3-10 聖域の紋章
春を待つ冬のアールベルク峠。
凍てつく寒さの中、世俗権力が敷く徴税拠点はその機能を休眠させる。
つまり、冬の間だけはアールベルク峠の通行税が『無料』になるのだ。
この機を逃すまいと、命懸けで峠を渡る旅人や行商の姿があった。
命知らずのロットメンネル(荷運び人)たちもまた、冬の白銀世界の中で不屈のシャトル輸送を繰り返している。
そんな彼らを迎える山小屋には、貧しい者なら誰にでも無料で分け与えられる温かいスープと、暖炉の爆ぜるぬくもりがあった。
一方で、懐に少しばかりの余裕がある者向けには、小粋な『寄付アトラクション』が用意されている。
ベンノの木彫り。アガタのおまじない。司祭が教えるラテン語講座。これらはどれも一律1ペニヒ。
積み上がった15樽のビールは、半ガロンで1ヘラー。
ヴェルトリンとエルザスのワインサーバーも鎮座し、ヴェルトリンの赤ワインは1杯2ペニヒ、庶民向けのエルザスなら1杯1ペニヒで、その深い魔性を楽しめる。
さらに目を引くのは、五匹の豚の毛で作られた『豚ぞりの玩具(ひとつ3ペニヒ)』だ。一匹一匹、表情も毛の色も異なる愛らしさがある。
ブリギッテおばあちゃんの手編みの靴下は一足4ペニヒ。
隅の方では、質の悪いヘラー硬貨をチップ代わりにした、賑やかなサイコロ賭博場まで開かれていた。
◯
「1ペニヒ寄付してくれたらね、かっこいいおまじないを描いてあげる。聖域の紋章よ。聖クリストフがヘンリク様に宿した、不思議できれいな模様なの」
アガタはウォードの葉をすりつぶした草汁を、細い枝の先にすくい取った。
そして、緊張でどぎまぎしている若い行商の左手を、そっと自身の両手で包み込む。ヘニョの手にあるものとよく似た、『雪と宿り木』の紋様が、淀みのない手つきで肌に描かれていく。
「できたわ。乾くまで待ってね。色が変わるのよ」
にこりと微笑み、アガタは手際よく道具を片付けてゆく。
若い行商の手の皮膚にすり付けられた草汁は、体温で乾くにつれて濁った黄色から怪しげな緑色へ、そして深みのあるくすんだ青色へと移り変わっていく。
変化を見届けたアガタは、いたずらっぽく顔を寄せた。
「これがね……シジル・デル・アジール(聖域の紋章)よ」
吐息が触れそうな距離で囁く彼女のとなりでは、幼女がすり鉢で草の葉をすりつぶしている。
その左手の甲には、やけにリアルな豚の顔が、ウォードの青で描かれていた。
◯
ひとたび猛吹雪が吹き荒れれば、ヘニョは、オレクやベンノを従えて、迷わず外へと飛び出していった。
手持ちの鐘を鳴らし、大声で叫ぶ。
白銀の地獄から遭難者を救い出すため、命がけの捜索を開始するのだ。
この冬、ヘニョたちは七人の命を救った。
三人の命は、温かい礼拝堂の中、司祭の祈りの声に包まれながら静かに見送られた。
二人の命は、冷酷な雪の中で見送ることしかできなかった。しかしその名前をヘニョは聞き取れた。
命を落とした者の葬儀は、山小屋の全員で行われた。
遺体は山小屋の北側に作った静かな墓地へと丁寧に埋められ、深い祈りが捧げられる。
これを見ていた旅人たちは、ともに祈りを捧げ、やがて『セラデラヴェラ』の温もりを、峠の東へ、西へと伝え広めていった。
◯
シュロッフェンシュタイン城の貴婦人の間では、雪の窓辺に腰かけるスサナ夫人が二つの書状を膝においていた。
一通は、ウンターインタールのとある領主から。これ以上協力はできないとう旨の謝罪。
一通は、インスブルック宮廷から。一人の農奴を買い上げるという通達書類だ。
「仕方ありませんね。しばらく大人しくしていましょう」
スサナ夫人は手紙の一通を暖炉にくべた。
◯
フダワのタデクが何をしていたかと言えば――のんびりとニワトコの笛を作っていた。
大公が貸し出してくれた三人の技術者は、インスブルックの宮殿に滞在している。
彼らは重厚な紋章簿の最初の見開きに、厳かに筆を走らせている最中だった。
最高の冬のぬくもりの向こう側、インスブルックの宮殿で厳かに動き出す世界一の筆。百と八つの星の運命を刻む『紋章簿ツアー』の幕が、アールベルクの冬の終わりとともに上がろうとしていた。
(第3章・後編 / 完。第4章へ続く!)
第1部完。
第4章は10月21日18時から投稿開始。




