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西方水滸伝 セラデラヴェラ戦記  作者: 瓶八
第三章 悪魔の呼び笛
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3-8-2 光陰の矢







秘策『ペニヒの鎧』によってシュロッフェンシュタインの包囲を抜けたヘニョたち一行。ザンクト・アントンにて、ほんの一瞬の隙をつき、監視を撒くことに成功したヘニョとタデクは、渡し守兄弟のマティアスとトビアスの船に飛び乗り、下流の大都市インスブルックを目指す。



「追っ手つきなのね。燃えるなあ」

ヘニョとタデクが座ったのを確認すると、船首に立つマティアスは不敵に笑い、極太の棹を軽々と取り回し、岸辺の岩肌に鮮やかに突き立てた。


その瞬間、船はまるで、突然爆風を受けたかのように勢いよく滑り出した。



◯



ヘニョの頬を叩くのは、凍てつくようなシュタンツァタールの秋風。


両岸を赤や黄色に染め上げた木々が、凄まじい速度で後ろへと吹き飛んでいく。


「うわあぁ! はやい! マティアスさんすごいや!」


風で涙がボロボロと溢れ、喉の奥に冷たい秋風が強引に押し込まれてくる。


地べたを歩くのとはまったく違う未知のスピード。


しかも、船はまっすぐ滑っているわけではない。


船頭のマティアスと船尾のトビアスが、棹を川底や左右の岩へ突き立てるたび、


ゴツン! ドスン!


と、船底からお尻を突き上げるような、不規則で強烈な衝撃が何度も襲ってくる。


左右に不気味に傾いたかと思えば、次の瞬間にはまた別の岩を蹴って、強引に向きを変えて加速する。


まるで大暴れする野生のイノシシの背中にひっ死にしがみついているような、生きた心地のしない激しい揺れだ。


だけど、恐怖を通り越して、なぜだか笑いが込み上げてくる。


『ペニヒの鎧』の重みすら忘れて、ヘニョはただただ、この世界がひっくり返るような猛烈なスピードとスリルに、胸をバクバクと躍らせていた。



◯



秋のロザンナ川は水深が極めて浅く、鋭い割石のトゲが川底から無数に突き出している。


普通の船なら一瞬で木っ端微塵。

大破不可避の地獄の難所だ。


しかし、渡し守兄弟にとってそんな常識はどこ吹く風。


激流に揉まれながらも、息の合った凄まじい棹回しを見せつけ、二人はゲラゲラと笑い合っていた。


「すっかり干上がっちゃってご機嫌ななめだねえ、ロザンナちゃんは! ツンツンしちゃって、かわいいったらないよ!」


「まったく、マー君はこういう気難しい小娘の扱いだけは本当に上手いよねえ」


船は岩肌を紙一枚の隙間で躱しながら、猛烈な速度で山を駆け降りていく。


必死でしがみついているうちに、ヘニョはだんだんとその不規則なリズムが体に馴染んでくるのを感じていた。


船体がドスンと跳ねる直前、前後の兄弟がふっと腰を落として、何かを調整しているのが分かる。


(あ、次はこっちに傾くぞ……!)


予測しながら揺れの波を掴み始めると、恐怖はすっかり、楽しさへとひっくり返っていた。


ふと見ると、ヘニョの前に座るタデクが、険しい顔で左手のずっと上方をじっと見つめていた。


ヘニョもつられて視線を這わせる。

そこは川沿いに伸びる軍用路だ。


木々の隙間から、凄まじいスピードでこちらと並走する影が見え隠れしていた。


「馬だ!」

ヘニョが叫んだ。

「追っ手だね」

トビアスが短く応じる。


シュロッフェンシュタインの急使の馬。


頭を極限まで低く下げ、首から尾までを一直線に伸ばしたその姿は、まるで地を這う一本の矢。泥飛沫を蹴り上げ小岩を競り落としながら、日の当たる道の上を疾走する。


船が大岩を避けるためにググッと減速すれば、陸の馬がひらりと先を行き、川幅が広がって楽な直線が続けば、馬の影が遠く後ろに下がる。


見えたり、見えなくなったりしながら繰り返される、陸と川の命懸けのデッドヒート。



◯



気づけば、両脇の山肌は天を突くような断崖絶壁へと変わっていた。


見上げる秋の青空は切り取られたように狭く、ただただ、底冷えのする峡谷の轟音だけが世界を支配している。


やがて、前方の切り立った崖のてっぺんに、黒々とした岩壁と一体化するようにそびえ立つ、不気味な『城』の威容が姿を現した。


「ヴィースベルクが見えてきた」


「もうトバディルか。そろそろ、来るねえ」


「来るって、……何がですか!」

ヘニョが問い返した、その時。


「ちょっと愛が重い、困った『娘さん』さ」


トビアスが答えるか否かのうちに、南から流れてくるもう一本の獰猛な激流――『トリザンナ川』の、茶色く濁った白波が船の前に躍り出た。


「嫉妬深いねえ、トリザンナは。ロザンナちゃんに妬いてやがる!」


「はは、マー君て、面倒な子にモテるよね」


「そうなのよ。困っちゃうね。だがな、男の甲斐性だ。二人まとめて相手してやるよ!!」


二つの川が正面衝突し、川幅が一気に圧縮される。

膨大な水量が、大砲の弾のように跳ね上がった。


「情熱的だねえ、お二人さん。俺たちの船をひっくり返そうと、あの手この手、なりふり構わずときた」


「でも、マー君の獰猛な棹回しなら、そんな気性の荒い女も一発で乗りこなせるさ!」


二つの激流が合流する悪魔の魔境――別名『サンナ川』。



だが、渡し守兄弟はまだ知らない。

今年のサンナ川は、夏の嵐の落とし物によって、いつもに増して凶悪だということを。



◯



「おっとぉ、ありゃあ、ヤバいなあ……」

マティアスが悲鳴のような声を上げた。


前方に、逃げ場のないほど巨大な岩棚が牙を剥いて迫っていた。


激流が激突し、凄まじい逆巻く波を生み出している。このまま進めば、船は一瞬で紙クズのようにひしゃげて大破確実。絶体絶命のピンチだった。


「トビー、振ってくれ!」


マティアスが極太の棹を左右の岩肌に叩きつけながら叫ぶ。


「あいよ!」


トビアスが片手を舵から離し、懐から二つのサイコロを激しく揺れる船底へと投げつけた。

ガラガラ、ぴしゃ。――跳ね回って止まった賽の目。

『1』と『2』。


「ごめん。目無しだわ」

「おいおい何やってんだ!」

「ま、こういうときもあるね」


大破確実のピンチを前に、運試しのサイコロで凶の目を出したトビアスが、表情ひとつ変えずにヘニョに呼び掛ける。


「ヘニョさん! あんたの神様は『聖クリストフ』なんだろ!? 聖クリストフは渡し守の守護神だ! もしあんたが本当に聖クリストフの愛し子ならば、なにか奇跡が起こるはずさ。必死に祈りな!」


「ト、トビーさんたちは祈らないの!?」

「ハッ!」

マティアスが鼻で笑った。

「俺たちは、とっくの昔に『サイコロ』に宗旨替えしちまったんだよ! 今さらクリ坊に祈るような、おめでたい頭は持ってないのさ。だから大将、あんたが祈(や)れ!!」


ヘニョは覚悟を決めて、左手の手袋を脱ぐと、左手の甲の紋章を空に向かって高く掲げた。


空の青さに、豚飼いの紋章を初めて掲げたときの記憶が自然と引き出される。


「ザンクト・クリストフ!!」


ここを通して下さい!と声に出す間もなく、左手の紋章から光が溢れ出た。


青く丸い光が、驚くヘニョと船全体を包み込む。


船と竿の表面を光の蔦と葉、そして真珠のような花が覆い尽くし、神秘的な薄青い光の皮膜を形成していく。


直後――船は岩棚に大激突した!



◯



船は岩棚に大激突した――が、予想したような衝撃も、木の船が砕け散る甲高い音もやってこなかった。


代わりに、紋章の不思議な加護によって、まるで柔らかい鹿革の水筒が弾むように、ぼよんと岩を受け流す。


船は回転する木の葉のように、何度も岩に当たっては向きを変えながら、ついに転覆することなく、巨大な岩棚の横を滑り降り、一行は難所をすり抜けた。


「ヘニョさん、愛されてるね」

「クリ坊、やるじゃねえか」


船上の安堵に呼応するかのように、青い光の加護が船縁と竿から解かれてゆく。


ヘニョは、自分の左手にまだ残る、不思議な青い光を見つめた。



◯



サンナ川の凶暴な死線を、ほんのひととき。聖歌を三曲歌い切るほどの瞬く間で突っ切ると、ついにその出口――イン川との合流点が目の前に迫る。


激流の勢いのまま、船は崖の切れ目から飛び出すようにして、広大な本流へと突っ込んだ。


「――しゃあ! 最後にデカいのが来るぞ! 捕まりなァ!!」


マティアスの叫びとほぼ同時。

ざっぶーーーん!!


船底への強い衝撃とともに、白と緑と茶色の濁流が壁のように跳ね上がり、船ごとヘニョたちを呑み込んだ。


頭から冷たい水を浴び、視界が真っ白に染まる。ヘニョの『四千枚の硬貨を包んだ毛糸の鎧』が、たっぷりと水を吸ってじっとりと重くなる。


「か、ハッ! ……死ぬかと思ったあぁ!」

「ぷはっ! 歓迎の抱擁(ハグ)にしちゃあ、ちょっと激しすぎやしないかい?」


だが、その激しい着水と水柱の衝撃を抜けた瞬間――四人の視界が一気にひらけた。


それまでの荒々しい轟音が嘘のように引き、船は、鏡のように滑らかなエメラルドグリーンの水面へと、すうっと滑り出していた。


優しく降り注ぐ秋の陽光が、濡れた船体と、ヘニョの『ペニヒの鎧』をきらきらと輝かせる。


アルプスの雪解け水特有の、どこか甘く優しい川の匂いが、そよ風に乗って鼻腔をくすぐった。



「ねえ、マー君」


「なあ、トビー」



トビアスが顔の水を拭いながらうっとりと呟けば、マティアスも髪を絞りながら嬉そうに相槌を打つ。


「イン姉さんはやっぱりいいねえ」


「そうだなぁ」


「滑らかで、グラマラスで。優しくてさぁ!」


「そうだなぁ!」


「帰ってきたねぇ……」


「帰ってきたなぁ……!」



◯



しかし、優しく広大なイン姉さんのドレスの裾に身を委ね、ほっと息をついたのも束の間。


エメラルドグリーンの美しい水面の行く手に、巨大な影が立ち塞がった。


シュロッフェンシュタイン家が支配する、ランデックの巨大な『屋根付き木造橋』――。


東西南北の利権を独占する強欲の象徴。

そして、兄弟にとっては、彼らから船を奪い、川を奪い、彼らを乾いた陸へと追いやった、憎んでも憎みきれない因縁の『仇』だ。


「――おいおい、姉さん。どこの男のプレゼントだぁ? その趣味の悪いチョーカー、最悪に似合ってないぜ」


マティアスが口の片端を持ち上げながら、瞳に熱い怒りを宿す。


橋の上の高みから、ヘニョたちの船を見つけた衛兵が何事かを怒鳴り散らした。

今まさに駆け込んだ急使の報せを受け、関所の衛兵たちが、左右に走り回り、慌てて位置につき、一斉に弓を構える。


「撃て! あの船を沈めろ!」


船まで聞こえる敵の司令官の怒声。

次の瞬間、ヒュンヒュンヒュンと空気を切り裂く風切り音とともに、橋の上から船めがけて無数の矢が放射された。バラバラと降り注ぐ、逃げ場のない死の雨だ。


「トビー、舵を頼む!」

「あいよ!」


兄のマティアスは不敵に笑うと、舵取りを弟に預け、船底から大刀を持ち出し、刀身を抜いて船頭に立った。


「お国のために働く頭はねえが、多少の憂さ晴らしならね、俺っち大好物なのよ!」


大刀を肩に担ぎ、片足を船縁にかける。


「トビー、振ってくれ」

「あいよ!」


トビアスが再び懐から二つのサイコロを抜き、船底へと放り投げた。

がらがら、ぴしゃ。

木板の上でピタッと静止した一対の賽の目――そこにあったのは、『1』と『1』のピンゾロ。


「グリュックシュヴァイン(幸運の豚)!」

「でかした、兄弟!」


「幸運の豚!? それってどんな目なんですか!」

聞き捨てならない単語に、豚飼いのヘニョは思わず叫ぶ。


「――大将。あの日のあんたの出した目『六のゾロ目《ケーニッヒ / 王の目》』には敵わねえが、ここを潜(くぐ)るには一番の出目よ!」


「逆境を転じる、農民の目さ。座ってな、大将さん。俺たちは、ついてる!!」


マティアスは軽々と大刀を左右に振り回し、華麗な剣技で、上空から飛んでくる矢を一本、また一本と叩き落としていく!


だが、相手は砦のごとき関所橋と山のごとき兵士。近づくにつれ矢の雨の密度は増し、防ぎきれない数条の矢が容赦なく船体を削り、ヘニョたちの足元へ突き刺さる。


「ヘニョさん!」

トビアスが叫んだ。


ヘニョが再び左手の紋章を掲げると、紋章が呼応するように光を弾けさせた。膨張する光の球が、ヘニョを中心に船を丸ごと包み込んでゆく。


「いくぞおおおぉぉ!!」


マティアスの咆哮とともに、船はシュロッフェンシュタインの木造橋の下へ突っ込んだ。


ガシャーーーーン!!!


激しい音を立て、火花を散らして飛び散っていくのは、光の障壁に弾かれた矢の雨の残骸。


「うわあっ!?」と悲鳴を上げて宙を舞うのは、ヘニョたちが潜った橋のちょうど真上に立っていた兵士たちだ。


不思議な青い光の防壁は、矢の雨を弾き、触れた兵士たちを空高く跳ね飛ばしたものの、橋自体は全く傷つけていない。


ドボン! ドボン!……ドボン!!


運の悪い兵士たちがイン川に着水する音を遥か背後で聞きながら、大笑いする兄弟を乗せた一艘の船は、イン川の下流へとダイナミックに滑り出していく。


そこからはもう、誰にも止められない。


一年前のヘニョが夜明けから深夜まで歩き通してやっとたどり着けた、アルレン城からランデックまでの長い距離。


それをほんのわずかな時間――鍋に作ったスープが冷めるほどの時間で移動した一行は、その日の日暮れ前にインスブルックに到着した。



◯




約束の時間の前日の夕刻。

一行を乗せた小船は、ついにチロルの首都インスブルックへと滑り込んだ。


そこは、栄華を極める大都市だった。

広大なイン川をまたぐようにして、北街と南街を結ぶ無数の美しい橋が架けられている。

マティアスとトビアスは、そのうちのひとつの橋のたもとへ、静かに船を寄せた。


船を降りて歩き出したタデクが、振り返って怪訝な顔をする。


船を降りたヘニョが、橋を支える巨大な礎石を見つめてその前から動かなかった。


(これ……大公様が言ってたやつだ!)


ヘニョは以前、レオポルト三世が口にしていた言葉を思い出し、古びた石の表面にじっと目を凝らす。そこには雨風に晒されて、角のとれたおぼろげな文字が、びっしりと刻み込まれていた。


「タデクさん……」

ヘニョは、小さく呟いた。

「この文字、なんて書いてあるの? ぼく、字が読めないから……」


タデクは忌々しそうに眉をひそめながらも、ヘニョの視線を追って礎石へと歩み寄る。

目を細め、刻まれた文字を退屈そうに上から読み下す。


「パン屋のチカ、研師のセルジ、種商人のタタカド……。これがどうした」

「うわあ、そうなんだ」

ヘニョの顔に、ぽっと灯りがともるような興奮が浮かんだ。


「ぼくたちと同じなんだ、この人たち。この立派な橋を、作ったんだね」


愛おしそうに、けれどどこか誇らしげに、その刻印を見つめ、橋を見渡すヘニョ少年。

川縁に泊めた船の上から、その上気した表情を見上げ、ほう、と感心する渡し守兄弟。

そして、死んだ蛙を手のひらに乗せられたような、なにこれという目をするタデク。



「おい! そこの怪しい奴ら! 動くなッ!!」

その感動を切り裂くように、騒がしい足音が橋のたもとに響き渡った。


「変な船が乗り付けてきた」という住民の報せを受け、色めき立った街の衛兵たちが、槍を構えて一斉に駆けつけてきたのだ。


息を荒くし、鋭い眼光でヘニョたちを包囲する兵士たち。

その姿を見て、ヘニョはすこし慌てたように身を硬くした。


ヘニョは、鋭い槍先を向けてくる衛兵たちを見つめ、あ! と、思い出したように眉毛を上げる。


「あの、――入街税ですか? ぼくの鎧から、毟(むし)り取ってください!」


何ひとつ悪気のない、純粋無垢な提案。

だが、日当1ペニヒの豚飼い少年によるその言葉は、これ以上ない宣戦布告の響きを持って、インスブルックの秋空に高らかに鳴り渡るのだった。








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