4m-1 春の詩(ウェル・ソラル)
陽光が優しく差し込む、春のアールベルク峠。その景色はいまだ真っ白な雪の世界の中にある。溶け始めた雪がきらきらと、眩しく光を反射するその片隅で、ヘニョは紋章簿の一頁目に書かれているという「ヘンリクの半生」の原稿をタデクに読んでもらっていた。
「なんだか自分じゃないみたいだ……」
新調された上質な濃緑色の外套の裾をそわそわといじりながら、ヘニョは困って呟いた。
「あと間違ってるよ、タデクさん。ぼくケンプテンで拾われて……」
タデクは手元の原稿に目を落としたまま、狐のような瞳を細めて冷淡に言い放つ。
「地味だ」
「え?」
「お前は、アールベルクで凍死した両親の腕の中から拾われた聖なる子だ。いいな?」
ヘニョが首をかしげると、タデクは煩わしそうに付け加える。
「真実は重要じゃない。客が望むのは、綺麗なお人形だ」
「おにんぎょう……」
ヘニョはよく分からないまま、はい、と言って、真新しい鹿革の手袋を嵌められた自分の両手をぎゅっと握った。
◯
その頃、アールベルク峠の東斜面では、麻袋を担いだ一人の男が、一匹の黒い犬を連れて歩いていた。男が担いでいる袋は大きく、年季が入っていて、そして、ぺしゃんこだった。
少し溶けては固まるを繰り返し、表面が固くなったぶ厚い雪。人の踏み固めた雪道から逸れて、いまだ足跡のない雪原に足を深く沈ませながら、かつてニギ親方にレーヴェンと呼ばれた男は、途方に暮れた。
男は、困ったように尻尾を振りながら辺りを見回す相棒の犬、ブラウの首元を優しく叩く。
春の雪のなかに、旅人の忘れ形見、そして『旅人本人』を探して、歩き回る男の暗い目が地面を鋭く走る。だが、どこを歩いても、どこを見渡しても、今年の春のアールベルク峠はいつもと違っていた。
レーヴェンは唾を吐き、体の疲労と袋の軽さを感じながら、一言ぼやく。
「死体が少ない……」
この冬、峠に新しく建てられた山小屋の明かりが、さ迷う旅人たちを呼び寄せ、山小屋に住む人間たちが、何人かの旅人の命を雪の中から引きずり出し、丁重に見送った。
その事実を、最も不吉な死体漁りの呟きが、何よりも雄弁に証明していた。
◯
山小屋の宿舎では、ベテラン役人のパベルが『マル秘寄進帳』を抱えながら、血相を変えて喚き散らしていた。
「運営費がない!」
そのあまりの騒ぎっぷりに、ニギ親方が呆れたように鼻を鳴らした。
「あ? 俺たちの4000ペニヒは? おっさん。ヘニョたちが大公殿下からも金引っ張ってきたんだろうが」
「ええ、まだありますよ! ありますとも!
でも、もって一年! たったの一年! 山小屋って怖い! 本当に金がかかる! このままだと本年度中に、来年の予算が立てられないんですよ!」
ニギ親方が考えこむように短い腕を組む隣で、ステファンはやれやれと肩をすくめる。
「これから今年度が始まるっていうのに、もう来年の話してやがる。これだから役人ってのは暇だねえ」
「素人は黙っててください。いいですか、おまえたち! 贅沢に使いすぎですよ! 無料のスープ代! 薪代! 安く出しすぎたビール代! 高級ワイン代! その他もろもろ! お給料とか毛糸とか色々!」
「だって俺たち、全財産寄付したんだぜ? ちっとは、給料で取り返さないとな」
ステファンが不満げに口を尖らせると、ニギ親方があどけない瞳を細めてパベルを睨む。
「それに高級ワインの樽サーバーに一番感動してたの、パベルのおっさんじゃねえか」
「うっ……」
パベルは痛いところを突かれて言葉を詰まらせる。カシャが不思議そうに首を傾げた。
「冬の間に、寄付も集まったんじゃないのかい? だって結構売れてたじゃないか。ブリギッテさんの靴下もそうだし、ほら、ベンノさんの木彫りのお守りとか、よく『まだ入荷しないのか?』って言われてたじゃないか」
「顧客がつくのはいいことですがね! 生産力がないから飛ぶように売れてようと雀の涙ですよ! 手工業の悲しいところです」
パベルが頭を抱えてがっくりと肩を落としたその時、宿舎の重い扉が静かに開いた。
入ってきたのは、堂々たる体躯の初老の剣士と、外で何かをやっていたヘニョとタデク。
「パベルさん! なんかおじさんが話があるって」
初老の剣士は、すっかり色褪せた、しかし手入れの行き届いた革の鎧を身につけ、腰に剣を吊っていた。
パベルは、男の革鎧の胸元の「熊の紋章」の刻印を見た瞬間、持っていたペンを放り出して跳びすさった。
「ざ、ザンクトガレンの修道騎士……!? な、なぜそんな大物の御用人が、このような場末の山小屋に監査へおいでに……っ!? 密輸ですか!? 逃亡農奴ですか!?」
パニックを起こすパベルに、ウルリヒと名乗った男は穏やかな、しかししっかりと芯のある声で話しかけた。
「……落ち着かれよ、書記官殿。私は監査に来たのではない。聖クリストフ兄弟団の総長、ヘンリク殿に、我が剣と、我が人生の残りの時間を捧げに参った。
──第二の人生を、この峠の救護所で、ただの『一人の兵卒』として使っていただきたいのだ。して、総長ヘンリク殿はどちらに?」
「へ……?」とパベルとヘニョが同時に間抜けな声を出す。
タデクは目を細めて、この初老の騎士をじっと見つめた。
「ザンクトガレンの熊の騎士様が、栄華を捨ててこんな雪山のド真ん中で慈善活動、ねえ。……随分と、高尚なご趣味だ。何か後ろ暗いことでもないといいんだが」
タデクの探るような不躾な言葉に対しても、ウルリヒは表情ひとつ変えず、礼儀正しくタデクに向き合って、目を伏せ、静かに首を振った。
「……私は、ただ、人が凍えずに温まれる場所を守るという志に加わりたいだけだ」
大人たちのピリついた会話の真ん中で、そうとは知らないヘニョはいつものようにパチクリと目を丸くして、ウルリヒの手を取った。
「ウルリヒさん! よろしくお願いします! ぼくが、ヘンリクです。ぼく、難しいことはわからないけど、ウルリヒさんが来てくれてとっても嬉しいよ! パベルさんが最近、毎日おハゲになりそうなくらい悩んでたから、助けてあげてね!」
「総長ヘンリク殿。あなたが。いやはや、話には聞いていたが、またお若い。わが君、その命、確かに承った」
ウルリヒはそのままヘニョの前へと居直ると、片膝を突き、自らの剣を総長であるヘニョへと捧げた。
パベルはさらに顔を青ざめさせ、どう反応していいかわからずにポカンとしているヘニョとウルリヒの間に入って、手を振って拒絶のポーズをとった。
「ダメです! すみませんが、立派な騎士さまを雇う余裕はうちには」
だが、ウルリヒは、穏やかな微笑みを浮かびながら立ち上がり、腰に長剣を納める。
「ご心配召されるな、書記官殿。こう見えて、少しは蓄えがありますゆえ。しばらくご迷惑はおかけしない。それに妙な真似をしてしまったが、騎士身分は返上した身である。老いぼれの剣士として扱ってほしい」
(なにこれ)
パベルはあまりの予想外の展開に、文字通り白目を剥いて硬直するしかなかった。
その大騒ぎの傍らで、荷袋をまとめたニギとベンノが旅立ちの支度を終えていた。
「ヘニョ、稼いでこいよ」
「え! ニギくんどこ行くの?」
ヘニョが目を丸くすると、ニギは生意気に前髪をハッと吹き上げた。
「急に実家に戻りたくなったんだわ。いつかベンノに見せようと思ってた、ヴァルザー人の村の建築ってやつを、見せるには良い機会だしな。もう出ないと春の基礎工事に間に合わねーんだわ」
「そっか……。ニギくん、お母さんお父さんによろしくね!」
ベンノは、丁寧な動作で軽く頭を下げた。
「お世話になりました」
「また何か建てるときは俺らを呼べ。ブレゲンツヴァルトのアウ村にいるからよ」
見上げるような大男と小さな少年、対称的な二人の職人はそう言い残し、宿舎のドアを押し開け、明るい白銀の世界へと歩み去っていった。
◯
急にランデックに帰りたいと言い出したブリギッテをそりに乗せ、ヘニョたち一行は、アールベルクの踏み固められた雪道を、ランデックに向かって歩いていた。
アルレン城の放牧地の前を通りがかった時だった。そこには、ヤックライン隊長とその傍らに立つ、見たことのない、若い少年の姿があった。
「ヘニョ先輩!」
「先輩?」
突然の呼びかけにヘニョが目を瞬かせる間に、一生懸命雪を蹴散らして斜面を駆け上ってきた少年は、大きく息を切らせている。
「ヤックライン隊長に、ヘニョ先輩のこと、色々聞きました! すごく豚の扱いが、うまいって」
「え? 隊長が? えへへ……」
ミハエルと名乗り、新しい豚飼いです! 11歳です! と自己紹介した少年は、すでにハムや他の豚たち、そしてヤックライン隊長とも仲良くやっているようだった。元気に駆け去っていき、豚の蹄の手入れの仕方を教わっている。その睦まじい光景を、ヘニョはニコニコと嬉しそうに見つめていた。
◯
だが、ヘニョが邪魔をしないように立ち去ろうとした時、ハムが柵を飛び越え、新調された外套の裾を鼻先で激しく突き上げてきた。
『自分もつれてけ!』と叫ぶように、ぶっひぶっひと不満な声をあげながら、短い四本の足が雪と泥を跳ね上げる。
ヘニョは困ったように振り返った。
「タデクさん……」
「まさかつれてくつもりか? 置いてけ。お前の守護聖人はアントンじゃない。クリストフだ。わかってないようだから言うが、今後は人目のあるところでアントンに祈るのもヴェト(禁止)だ」
タデクは冷たく撥ね退けた。
「アントン禁止? それより、どうしても、だめですか? 連れていきたいんです! ハムも冒険したいんだと思います」
ヘニョの足元で、ハムも、そうだ!そうだ!と抗議するように、タデクに向かって鼻を突き上げ、前足を踏み鳴らしている。
「60ペニヒだ」
「え?」
「それがその豚一頭の値段だ。その豚はシュロッフェンシュタインからヤックラインが買い取ったものだ。おまえのためにだ。……いつまで甘えるつもりだ?」
「知りませんでした」
ヘニョの身体は指先まで硬直した。
「わかったら、しっかり稼ぎな」
ヘニョはそれ以上、言い返さなかった。
「ハム、ごめん。ダメだってさ」
タデクの冷たい声に背中を押されるようにして、ヘニョはハムを連れて静かに豚小屋へと向かった。
◯
「おい、リーダーはどこへ行った? 出発の時間だぞ」
パベルが馬車の扉を開けて外を覗き込み、痺れを切らしたように声を張り上げる。ブリギッテは、すでに馬車に乗ってじっと待っている。タデクは、バウホーフ(城営農園)の垣根に寄りかかったまま、おもむろにニワトコの笛から口を離した。
「……放っておけよ。お人好しの豚飼いが、自分の過去に別れを告げているところさ」
◯
ヘニョは豚小屋の中にたっぷり積まれた藁の中にしゃがみ込み、大きな豚の首元に、そっと自分の額を押し当てていた。
ハムはまだ怒っている。
ヘニョはずっと、無言で、ただ優しく、何度も何度も、豚の固い毛並みを撫で続けていた。
涙は出なかった。
ただ、胸の奥にある「聖アントン様、どうかこの子たちを守ってください」という祈りすら、今は声に出すことができなかった。
誰にも見られていない豚小屋の中で、ヘニョはなぜか、それが言えなかった。
ヘニョがこれまで握りしめてきた15ペニヒのぬくもりも、泥だらけの温かい日常も、この豚小屋に置いていかなければならない。そういう小さな思いの数々に名前をつけることは、ヘニョにはまだできなかった。
ヘニョがゆっくりと立ち上がったとき、その瞳には少年のあどけなさがまだ残っていた。しかし、タデクの言う「綺麗なお人形」の冷たい光が、ほんの少しだけ宿り始めていた。
足元に取り残されたハムは、その顔を呆然と見上げる。
ヘニョは振り返らずに豚小屋を出ていった。
ハムが、そんなヘニョを見たのは、生まれて初めてだった。




