4m-2 邪悪の仮面
「――それで? パベルよ。どうしてくれるのです」
シュロッフェンシュタイン城、貴婦人の間。
天鵞絨張りの長椅子に腰掛けて、報告書をめくるスサナ夫人は、声に冷たい響きを乗せて、平伏する役人を見下ろした。
「大公殿下じきじきに、『あの豚飼いの身分を買い上げる』と連絡を寄越してきました。公文書への追認署名どころか、アジールに新たに多額の寄付をし、技術者を貸し与えたと、報告まで頂きましたよ。このように手厚く保護されては、あの山小屋は『安泰』ですね。
パベル、あなたに与えた命令を覚えていますね? 包囲にあたった騎士は、あなたから必要な情報が渡らなかったと、報告してきましたよ。つまり、あなたには、裏切りか無能の疑いがかかっています。何か言いたいことはないかしら」
中年役人パベルは、毛足の長い絨毯にめり込みながら床にひれ伏し、胃袋が雑巾のように雑に絞られる痛みに耐えながら、情けない泣き顔に邪悪の仮面を張り付け、低く笑いながら、顔を上げた。
「くくく……、ご安心ください、スサナ夫人。そのどちらでもございません。すべては優秀な私の計算通り、我が主家シュロッフェンシュタインの、勝利は目前でございます」
「ほう?」
スサナ夫人は報告書の束をめくる指を止め、氷の瞳でパベルを見据える。
「ハプスブルクの最高峰の紋章官、複写職人、書記官まで引き連れて、欧州中の貴族から寄付金を募るツアーを行うと聞きましたが。 どこが勝利なのです」
その瞳には、スタンツァタールの谷よりも深い猜疑心が宿っており、私を騙す気ならば、お前の命はない、と明確に告げている。
ひぇっ! という悲鳴をかろうじて飲み込み、背中を冷や汗でぐっしょり濡らしながらも、運命に弄ばれた哀しき中年役人のパベルは、(大丈夫、大丈夫、がんばれ、がんばれ)と心の中で自分を鼓舞し、14歳の子供(ニギ親方)に一緒に考えてもらった延命のための言い訳を、さも自分が考えた冷徹な役人ロジックであるかのように、高らかに披露した。
「あの『紋章簿ツアー』なるおままごと、必ず失敗します!!!」
「根拠は」
「経済と人間心理のロジックにございます! そもそも羊皮紙や絵具、技術者の出張コストは、1マイレ進むごとに財布を爆発四散させるほどの超・高金利債務! それに対して、地方の強欲な貴族どもが、名もなき豚飼いの一冊の本に、紋章を描いてもらうだけのために、数ギルダーもの大金を払うはずがございません!」
お絵かきされるだけで金を出す感覚が全く理解できないパベルは、ここだけは本音だった。嘘をつかなくていい安堵感から、知らず知らずのうちに笑みがこぼれ饒舌になってしまう。
「あのツアーは、一歩インスブルックを出た瞬間に、維持費だけで自滅します! 来年の春が来る頃には、『大公殿下の技術者を無駄遣いしたあげく大赤字を出した元農奴』は、山小屋を抵当に取られ、単身雪山に放り出され、野垂れ死ぬのです! くくく……はははは!」
スサナ夫人は、鋭い眼差しで、パベルの熱のこもった演説と邪悪な高笑いを眺めていたが、やがて興味をなくしたかのように、ふっと目をそらした。
「いいでしょう。来年春まで待ちます。もし失敗しなかったら、パベル。あなたの首をランデックの門に飾りますからね。帳簿をまた秋に持ってくるように。下がりなさい」
「ははぁ! 仰せのままに」
顔を伏せ、影のようにススススと後退し、音もなくドアを開け、そして閉める。
地獄の謁見会場を出た瞬間、パベルは廊下の壁に激突し、顔が擦りむくのも構わずに、ずりずりと崩れ落ちた。
(よし……! 生き延びた! 頼むぞ、リーダー!! 絶対に失敗してくれ! 失敗してもらわねば困る! もし成功してしまったら、私の首がランデックの待ち合わせスポットになってしまうんだ……!)
◯
ランデックの聖マリア救貧院。
石造りの冷え切った大部屋には、カビの生えた薄いリネンの匂いと、老いた人間の死臭が澱んでいた。
その片隅で、ブリギッテは木匙を使い、泥水のように薄い豆のスープを静かに啜っていた。皿の底で、傷んだレンズ豆が数粒、寒そうに転がっている。
「あら、ブリギッテ。しばらく見ないと思ったら。アールベルクの峠に行ったと聞いたけれど、どうやらあそこを追い出されたのね」
声の主は、衣服からかすかに高価な水白粉の香りを漂わせていた。
スサナ夫人の妹であり、この救貧院の出資者でもある貴婦人、イフィゲニア・シュロッフェンシュタインである。彼女の黒絹とリスの毛皮のドレスは、不気味なほどこの薄暗い救貧院に馴染んでいた。
ブリギッテは匙を動かす手を止めず、目玉だけをゆっくりと向けた。
「最近、あそこの山の上はどうもあたたかくてね……。どうにも身体がふやけちまいそうだったのさ。ここの骨の髄まで凍みる極寒ぶりが、懐かしくってね」
「おかしなことを言うのね、ブリギッテ。でも、老人がおかしなことを言うのは、珍しいことではないわね」
イフィゲニアは微笑むと、一つの椀に手ずからスープをよそい、その椀を救貧院の職員に渡した。職員は、その椀に匙を差し、一人の老人に配る。
「お給料をもらっていたと聞いていたけれど? ここは、神に縋るほかない、真に貧しい者たちの家よ」
イフィゲニアの声音には、施しを管理する者としての、やわらかい詮索が混ざっていた。
「もらっていたさ。だけどね、あいつらは金がなくてね。身ぐるみ剥がされちまったのさ」
「あら……ふふ、それは災難だったわね」
イフィゲニアの笑みに応じるように、フ、とブリギッテもひび割れた唇を歪めて笑った。スープの皿を机の端へ押しやる。
「そろそろ、ここの『ベッド』も、空く頃じゃないかと思ってね。降りてきたのさ」
救貧院には確かに寒々とした空のベッドがいくつもあった。冬を越せなかった者たちのベッドだ。
「まあ……」
イフィゲニアは、誰かの死を待ちわびるようなブリギッテの言い方に、眉をひそめる。
編み棒を取り出し、毛糸玉を編み出すブリギッテの呪いの歌を内心気味悪がりながら、イフィゲニアはつとめて明るい調子で話しかけた。
「……いつ見てもお上手ね、ブリギッテ。そうだ、良いことを考えたわ。あなたが編んでいるその温かさを、隣で震えている人に分けてあげたらどうかしら。きっとあなたの心も温かくなるわよ。マリア様もお喜びになるわ。ねえ、いい思い付きでしょう?」
「嫌だね」
ブリギッテは吐き捨てるように言った。
「周りの人間がバタバタと凍死していく中で、自分だけがウールに包まって温まっている。これが最高なんだから」
「まあ、なんて酷いことを……」
イフィゲニアは露骨に不快感を露わにし、身を引いた。
ブリギッテはそんな貴婦人の目を、下から睨みつけるように見据えた。
「温めたいなら、あんたがやりな。あんたのその袖口の、絹ひときれを売り払えば、毛糸玉が十は買えるんだから、まったく。……ここはうすら寒くて最高だよ」
「……相変わらずお元気そうで安心したわ、ブリギッテ。あなたに神のご加護がありますように」
イフィゲニアは引きつった笑みを浮かべ、十字を切った。背を向けて立ち去る彼女が、傍らに控える救貧院の職員に鋭い目配せを送る。職員は無言で、深く畏まった。
騒がしい女が去ったのを、遠く扉が閉まる音で確認して、ブリギッテは再び木匙を握り、冷めきったスープを口に運んだ。アールベルクの山小屋に残してきた、何人かの人間の顔を思い浮かべながら。
◯
同じ夜、ランデックの場末にある賭博場は、安酒の悪臭と、男たちの獣のような怒号で満たされていた。
煤けたランプの光が床の血痕や吐瀉物を照らすなか、剥ぎ取り人のレーヴェンは、フードを深く被ったまま薄暗い酒場のカウンターの隅に腰を下ろしていた。
熱を帯びたサイコロの音を背中で聞きながら、レーヴェンは隣に座る男へ、掠れた声を向けた。
「……仕事をくれ」
男は、歯の抜けた顔でニヤリと笑みを浮かべた。卓の上のコインを指先で弄んでいる。
「お前か、久しぶりだなぁ? ずっと姿を消していたと思ったら、こんなところに現れるとは。……で、いくら欲しいんだ」
「50ペニヒ」
レーヴェンが告げたその、あまりにも安すぎる額に、男は弄んでいたコインをピタリと止めた。そして、値踏みするようにレーヴェンのボロ布の奥にある暗い瞳を覗き込んできた。
「……50ペニヒだって? 冗談だろう。生憎と、そんな端金の仕事はねえな。──2ギルダーの、殺しの仕事ならあるが。どうする?」
2ギルダー。600ペニヒ。
50ペニヒの当面の生活費を求めて泥を這う男に対して提示されたのは、血のついた金額だった。
レーヴェンは何も答えず、ただじっと自分の、ひび割れて汚れた両手を見つめた。
生きた人間の首を絞め、血を流させるための手では、もうないはずだった。だが――。
長い沈黙が、二人の間に流れる。
「……」
男はつまらなそうに肩をすくめ、手元のコインを再び弄び始めた。
「殺さない仕事は、もう売り切れだ。どうする? すまんがな、ガグラーさん。割のいい、軽い仕事ってやつは、信用できる奴にしか頼まないことにしてるんだ。これができたら、殺さない仕事を回してやる。嫌なら、他を当たるんだな」
ギャンブルに狂う男たちの絶叫が、頭上を通り抜けていく。
レーヴェンはゆっくりと立ち上がり、フードをさらに深く引いた。
「……わかった」
その声は、すでに自らを闇の底へと投げ捨てた人間の、冷たい諦めに満ちていた。
◯
インスブルック宮廷のとある応接室。
冬の間、細かく注文して技術者たちに描かせていた、紋章簿の最初の見開きのページ。その出来を無表情でチェックしていたタデクは、なにも言わずに本を閉じた。
それを席の向かいから食い入るように見てた三人のエリートたちは、(なにも言わないんかい!)と心の声を一致させた。
称賛されることに慣れ切った彼らではあるが、今回はそれを期待してがっかりしたわけではない。
彼ら三名の技術者チームには、大公アルブレヒト三世から、ある密命が課せられているのだった。
「タデクの素性を調べ、弱味を握り、我が宮廷に引き込める戦略を立てよ」
そのために、三者三様に、タデクの最初の一挙手一投足に注目していたのだった。
「俺はタデク、これはヘニョ。人前ではヘンリク様と呼べ。お前らのことは、紋章官、絵師、書記官と呼ばせてもらう。打ち合わせは以上だ。何か質問は?」
それだけを告げて本当に終わろうとするタデク。
ヘニョから見て一番右に座っていた男は、
赤い封蝋つきのくるくる丸めた羊皮紙を手に立ち上がると、こほん、と咳をした。
「アルブレヒト三世から、封書を預かっております。この内容を全員で聞くようにと」
タデクがうさんくさいという視線を隠すことなく男に浴びせる隣で、ヘニョはわくわくとして座り直している。
男は、机に置かれたペーパーナイフを拾い、その銀色の切っ先で「パチッ」と赤い封蝋を割ると、封書を伸ばし、地声とは似ても似つかない、大公そっくりの声色で手紙を読み上げ始めた。
「『おはよう、私のエンジェルたち。そして愛しのタデク君。君への最初のプレゼントとして、インスブルックの広場で【レオポルト三世追悼☆武術大会】を企画しておいたよ。レオの奥方と4人の息子はもちろん、仕官を狙う強盗騎士から、イタリアやシュヴァーベンの怪しいスパイ騎士まで有象無象が集まるはずだ。さあ、タデク君。この混沌から、君に有益な紋章と、私にふさわしい“最高の情報”を掬い上げてくれたまえ。――グリュック・アウフ!(幸運を祈る!)』」
やりきった顔の男が座る。
タデクは嫌そうな顔のまま微動だにしない。
「タデクさん! これって、大公様が、ぼくたちのために大会を開いてくれたってこと? すごいね、タデクさん!」
(100%タデクのためだよ)と心の声を揃える技術者たち。
しかしタデクは否定しない。
「言ったろう、お前さんは運がいい、パン・ヘンリク(ヘンリク様)。15ペニヒの豚飼いはもう終わりだ。お前は今日から、ハプスブルクのお墨付きをもらった『特権階級』の仲間入りさ。さあ――この重たい本を抱えて、地獄のツアーへ出かけようじゃないか」




