3-7-1 戦いの誓い
アールベルク峠の頂上。鋭く吹き付ける十月の北風の中に、完成したばかりの山小屋『セラ・デラ・ヴェラ』が、慎ましやかに佇んでいる。
その山小屋の東南の角、美しい飾り文字の彫り込まれた礎石の前に、金茶色の広がる髪を風に乱したタデクが立っていた。
この山小屋の管理人にして、山小屋建設事業の発起人であるヘニョ少年は、タデクの隣でほっぺたを蒸気させて、「これがこの家の名前でね、こっちが一緒に作ったみんなの名前で、これがハムたちの蹄の形でね……」と、自慢げに説明している。
タデクは、その少年の宝物の礎石を、まるで死んだ虫でも突っつくかのように、できれば近づきたくないという目で見ながら聞いていたが、とうとう話を遮った。
「――あーあ。典型的な、報われない男の顔だな」
「え?」
「『セラ・デラ・ヴェラ』ねぇ。全財産で、寂しい峠に家を建て、初恋の女の名前をつける? パン・ヘンリク(ヘンリク様)。お前さんは、優しさで動いているつもりかもしれないが、いずれ世界に踏み潰される、『15ペニヒのろくでなし』にしか見えねえよ」
タデクは、そうだろ? とでもいうようにヘニョの瞳を覗き込むと、すぐそばの扉を開け、礼拝堂の中へと入っていった。
◯
宿舎の内部。大きな暖炉の部屋は、乾燥した薪がパチパチと爆ぜる音と、温かい煙の匂いに包まれていた。
中央に切られた暖炉から離れた、部屋の北西の角に、タデクはあぐらを組み、山小屋の財務帳簿を捲っている。タデクの前には、少し丸まった大公の特許状が、無造作に床に置かれている。
その様子を、ベテラン役人のパベルが正座で、ヘニョが両膝を抱えて、ニギ親方があぐらに肘をついて見守っている。
車大工のステファンや、逃亡農奴のオレクやカシャが、腕を組んだり、腰に両手を当てたりしながらヘニョたちの後ろに立っている。
ヘニョたちが、法律家を連れてきたという話は広まって、どれどれと人が集まってきたのを、タデクは丁度よいからと言って、そこにいるように命じたのだ。
だからといって挨拶をするわけでもなく、タデクは、赤い罫線と焦げ茶色のローマ数字で満たされた、何十枚もの羊皮紙を無言で捲り続けている。
小屋の外からは、東西のロットメンネル(荷運び人)たちが、荷物の積み替え作業をする賑やかな声が聞こえてくる。宿舎の中はヘニョたち以外に人がなく、作戦会議をするには丁度よかった。
フダワのタデクは、この日、この昼下がりの短い時間に、だいたい次のような六つのことをした。
①財政チェック ◆ 帳簿がない? あ、そ。
この山小屋の建設に必要だった経費と、その出所はわかった。
運営費はどこだ?
寄付金の出納帳は。
ない? あ、そ。
②兄弟団のチェック ◆ 存在しない? 今作る
タデクは、公文書の文字を指で叩き、ヘニョに聞く。
この聖クリストフ兄弟団ってのはどこにあるんだ。
「きょうだいだん?」と、まばたきするヘニョ。
タデクは、大公の特許状を翻訳しながら、読み上げる。
『依って、我らは我が至高の権威をもって、アールベルク峠の山頂における特定の土地の利用権を、救難院建設のためにハインリヒ、および彼の興す『聖クリストフ兄弟団(Bruderschaft St. Christoph)』に永久に付与し、認可する』
作ってない?
「はい……」
なるほど、泥舟だ。
「あー。だから、ヘニョ殺されかけたんだな」
「そうなの!?」
ピンときたニギ親方の言葉に、ヘニョが驚く。
「書類上にも存在しない組織に土地の利用権やるアホとか大公殿下くらいだよ。ヘニョが死ねば、全部なかったことになったんだわ」
「そうだったんだ」
呆れたが仕方ない。今から作る。
兄弟団には、理念と設立趣意が必要だ。
パン・ヘンリク(ヘンリク様)、なんでもいい。
俺たちがこれから作る山小屋運営チームの理想の姿を決めてくれ。
理屈は俺が作る。
「みんなで仲良く楽しく人を助けて一緒に温まりたい」
即答だった。
「おいヘニョ、もう少しかっこいいこと考えろよ。俺も考えてやるから、まて」
呆れるニギ親方をタデクが制す。
同感だが、その時間が惜しい。
『兄弟たちが平和に暮らすことは、なんと良く、なんと楽しいことか』
旧約聖書の詩編、第133編の第1節だ。
基本理念はこれでいく。
「すぐ出てきた」
「なんかフニャフニャだな」
ひとつ、アールベルク峠の犠牲者をゼロにする。
ふたつ、身分を問わない無料の避難所の維持。
みっつ、国境を越えた善意を繋ぐ救済ネットワークの構築。
これを設立趣意の三柱とする。
「すごくいいと思います!」
「急にちゃんとしてる」
「口がうまい詐欺師タイプだな」
「三つ目がうさんくせえわ」
この兄弟団の信念と信仰を聖クリストフに捧げる。
今からここにいる俺たち全員は、聖クリストフ兄弟団だ。いいな。
団員規約は追って伝える。
「こいつに課される規約がこわいんだが」
役人、覚えたか?
今の書面にしろ。
団員名簿も作れ。
寄進帳もつけろ。
「え!? もう一度お願いします!!!」
なぜか敬語のパベルだった。
Ecce quam bonum et quam iucundum habitare fratres in unum.
(見よ、兄弟たちが一つになって共に暮らすことは、なんと良く、なんと楽しいことか)
「ドイツ語でお願いします!!!」
③礼拝堂のチェック ◆ 坊主どもの境界戦争には触るな
となりの部屋、礼拝堂だよな。
司祭はいるのか?
「おやみなさん、おそろいで。
なんかいいかんじのラテン語が聞こえたんですが」
礼拝堂の内扉を開けて、宿舎に登場する司祭。
「コンスタンツの司教さんです!」
と自慢気なヘニョ。
コンスタンツ……?
委任状を見せろ。
「はじめまして。
その件は本庁と調整中です。
先ほどのラテン語は、あなたが?」
お辞儀をするのんきな司祭。
タデクは目を細めて何かを考えているが、まあいい、保留だ、という。
「何が保留なんですか」
こいつを利用すること。
「司祭さまにこいつよばわりか」
保留の理由は、ふたつ。
ひとつ、シュロッフェンシュタインは破門慣れしている。
「破門慣れ? パワーワード来たな」
「そんな人間いるんですね? しかも貴族」
あいつらは破門常習者だ。
そもそもブリクセン司教座を牽制するためのクール司教座の刺客集団だ。
あいつらはブリクセンの縄張りに領土を持ちながら、平気でブリクセン司教の荘園から不当徴税をしたり、覆面強盗をしまくっている。
コンスタンツの権威も効きにくいだろう。
「初めてきいた」
「何でお前がそんなこと知ってんだ」
「初めて聞きました」
「司祭様は知っておきましょうよ」
「俺たちの敵が無頼者すぎてツラい」
ふたつ、この峠が三つの司教座の境界にあること。
庇護をくれるハプスブルクがブリクセン司教座。
この土地の元所有者で、敵対中のシュロッフェンシュタインのルーツがクール司教座の私設騎士団。
で、この峠のすぐ西がコンスタンツ司教座。
今後、坊主どもの境界戦争に巻き込まれると面倒だ。
ここはさわらない。
よって、ローマ教皇と教会法を盾にした宗教的アジールの主張はできない。
司祭様、あんたの肩入れもできない。残念だ。
「ぜんぜん残念そうじゃねーな」
「心がこもってない」
「セーフって顔してる」
④アジール(仮)の領域確定 ◆ 石を並べて「聖域」と言い張れ
「ただし」
アジールという不可侵の安全領域の概念は俺たちにはあまりにも都合がいい。
せっかく大公殿下に「峠の頂上の土地利用権」をもらってるんだ。
有効に使わせてもらう。
この土地の東の端と西の端に、溝を掘り、その溝に沿って石を並べろ。
その溝を掘、石を壁と言い張って、大公のアジール領域を主張する。
コツは、街道の上を領域と主張しないこと。
そこはまた別のアジールだ。
「そんなんあり?」
「ロバさんが転ばないか心配」
「大公アジールって! 大公殿下が死んで、特許状も死んだから、俺たち困ってるんじゃないのかよ」
⑤新大公との面会約束 ◆ 狙うは「追認待ち」のグレー状態
「そこだ」と、タデクは頷く。
この公文書は腐りかかっている。
だが、新しいハプスブルクの大公に署名をもらえば、法的に復活する。もし拒否されれば、効力を失うがな。
とりあえず、新大公はレオポルト三世の兄のアルブレヒト三世だろう。
弟の訃報を受けて、ウィーンからインスブルックに向かってるはずだ。
インスブルック宮廷に面会を申し込む。面会を申し込める人間は? 地元の人間でいちばん身分が高い人間がいい。
「ヤックライン隊長です!
ヤックライン隊長は、レオポルト三世殿下にぼくをあわせてくれたんです!」
よし。特許状に名前のあるヤックライン・ウーバーリンだな? どこにいる。
「アルレン城です」
俺がこのあと行って書状を書かせる。
さて、面会を申請中となれば、俺たちの状態は、グレー書類を持ってる「追認待ち」の兄弟団だ。
おめでとう。少しだけステータスが上がった。
「やった! これで、シュロッフェンシュタインの人に踏み込まれないんですか?」
合法的に踏み込まれるよ。
「おい」
あとでハプスブルクと喧嘩する意思のある人間だけが、合法にここへ踏み込める。
「その言い方だと大丈夫に聞こえる」
「法律っていうか、政治なんだな」
「逃亡農奴のオレクさんたちは捕まらないんですか」
捕まるよ。
「やっぱりな」
「そういう流れだった」
「ここまでの話ぜんぶ無駄じゃねーか」
ただしあいつらが躊躇する屁理屈はつけられる。
『ヘンリク様は、彼らを隠して使役したのではない。公然と、聖なる公共事業に身を投げ打つ彼らの信仰心に応えたのだ。これは神の御心に沿う出来事で、大公殿下もご公認だ』
「なんだそりゃ。
大公は誰雇ってるとか知らんぞ」
そうだろうな。
だが死人に口なしだ。
「大丈夫か? それ」
「シュロッフェンシュタインに神は効かないんじゃなかったのか」
これは、神のロジックじゃない。
神の権威を利用した、世俗権力者の御用達ロジックさ。
教会の権威を軽んじる俗物には、こういう脅しが効くと見た。
悪知恵を授けよう。
タデクは口の端にわずかに笑みを浮かべて、周りを見渡した。
⑥3つの暗記事項 ◆ 敵を黙らせる『3つの前例』
ここにいる全員に、三つの魔法の言葉を覚えてもらう。
「サンベルナール峠」、「東方植民」、「鉱山労働者」だ。
以上三つが、逃亡農奴を、領主や教会が公然と雇ってきた、わかりやすい有名な前列だ。これ以外にもいくらでもあるがな。
まず、サン・ベルナール峠。
三百年前(11世紀)に作られたアルプスのグラン・サン・ベルナール峠のホスピス(宿坊)だ。ローマ教皇が代替わりするたびに真っ先にここへの加護を更新する。物流で飯食ってるシュロッフェンシュタインに知らないとは言わせない。
つぎに、東方植民。
二百年前(12世紀)から現在に至るまで、神聖ローマ帝国の東部(現在のエルベ川以東、ポーランドやチェコ方面)で繰り返し行われてきた大規模な「森林や沼地の開拓事業」だ。神聖ローマ皇帝の名の下に行われているこの事業を、帝国貴族のはしくれであるシュロッフェンシュタインに知らないとは言わせない。
最後に、鉱山労働者。
現在進行形で貴族どもの懐を潤し、なくてはならない存在さ。
チロルを含めたここらの山岳地帯はあちこちに鉱山がぼこぼこ建ってる、鉱物資源立国連合だ。
チロルで貴族やってるシュロッフェンシュタインに知らないとは言わせない。
この3つの前列をここにいる全員が覚えろ。
何かあったときに、近くにいる人間がすぐに言えるようにするんだ。
「極限の地で巡礼者の命を救うという善行」を行ってきたオレクたち逃亡農奴は、その献身をもって、大公殿下に許されている。世俗の刑罰や元の身分の束縛から目を瞑られるアジール特権を得ている、とな。
大公と同等か、それより上の身分、例えば神聖ローマ皇帝とかが出てこない限り、この屁理屈は使える。
俺ができるのはここまでだ。
行ってくるわ。
そういってタデクは立ち上がって、宿舎を出ていった。




