3-9 大いなる恵み
インスブルック宮廷で、ヘニョとタデクは大公の執務室に通された。
そこは去年、ヘニョが通された部屋よりも、さらに狭くて机が大きかった。
◯
「……インスブルック滞在中の新大公にサインをもらうだけでなく、大公の部下から技術者三名を貸し出すよう要求する、か。面白いね、かけなさい」
長い三つ編みを背中に垂らしたアルブレヒト三世は、右の山から取った書類にサインをし、左の山へ積み上げるという作業をしながら、ちらとも視線を客に向けない。
「端的な要求は好きだよ。
その理由を、聞こう。
紋章簿ツアーとはなにか。
どんな技術者がほしいか。
なぜ必要か」
ヘニョが椅子の重さに手間取っている間に、タデクは音もなく座り、挨拶もせずに始めた。
「我が主ヘンリク様がこれから行おうとしているのは、聖なる『紋章簿ツアー』にございます。
一冊の美しい本を携えて、欧州中を旅して回り、地方の有力者や豪商たちから、アジールのための聖なる募金を募ります。
その見返りとして、献金者の名前と、誇り高き紋章、そしてその献金額が、美しい本へと刻まれます。……この本を紋章簿と名付けます。
紋章簿に名前が刻まれることによって、献金者たちの家名は、世俗においても、信仰においても、これ以上ない不滅の名誉を得ることができます」
タデクは淀みなく続ける。
「この紋章簿ツアーによって、ハプスブルク領内の富だけでなく、敵対勢力の富をも使って、アールベルクの安全と名声を維持することができます。
今とは比べられないほど多くの富と人と品物が、チロルへと流れ込みます。
民にも尊敬され、神にも愛される。
殿下、これほど素晴らしい公共事業が他にありますでしょうか?
この事業に必要な三名の技術者について申し上げます。
『最も若い紋章官』、『最も手の速い宮廷絵師』、『最も字の美しい書記官』、以上三名でございます」
アルブレヒト三世は手を止め、半分口を開けたまま、しばらくタデクの顔を見ていた。やがて、ふっと息を吐いて、サインを書く作業を再開した。
「荒唐無稽だね。それに貸し出しということは、彼らの給料は私が払うということだね。私がそれをすることで、一体何の得があるのかな?
私が抱えている技術者は、……何て言ったらいいのかな……、平たくいうと世界一なんだ。軍馬を育てるように、贅沢に育てている。
君たちは君たちができる範囲で、素朴に勝手にやればよろしい。それでも私は、君たちから十分な『利益』を受け取れると思うんだけどね。サインは書いてあげるから、諦めなさい」
「おっしゃる通りでございます、殿下」
タデクは間髪入れずに、同意した。もちろん反論するために。
「しかしながら、これは巡り巡ってハプスブルク家、ひいては殿下、そして殿下のご令息の、お立場を強めるための提案でございます。
殿下のお育てになった世界一の技術者が、各地の献金者の目の前で、美しい紋章と美しい文字をライブペインティングしてみせる。その圧倒的な感動によって、殿下が今まさに推進していらっしゃる『翻訳事業』、ならびに『複写事業』の、質の高さと尊さが欧州の隅々まで知れ渡るのです。
殿下の工房には世界中から注文が舞い込みましょう。そうなればまた、新しい技術者を育てる土壌にもなります。……最も優秀な技術者を我々にお貸しいただくことこそが、何より殿下の得になります」
大公が、うーん、と唸る。再び署名の手を止め、タデクの様子を伺う。
「ここに戦場がございます。まだ軍馬を厩舎に繋いでおかれますか?」
「言いたいことはわかった。面白いね。
……ほかには?」
アルブレヒト三世は控えの書記官を振り返り、身ぶり手振りで書類を受け取る。タデクが書いて、親書に同封した、兄弟団の設立趣意書だ。
大公に書類を渡した書記官が、今度はタデクに歩み寄る。財務帳簿や寄進帳を含む追加の書類である羊皮紙の束を、タデクは要求される前にすべて渡した。
「殿下の技術者たちが、春夏の旅を通じて各地で、あるいは敵陣営の城の裏口で『見たり聞いたりしたこと』のすべては、その年の秋冬に、殿下のお耳に入ります。
……殿下がお求めの『欧州見聞録』のために、私どもが次の目的地を定めることも可能でございます」
アルブレヒト三世は、手元の設立趣意書を読みながら頷く。
「悪くない。……これは、全て君が考えたの? タデク君」
「とんでもございません。ヘンリク様の御心を、代弁したに過ぎません。ヘンリク様の御理想を伺わなければ、この素晴らしい事業を考えることなどできませんでした」
「ふーん?」
アルブレヒト三世はここで初めてヘニョに興味を持った。書類から目をあげる。
「君が考えたの?」
「タデクさんが考えまひた!」
ヘニョは瞬発力だけはあった。
ただ、驚いたので少し噛んでしまった。
「君はこの事業どう思うの」
「わからないです!」
「ヘンリク様は以前、教会に1ペニヒを御寄付なされ、御左手に、聖アントンの美しい紋章を書いてもらったことがございます。その紋章が出来上がる様子に大変心が高揚し、その後数日のあいだ幸せな気持ちになったと、常日頃申されており」
「そうなの?」
「はい!」
「君、日当いくらなの」
「1ペニヒです!」
「今では御左手に聖クリストフの聖痕が……」
「ああ、そうだったね」
アルブレヒト三世は、気のない様子で、でもヘニョに向かって首をかしげてみせる。
タデクにじっと見られ、ヘニョは慌てて机の下から左手を出して机の上に置いた。
「これ、本物?」
「ほんもの?」
「昨日光りましたよね? ヘンリク様」
「昨日光りました!」
「そう」
それきりアルブレヒト三世はヘニョに興味を失った。
書類の精査を終えた文官が大公に耳打ちする。
それを聞く間、大公はタデクから目を離さなかった。
「悪くない。……だが、私がほしいのは、その企画じゃない。私が本当にほしいのは君だけど、交渉の余地はあるかな?」
「お戯れを、殿下」
アルブレヒト三世の視線から逃れるように目を伏せ、タデクは勧誘を謝絶した。
「わたくしめは、聖クリストフと、ここにおわします聖ヘンリク様に、身も心も捧げた身……」
「嘘だね……まあいいや」
大公はつまらなそうに言うと、椅子の背もたれに身を預けた。
「君が来ないとなると、すこし足りないな。何か別のおまけをつけてくれるかな?」
タデクは畏まり、書類鞄から一枚の羊皮紙を取り出しながら提案する。
「代わりになるかは分かりませんが……。
殿下、ウィーン大学法学部の充実に、興味はございませんか?」
「興味があるかって?」
アルブレヒト三世は、苦笑いを浮かべた。
「君なら、調べてきたのだろう。私の弱点さ。大学のためなら私はいくらでも狂ってしまうと、いつも金庫番に怒られているよ」
「もし私を買ってくださるのならば、お望みのものを、今すぐこの場でご用意できます」
そう言ってタデクが机の上に広げた羊皮紙には、何も書かれていない。
大公は、その演出を気に入って、微笑みを浮かべた。
「私の望みのものか。楽しみだな。それが何か、聞いてもいいだろうか」
「パリ大学の動乱で浮いてしまった法学者や学生の『リスト』です」
◯
アルブレヒト三世は、半分開いていた口をゆっくりと閉じ、微笑みを消し、完全に黙り込んでしまった。
そのままうつむき、右手で顎を撫でながら、何かを、考えている。
大公の執務室が、先程までの熱気を失うのに時間はかからなかった。ヘニョは自分の服が立てる小さな衣擦れの音すら恐ろしくて、息を止めていた。
やがて、大公はゆっくりと顔を上げ、一言「残念だ」と言った。
「その程度のリストなら、我がハプスブルク家は、いくらでも手に入れるルートを持っている」
大公はさりげなく、左後ろに控えて立っている文官を見て、それから左手にある、部屋の扉をチラリと見つめた。もう話は終わりだ、衛兵を呼べ、とばかりに。
それから、タデクに引導を渡すように、少し首をかしげて、タデクを見つめた。その瞳の色は先程までとは全くちがっていた。
「……本当に、残念だ」
ヘニョには、その大公の瞳が、傷ついているように見えた。偉い人でもこんな顔をするんだと、ヘニョは驚いた。
大公は何も言っていないのに、何を言っているのかわかる気がして、ヘニョはキュッと喉が絞まるような、悲しい気持ちになった。
(ダメなんだ……。 失敗なんだ。 うまくいきそうだったのに……。 タデクさんがほしいものはもらえないんだ……。 ぼくが何か間違えたからかも……)
ヘニョが、もう立った方がいいのかな、と思った、その時だった。
全てのサインを無視し、タデクは平然と話を続けた。
「ただのリストならば、おっしゃる通り、殿下のルートでも手に入りましょう。……しかし、私のこのリストは、……なんと申せばいいのでしょうか……。特別にできておりまして」
タデクは、大公が使った言い回しを使い、明らかに声音に不敵さを込めていた。後ろに立つ書記官が、思わず身じろぎし、大公の顔色を伺うくらい、その言い方は不敬だった。
「かの大学で、かつて学んだ私から見た、『本物の法学者』と、『そこそこできる学生』、そして『そうではない者』のリストでございます。私の能力を買ってくださる大公殿下にとりまして、大変に価値のあるものでございます」
◯
部屋を出て、城内を歩き、城の巨大な門をくぐり、馬車に乗り、馬車から降り、インスブルックの騒がしい街の雑踏を数歩歩いてから、タデクはやっと、襟を緩めて息を吐いた。
その額からは、見たこともない冷や汗がひとすじ流れ落ち、インスブルックの石畳を叩いた。
「おおこわ。聞いてた話と違うな。……腐ってもハプスブルクだわ」
タデクは、自分の後ろをトコトコとついてくるヘニョを振り返り、忌々しそうに、告げた。
「ヘニョ。お前の手本は、アレだよ。よく記憶しとけ」
◯
タデクは、リストと引き換えに、望みのものを手にいれた。最も若い紋章官、最も手の速い宮廷絵師、最も字の美しい書記官、以上三名の貸し出し。それに加えておまけのようにヘニョの農奴身分をシュロッフェンシュタイン家から買い上げさせた。
タデクが、不遜な台詞を吐いたあと、アルブレヒト三世の目が鋭く細まり、部屋の空気が張り詰めた。
しかし長い沈黙の後、大公は低く笑い出したのだ。
「ふふふ、驚かせてしまったかな。――それが君か。いい趣味だね」
そこからは、なぜか交渉がうまくいった。
ヘニョは何が起きているのか、全くわからなかった。
タデクが羊皮紙に『リスト』を書く間、アルブレヒト三世は、宮廷絵師と書記官を、その小さな部屋に呼びつけた。
宮廷絵師は、タデクの鞄にすっぽり入る大きさの豪華な本を手に持ち、部屋に入ってきた。
タデクは、最初の見開きに、聖クリストフの絵を描きたいと言った。そのため、その白紙の見開きをめくった次のページに、アルブレヒト三世の壮麗な紋章が描きこまれた。その下には、ヘニョが目をまんまるにするほどの桁の寄付金額が、金泥で書き込まれた。
◯
(なんか、すごかった。ぼくオマケだった……)
ヘニョはその日、寝る前に、今日のことを思い出していた。
(アルブレヒト三世、全然、大公さまに似てなかった。
最初は、司祭さまに似てた。
でも最後はなんかちがった)
(ぼく、あんな風になれるのかな?)
タデクが言ったことが、いまいちしっくり来ないヘニョだった。




