげに、遠くのタデクと目を合わせる。
「時計塔の、建設現場? あっ! あれが、 そうなんだ……。でも僕、あんなところ、行ったっけ?」
ヴェーバーから受け取ったお財布でリンゴのキアヒルを買い、お礼に一口どうぞ、とまだ熱々の揚げパンを差し出す。
ルチアには「自分のがあるから」と断られ、ヴェーバーには「人と分けたくありませんので」と断られた。そこへ遅れてきたヘラルドがパクっとかじりついた。
◯
ヘニョはもぐもぐしながら、先ほど耳にした言葉が気になっていた。
「時計塔の、建設現場……」
好奇心に駆られるまま、広場の正面で組まれている木で作られた足場へとトコトコと歩いていく。
まだ組み上げられていない巨大な歯車や足場板が並ぶ、薄暗い建築資材の隙間。誰もいないはずのその物陰を覗きこんだヘニョは、思わず「あ」と声を上げた。
そこには、縄で縛り上げられ、地面に転がされている一人の子供がいた。ついさっき、ヘニョとすれ違った子供なのだが、ヘニョは屋台に夢中だったため、まったく覚えがない。
「うわあ、どうしたの!? 大丈夫?」
ヘニョは驚いて駆け寄ると、その小さな体に巻き付いていた縄を解き始めてしまった。
◯
「……おい、嘘だろ」
「ちょっと、ヘニョ君!?」
外からその様子を見ていたヘラルド、ルチア、ヴェーバーの三人は、たまらず、ヘニョを指差しながら、タデクに抗議する。
(おい、お前の連れをどうにかしろ!)
タデクは、嫌です、という顔をした。
◯
「パン・ヘンリク。それを食べたら、口を拭け。仕事の時間だ」
低く、有無を言わせぬ声だった。ヘニョのとなりの子供に対して一瞥もなかった。
タデクはヘニョの返事を待つこともなく、建設現場から出ていき、雑踏を越えて、人形劇の近くにある石造りの立派な建物――ハプスブルク家の控え室がある二階へと繋がる入り口へと、迷いのない足取りで入っていく。
「あ、タデクさん、待って!」
子供と分け合っていた揚げパンの残りを急いで詰め込むと、ヘニョは口いっぱいに頬張ったまま、子供に向かってブンブンと手を振った。
ヘニョがべたべたの口のまま、タデクの後を追って慌てて建物へと走っていく。
残されたスリの子供は、驚きのあまり、食べかけの揚げパンを、思わず喉につまらせた。
さっきまで自分を脅していたドレスの女、笑顔で縛り上げてきた若い男、無表情で指を極めてきた怖い男の三人が、当然のような顔をして、少年の後ろに付き従い、建物の中へ消えていったからだった。




