閑話 ハンド・ヘラー(神の手)
ランデックのマウトルガー・プラッツ(徴税待い合い広場)に面したツォイブルク城――通称:徴税城。
その壁面を使ったアーケード(屋根のある回廊)の下に、鉄格子で囲まれた長机があり、その奥に顔馴染みの二人の両替商が腰掛けている。
「トマス、ずいぶん景気がいいじゃねえか、どこで手に入れたこの金貨」
鉄格子の隙間から金貨三枚を長机の皿の上に置くと、二人のうち、顔の怖い方、左の両替商がそう口を開く。
「聞いてくれよ、旦那。親戚から借金しちまった。あとが怖いぜ」
「なにをする、この大金で」
きた。しかしこの質問は対策済みだ。
「親がな」
「親が?」
病気だと言う言い訳は使えない。ぴんぴんしてるのを知られてる。
「行きたいんだってさ」
「行きたい? ふん? どこへ」
「サンティアゴ・デ・コンポステラにさ」
トマスは有名な巡礼先の名前を言った。エルサレムやローマに次ぐ三番目の知名度と人気を誇る聖地だ。
「なに?」
左の両替商は、元々怖い顔をさらに険しくした、恐ろしい形相でトマスを睨み付ける。
「サンティアゴ・デ・コンポステラだと?」
両替商は、鬼のような形相のままぴたりと動きを止めた。
両替商が首に巻いているウサギの毛皮の襟巻きが、男の豊かな眉毛や口髭と一緒になって、怒りで膨れ上がっているようだ。
トマスは、なんで睨まれてるのかわからず、目を泳がせる。
長机に置いてある天秤や黒い三角の石、線の引かれた緑色のフエルトとその上に散らばる算盤用の駒を意味もなく見つめた。
「いやあ……! いいぞ、サンティアゴ・デ・コンポステラは!!!」
両替商は、目を限界まで見開き、頬の肉を細かく震わせて、力説し始めた。
「俺も若い頃行った。最高だったよ。もう一度行きたいから、こんな歳まで働いてんだよ!!!」
顔は怖いがどうやら怒ってるわけではないらしい、と理解したトマスは、ほっと胸を撫で下ろした。
男は、「そうか、ご両親のために。そうか」とか「いや、えらい。親孝行しろよ」とか「ちゃんと稼げよ、トマス。がんばれよ。そうか、サンティアゴ・デ・コンポステラか。そうか」とか、頷きながらひとりで喋っている。
ひとりで喋ってはひとりで納得している間も、ウサギの襟巻きの両替商は手を動かし、筆記帳を引き寄せ、燕脂色のガウンの袖を押さえながら、三枚の金貨を天秤ばかりに乗せ、重りを乗せ、ペンを持ち、ペン先をインク瓶に浸し、その重さを記録しようとする。
「まて」
それをもう一人の両替商が手をかざして制す。
「その金でどこまでいく気だ?」
底冷えするような冷たい声音だった。
雲行きが怪しい、とトマスは思った。右の両替商は、疑り深くて有名なやつだ。
「ゲンフ(ジュネーブ)かなあと思ってるよ。他の金貨はそこで両替かなと」
正直これ以上突っ込まれるとまずかった。
トマスは地名をあまり知らない。
「正気か?」
右の両替商は白テンの毛皮で作った襟のある、黒いローブを合わせなおした。
そしてゆっくりと両手を組み、両ひじを長机に乗せた。
「いまアイドゲノッセン(誓約同盟/スイス)がどんだけ危険かわかってんのか?」
ジロリ、と音がしそうな視線だった。
「あいつらハプスブルクが嫌いすぎるんだよ。もしチロルの人間と知ったら、【敵国人税】を取られるぞ。法外な通行税と護衛税をふっかけてきて、横断するだけで300ペニヒは確実にむしられる。そんなところへ親をやり、そんなやつらへチロルの富を吐き出すつもりか?」
その両替商は鋭く、吐き捨てるように「やめとけ」と言って、実際に地面に唾を吐いた。
この流れはまずい、とトマスは思った。
もう言い訳は売り切れだった。
なんと答えたものかとまごまごしていると、右の両替商は人差し指を立てた。
「シュヴァーベン都市同盟(南ドイツ)を通らせろ。食費も宿泊費も高いが、安全だからな。アイネ・ミット・ヴァイレ(急がば回れ)さ。結局安くつく。アールベルクを西へ。フエルトキルヒを北へ。ボーデン湖を北へ渡り、シュヴァーベン街道を西へ、バーゼルで南西へ行けば、ル・ピュイ=アン=ヴレ、まで行けるだろうよ」
「ル・ピュイ? フランスの都市か?」
「そうだ、知らないか? サンティアゴ・デ・コンポステラまで直通の街道がある。ル・ピュイ街道の東端だ」
「ありがとう、親に言っとくわ」
「グッドラック」
大丈夫だった。親切なだけだった。
◯
「渡し守の兄弟? さあな、入って勝手に探せ。入場料は2ペニヒだ」
門番に凄まれ、トマスは苦い顔で小銭を差し出した。
ダイスが転がる木皿の音と、泥炭の煙が充満する地下賭博場。
荒くれ者の熱気に踏み込み、見たこともない『渡し守の兄弟』を、名前を頼りに探さなければならない。勇気をだして人に話しかけても首を振られるか無視されるばかり。目の前を通りすぎる時に、「あいつらのことなら知ってるぜ」と声をかけてきた爺さんに、言われるままに濁り酒を1杯奢ると、爺さんはニヤニヤと笑った。
「お上の手入れが二回もあってよぉ。おかげであいつら、パッタリ来なくなっちまったよ。『ツキが落ちる』ってな。へへへ、毎度あり」
酒一杯としては高額な1ペニヒを支払って、全く参考にならない情報をつかまされた。
しゃぶりつくした骨が床に投げられる音と、歓声だか怒号だかわからない突然沸き上がる男たちのおたけび。
「兄さん、賭けてけよ」という、頬に傷のある男の呼び掛けを振り切って、トマスは逃げるように賭場をあとにした。
純粋に怖い。
◯
もらったメモを頼りに、赤い干し柿が二つ干してある古い宿の二階、奥から二番目の部屋を叩く。お香の甘い匂い。扉を開けた女――ナターシャは、どこか気だるげな様子で、ゆったりとした部屋着のまま、若いトマスを品定めするようにじっと見つめてきた。
「お兄さん? はじめてみるね。まだ休憩時間、なんだけど。下で待ってる?」
すこし目を細めた妖しい視線で、壁によりかかった姿勢で下から見上げ、黒いまつげで二回瞬き。トマスが気圧されながら、「豚飼いの紋章の少年が『さょーふのナターシャ』に頼みがあるんだって」とヘニョと呼ばれていた少年に教えられた言い方で用件を告げると、その女っぽい雰囲気は一瞬で消え去った。
「わーお! あの坊や」
作っていたポーズをやめて、自然な姿勢で直立し「面白いよね?」と腕組みする。
トマスに同意を求めるような、共犯のような笑顔を向け、少し小首をかしげる。
そのあまりの健やかな変貌ぶりにトマスがドキリとしていると、「入って。話を聞かせて」と、彼女は背中を見せて部屋の奥へと入っていった。
◯
トマスが話を終えて、机の上に「金貨7枚」と両替したばかりの硬貨の袋をじゃらりと並べた瞬間、ナターシャは「馬鹿言えお兄さん!」と煙管を灰皿に打ち付けて激怒した。
「そんな大金を一気に賭場の裏ルートへ持ち込んでみな! 両替が成功したってね、店を出て、三歩歩く前に裏路地で首を括られて、翌朝にはイン川の水面に浮くのがオチなんだわ!」
トマスが、息を呑み、なるほど、考えが甘かったなと考え混んでいると、ナターシャは立てていた片膝をあぐらに組み直して、ふぅっと煙草の煙を吐き出す。
「裏社会の金を動かすにはね、お作法があるのさ。ひとつの賭場で、あんたや、私みたいな貧乏人が、一度に両替えできるのは『金貨1枚ずつ』がいいとこ。それも、【必ず賭け事をして、わざと負けて、クズどもの目を誤魔化すこと】。ここまでが絶対の条件さ」
ナターシャは天井に吹きかけた煙が霧散するのを見守り、それからがっくりとうなだれて下を向いて何かを考えていたが、すぐに波打つ黒髪をはね上げて、トマスに尋ねた。
◯
「お兄さん、この綺麗な金貨を地下のチェンジャーに持って行くとする。そして地下レートで手数料を毟られて、その上で分かりやすく賭け事に負けたらさ、良くて五割しか手元に残らないよ 。だけどね……聞く限り、その『ペニヒの鎧』ってのは 、【コインの綺麗さ】じゃなくて、【コインの面積】が勝負なんだろ?」
トマスが、え? とまばたきすると、ナターシャは目に強い光を湛えてトマスを見つめ返す。
「だったら、ペニヒ(銀貨)にこだわる必要なんてない。賭場の奈落の下に腐るほど沈んでる、本物か偽物かも分からない赤茶色の【ヘラー(粗悪銅貨)】を狙うのさ」
◯
いくつもの薄絹の帳と、分厚い絨毯が、サイコロの音を遠のかせる。とある地下賭場の奥の部屋。
ナターシャはトマスの腕にこれ以上ないほど濃厚に絡みつき 、怯えるトマスを連れて顔の怖い胴元の前へ進み出る。
あっさりと腕をほどき、トマスの胸のポケットから、もったいつけて「本物の金貨」を一枚取り出すと、ナターシャはそれを、両替人の小男に手渡す。これ以上ないほど強欲で軽薄な「夜の女の顔」を作って、クスクスと笑い、胴元へ歩み寄って耳元へ囁いた。
「ねえ旦那、マヌケを連れてきたよ。こいつにヘラー(ゴミ銭)をつかませてよ。良いペニヒを賭けさせてちょっと負けさせたらすぐ連れ出すからさ。その代わり、私にもお小遣いちょうだいよ」
顔馴染みの胴元は、「おいおい、ナターシャ、えげつねえな」とニヤニヤしながら、両替人に目を配る。
両替人は、黒い三角の試金石で、コインの表面を引っ掻き、天秤に乗せ、「本物です」と肩をすくめる。
手下に持ってこさせたヘラー袋を数えさせる間、ナターシャはさらに妖しく目を細め、身を乗り出してトドメとばかりに胴元に耳打ちする。
「私の顔で安く両替してもらえると言ってつれてきたのさ。顔を立ててくれよ。うまくやればこのカモ、おかわり(二回目)があるよ」
「いい女になったなあ、ナターシャ。 かわいいおねだりだ」
胴元は喜んで囁き返すと、じきじきにトマスに声をかけた。
「ナターシャ姉さんの頼みとあっちゃ仕方ねえな。今回だけだぞ、若造」
◯
その日、ナターシャとトマスは三軒賭場を回った。
これでよかったのか、うまく行ったかはわからないものの、ずっしりとした硬貨の袋がいくつも増えていた。
ヘラー2枚で1ペニヒであり、悪貨がこれでもかと混じってる上に、賭けで負けて減らしてもいたので、金貨三枚はその価値を結局半分ほどに減らしている。
それでもペニヒとあまり大きさの変わらないヘラー硬貨であるから、体積は増やしている。これしか方法はないような気がした。
トマスが通常の荷物と合わせて担げる重さにも限界があるので、三軒でしまいとした。
ナターシャを宿に送って行く途中、毛糸商の露店があった。
◯
「あ、毛糸」
頼まれていた買い物を思い出し、毛糸玉商の露店に立ち止まる。
「あった」
一番安い、ウォード染めの地味な青の毛糸。ブリギッテという老婆に頼まれた毛糸だ。
「これを三玉」
と言いながら、金額を聞くと、露天商は「六ペニヒ」と言いながら、違う毛糸をすすめた。
「そのべっぴんさんにはね、このベネチアの職人が染めたケルメスの赤や孔雀の羽みたいなオーセイルの紫が似合うと思うんだけどな。お兄さんはどう思う」
「――いや。彼女が似合うのは、こういう色だよ」
トマスは、草木染めの淡い黄色の素朴な毛糸を指差した。
「でも、今日は彼女向けじゃないからこれでいいんだ」
そう言って、六ペニヒと青い毛糸の交換を済ませるとスタスタ行ってしまった。
あら、とナターシャは立ち止まり、しばしトマスの背中を見つめた。
◯
「コニス、お前。風邪気味だろ。休んどけ。明日のシャトル、俺が代わりにいくわ」
「トマス。お前帰ってきたばかりだろ。どうした。お前こそ、体調崩すぞ」
「ちょいと今月金がいるのよ。俺を助けると思ってさ。な? 頭には俺からうまく言っとくからさ。休めよ」
ランデックのザンナ門近くにあるロットメンネル宿の二階、何十人もが横一列に雑魚寝する巨大な雛壇の上で、トマスは唯一の年下の同僚を乱暴に言いくるめていた。
部屋には暖炉もなく、一階の厩舎から床板の隙間を抜けて上がってくる、何十頭ものラバの糞尿と湿った乾草の、異様に蒸した獣臭が立ち込めている。
油と汗が染み込んだ他人の野良着が擦れ合う音、がさごそと鳴る古い藁の硬い手触り。そういったものの中で休むことについて、二人はなにも思わない。農村ではもっときれいな空気が吸えるが、金は手に入らない。
「わかった。休むよ」
と、合意を得られたのを聞き届け、絶え間ないいびきを頭から被った古いマントで遮断した瞬間、極限の緊張から解放されたトマスの肉体は、泥の底へと沈むように、圧倒的な無音の爆睡に落ちていった。
「ありがとう、トマス」
と続いたコニスの言葉は、トマスに届かなかった。




