3-8-1 開かれし門
『寄付金の鎧』を身にまとい、宿敵シュロッフェンシュタインの包囲を破った、非凡なる豚飼いのヘニョと、その参謀フダワのタデク。そしてお散歩中の司祭。
しかし、お気楽に見える彼らの内情は切迫していた。インスブルック宮廷でのハプスブルク新大公との面会約束まで、残り二日を切っていた。
明日の夕刻までにインスブルック宮廷に着かなければ、アールベルクの山小屋も、ヘニョの命も、逃亡農奴たちの運命も、すべてが無に返す。
「ねえ、タデ……フダワさん。これからどうするの? インスブルックまで、前に歩いたときは、三日かかったよ?」
ヘニョたちの後ろには距離をおいて、一人の騎士と四人の兵士が後をついてくる。
兵士たちの金属鎧がこすれる音を聞きながら、ヘニョはあらかじめ打ち合わせていた通り、タデクの呼び方を偽名の「フダワ」へと変えて尋ねた。
「さあね。考えてないわ」
「えー!」
「『ペニヒの鎧』が遅れたのは、俺のせいじゃないしな」
山小屋とヘニョと逃亡農奴の運命を守るため、職人もそうでない者も力を出しあって完成させた『ペニヒの鎧』。
だが、その発案者でありながら、タデクだけは、ただの一度も製作作業を手伝っていなかった。
修羅場の空気に微塵も感染しないのんきな司祭でさえ、言われるままにのんびりペニヒを小指袋に詰めたり、『急増筒』に興味を持って、何回か試してみたりしたのに、だ。
トマスが帰って来た四日目の昼から、完成までの一日の間も、タデクは寝たり、笛を吹いたり、パベルにやらせていた寄進帳の捏造箇所に「気に入らないところがある」とかでやり直させていただけだった。
ニギ親方に「手伝え」と蹴られても、完璧に無視して、あくびをして、部屋の隅に寝っ転がって、作業する人間たちを眺めているのだった。
(それでも、こういうことを平然と言えるのが、タデクさんらしいな……!)
ヘニョはタデクのふてぶてしさに少なからず感心しながら、右を歩く狐のような男の、ふわふわの髪の毛見つめた。
(法律の知識がすごいから、ほかをサボってるのもかっこいいかもしれない!)
ヘニョは、いつか自分が何かの専門家になったら、一回真似してみたい、と、よからぬことを考えていた。
◯
やがて三人は、アルレン城にさしかかった。
ヘニョとタデクが包囲を破るついでに、散歩をしようと抜け出してきた、若い司祭はそろそろギブアップしそうだった。
「司祭さま、がんばって。
ザンクト・アントンの教会、見たいんでしょ」
「こんなに歩くとは思いませんでした。
みなさんひょいひょい往復しててすごいですね。
私はもう、おうちに帰りたいです……」
三人が今いる山道からは、アルレン城を左に見上げることができ、その南斜面――バウホーフ(城営農園)を右に見下ろすことができる。ちょうど、右手の前方にハムたちの豚小屋が見えてきたところだった。バウホーフの放牧地の片隅に立つ小さな小屋は今、兵士たち八人によって、四方を取り囲まれていた。
これまでの度重なる脱走劇や、兵士への暴力、そりを引くパワーと、謎の統率力――これらを把握しているシュロッフェンシュタインの兵士たちは、ハムたちに対して、全く油断をしていなかった。
大きな板で厳重に目貼りされた豚小屋が、縦横にどかどかと揺れている。
「ハムたちがんばってるなあ。
でも兵士さんたち手ごわそうだね」
豚飼いのヘニョと深い絆で結ばれた賢い五匹の豚たちは、今まさにヘニョのピンチを救おうと、豚ぞりを装着し、外へ飛び出そうとしているのだが、当のヘニョは、そのことには全く思い及ばない。
おなかがすいたから、おやつを食べに出ようとしてるんだろうな、くらいに考えていた。
豚たちが脱走のために開けた数々の抜け穴も、シュロッフェンシュタインの兵士は対策済みだった。見たことのない大小の岩や、土を詰めた麻袋で、豚小屋の周りは賑やかになっている。
アルレン城の城門にも兵士が立っていたが、こちらはたった二人だった。ヤックライン隊長は出て来られなそうだった。中にいる隊長の軍馬も借りられなそうだ。
ヘニョは、(隊長元気かな、一目でも会いたいな)と思いながら、石造りの主塔の細い縦長の窓に視線を走らせてみたけれど、ついにどこの窓にも隊長の影は見つからなかった。
◯
「あ!」
と声をあげたのはヘニョだった。
アルレン城を通りすぎた三人が、シュタンツァタール谷の北斜面の尾根沿いに伸びる、日当たりのいい軍用路を歩いている時だった。
灰色の屋根が寄せ集まった、ザンクト・アントンの集落が眼下に見えてきたところで、風の向きが変わった。
谷底から吹き上げる風に、ヘニョが目を細めながら、なんとなく集落のそばを流れるロザンナ川の、白い帯のような岸辺に目を向けた時、二人の人影を見つけたのだ。
「マティアスさんとトビアスさんだ!」
タデクが、なるほど、と目を細める。
「さすがだな、モシチ・パニェ(我が主)。俺たちは間に合うかもしれない」
◯
谷の尾根に近い軍用路から谷底のザンクト・アントンの集落へ降りるには、片手を斜面に置きながら、未舗装の獣道を降りなければならない。
ロットメンネル(荷運び人)やそのロバたちが毎日往復する、使い込まれた獣道ではあるけれど、重装鎧を着こんだ騎士を乗せた軍馬が、そのままここを降りようと思えば、滑落や骨折の危険がある。
軍馬を何よりも大切にする中世の騎士が、ただの歩行者の追跡任務で、そんな愚かな真似をするはずがなかった。
ザンクト・アントンに降りていく三人を、後方から監視していた騎士と四人の兵士たちは、軍馬を軍用路に残し、一人の兵士を馬の番につけ、騎士と三人の兵士で、監視を続けることにした。
(フダワ殿も悪いお方だな。ザンクト・アントンの、厩舎も馬貸しもすでに、我々の手の中だ。それを知っているだろうに、主を案内している。豚飼いは馬を借りられる望みを持っているのだろう。時間を浪費させられているとも知らずにな。フダワ殿が我が城の門を叩かれた暁には、この功績も口添えしてやらねばな)
金属鎧を着た騎士は、そんなことを考えながら、何度も急斜面を転びそうになりながら、鉄の靴に悪態をつきつつ、一人の兵士に支えられ、時間をかけて降りていった。
一方、ひと足先に下り終えたヘニョたち三人は、村中の馬が集められ、四人の兵士の槍によって守られている、ロットメンネルの厩舎の前を素通りする。
集落の町の中心に立つ教会で、ヘニョとタデクは司祭と別れた。
「いやはや、疲れました。お茶でも出してくれるといいんですがねえ」
「司祭さま、ぼくが言ってた教会は、ここじゃないけどいいんですか」
「いいです、いいです。もう一歩も歩けません。その教会は、またの機会に」
あとをついてきた二名の兵士は、三人が二手に別れることに困惑していたが、一人が教会の表門、一人が教会の裏門で見張ることにした。
教会の中には武装した兵士は踏み込めない上に、ここには徴収できなかった二頭の馬がいる。
先触れの兵士が馬を貸さないように厳しく申し渡してはいるものの、シュロッフェンシュタイン家は教区の教会とあまり良好な関係ではなかったから、申し渡しが守られるか確信がなかった。
司祭がこの教会から馬を借りることに成功した場合、敷地外に出たところで足止めをし、仲間を呼ぶ必要があった。
農奴と法律家の二人を、他に馬のない集落をいくらさまよわせたところで害がない。
二人はどうせタデク司祭と合流しないといけないのだから、馬のある教会に入っていったタデク司祭を見張るのを優先するべき。
それが二人の兵士の見解一致の判断だった。
ちなみに、金属鎧の騎士とその手伝いの一人の兵士は、いまだに急斜面の獣道と泥まみれになって大格闘の最中だった。
こうして、ヘニョとタデクの二人は、シュロッフェンシュタインの監視の目を、つかの間、撒くことに成功した。
◯
ザンクト・アントンの川べりに、二人の男が待っていた。
「遅えんだよ、大将! 待ちくたびれたぜ」
一年前に一度、話をしただけの男――渡し守兄弟の兄、マティアスが、ヘニョに親しげに話しかける。
まるで、固い約束をして、ここで待ち合わせをしていたかのような頼もしい言い方に、ヘニョはなんだか嬉しくなった。
隣では弟のトビアスが、「マー君が、『今だ』っていうから来たけどさ。ほんとうに来たねぇ」と驚きながら、「大将さん、なにか困ってるの?」と柔らかく声をかけてくる。
「マティアスさん、トビアスさん! 僕たち、インスブルックに行きたいの。助けてくれますか?」
二人が案内する川下の草むらには、一艘の細長い船が隠れて揺れていた。
兄弟が、川べりに寝かせていた長い竿を持ち、船に乗り込む。
「乗りな、お客人」
というかけ声と同時に、ヘニョとタデクは、揺れる船へと飛び乗った。
「――待て! 待てッ、そこを動くなァ!!」
その時、泥まみれのシュロッフェンシュタインの騎士が一人の兵士をともなって、血相を変えて川べりへとたどり着いた。
しかし、すでに全てが遅かった。
「大将さん、船に乗ったことは?」
「ないです!」
「なら、口を閉じておいた方がいい。舌を噛み切ったら大変だからね」
船尾に立ったトビアスが騎士の制止を無視しつつ、優しい声で不穏なことを言う。
ヘニョは、それは大変だ!と思い、口をむぐっと結び、結んだ口を見せるようにトビアスを見上げた。
「追っ手つきなのね。燃えるなあ」
ヘニョとタデクが座ったのを確認すると、船首に立つマティアスは不敵に笑い、極太の棹を軽々と取り回し、岸辺の岩肌に鮮やかに突き立てた。
その瞬間、船はまるで、突然爆風を受けたかのように勢いよく滑り出した。
◯
遠ざかる船の船首に立つ船頭の背後。鶯色の野良着をまとって座る法律顧問フダワが、ゆっくりと振り返る。
秋風が二人をわかつ中、若い法律家と中年の騎士の二人の視線がバチリと交差する。
その瞬間、若く有望な法律顧問の瞳の色が、まるでぐにゃりと音を立てるように怪しく変わった。
騙されきった敵の脳みそを心の底から見下し、嘲笑うような、人を小馬鹿にして微塵も反省しない、嗜虐的な瞳の色へと。
その色に、すべてを悟った騎士の視界が、怒りで真っ赤に染まる。
「おのれ……っ! 謀ったな法律屋ァ!!」
あの『宿場の馬車を差し押さえられるのが一番怖い』という保身の協力に見えた弱味の提示は、この警備を薄くして船に乗るための、仕組まれた罠だったのだ。
「馬を飛ばせ! 街道沿いの関所に今すぐ連絡しろ! ガキどもが船で川を降りたとな!!」
騎士が激昂して、隣の兵士の兜を怒りに任せて激しく叩く。だが、叩かれた兵士は「痛っ……」と頭をさすりながら、なんともマヌケな声を上げた。
「はぁ。しかし隊長殿、我々は面会名簿にある公式な同行者『タデク司祭』の身元を押さえています。面会に二人揃わなければ、あいつら結局不敬罪になるのでは……?」
「――ばかもーーーん!!!!」
騎士の怒声が秋の川原に響き渡った。
「あの教会にいるのは、ただのクソ坊主だッ!!! 騙されたんだよ俺たちは!!! ――あの農奴と一緒に船に乗って逃げていく、あの法律家こそが、本物の【タデク】だァアアアアーーーーッッッ!!!!」
怒り狂う騎士の命令を受け、大慌てで報せのために走らされる兵士。
だが、その行く手。ザンクト・アントンの遥か頭上、軍用路の上から、さらなる切迫した叫び声が谷中に響き渡った。
「豚だァァ! 豚が逃げたぞォォ!」
なんと、ハム、ピンク、ブッダ、ベーコン、ポルコの五匹の豚は、あの八人の包囲網を突破し、勝手知ったる豚そりを凄まじい馬力(豚力)で引っ張って、先行するヘニョを探して軍用路を大爆走していたのである。
しかし。谷底の川を行く小船の上から、手を振るヘニョの姿を見つけて、山の上を突進していたハムたち五匹は、
「え?」
と、綺麗に揃った急ブレーキ。
(……俺たち、要らないのかよ……!)
そんな賢い豚たちの切ない心の叫びは、家畜の守護聖人・聖アントンの御心のみが知ることになった。
こうして四人を乗せた秋の小船は、敵も味方も、健気な豚たちも置き去りにして、ロザンナ川の激流へと突っ込んでいくのだった。




