3-6 マートヴローの笛吹き
川があり、古い水車小屋がある。苔むして黒い水車は、ごっとん……ごっとん……とのどかなリズムで水を跳ねている。
その水車小屋を見下ろすように、土手があり、ニワトコの木が一本生えている。
よく晴れた十月の頭のこの日。
そのニワトコの木の下、木漏れ日の中に座って、笛を吹く男がいる。
男は川と水車小屋を背にして、村の畑を見下ろしながら笛を吹いている。
男が見下ろす畑では今、村人総出で農作業が行われている。
数日ぶりの暖かさを喜んで、小鳥たちが鳴いている。
男の笛は葦でできていて、間が抜けた音色を小鳥たちのさえずりに重ねる。
その向こうでは、農作業の歌が途切れて、どうやら休憩に入ったようだ。
「おい、ろくでなしのフダワ! またサボってやがんのか!」畑から太い声が飛んでくる。
「タデク!」
「タデクもおいでよ!」
「タデクも手伝ってよ~!」
年頃の村の娘が三人集まって、クスクス笑いながら土手を上ってくる。
笛から口を外した男が何かを言う。すると娘の一人は赤くなって、他の娘たちは笑って、男にどんぐりを投げつけて、クスクスと逃げていく。
フダワだのタデクだの呼ばれた男は再び寝そべって、手元の本をめくりながら、農作業の休憩を見ている。
やがてそれにも飽きて、仰向けになり、読んでいた本を顔に伏せる。
ニワトコの木漏れ日が、本の藍色の革表紙と、鶯色の野良着に落ちている。
土手を上る三人の足音に男は気づいていた。
「あの……! こんにちは! た、タデクさん……ですか?」
ヘニョが、おずおずと声をかけた。
タデクは顔に載せた本をずらしもせず、そのままあくびをしながら応じた。
「……なんだい、あんたらは? 悪いが、俺は今、風の向きを解釈するのに忙しいんだよ。帰れよ」
「風の向きぃ……? なんだこいつは。……おいヘニョ、こいつ本当にまともな男か?」
ニギ親方が、眉間に深く皺を寄せて、あどけない瞳に警戒心をいっぱいにためて、ヘニョを心配する。
タデクはそれきり何も言わなくなった。
ヘニョは、タデクの前にとことこと歩み寄ると、その場にぺたんとしゃがみ込んだ。
「タデクさん! ぼくね、アールベルクのてっぺんに、みんなで温まれるちいさな家を建てたんだ。だけど、お城の貴族様たちが、嘘っぱちの書類を作って、ぼくたちの家を壊しにくるんだって」
「……」
「ニギくんがね、教えてくれたんだ。えらい人の汚いやり方を嘘っぱちだって突っぱねられるのは、モントフォールの、本物の法律だけだって。だけどモントフォールのおじさんはぼくたちを助けられないんだ。ぼくが領地を離れた農奴で、大公様の特許状が宙ぶらりんだからだって」
「タデクさんだけが頼みなんだ。だからタデクさん、ぼくたちを助けてよ! ぼくたちの仲間になって、山小屋を守ってよ!」
ヘニョはいつの間にか腕をあげていた。過去一の出来映えの、まっすぐな勧誘だった。
しかし、タデクはそれきり、ピタッと動かなくなった。
本を顔に伏せたまま、死んだように沈黙している。完全に無視を決め込む気だった。本当に帰ってほしそうだった。
「おい、ヘニョ。そいつはダメかもわからんよ。ただの腰抜けの無職に見えるわ。都会の大学の中退というが、何も学べずに逃げ帰ってきたんかもしれんぞ」
ニギ親方は、フンと鼻を鳴らすと、ベンノの服の裾を引っ張った。
「俺たちはあっちの水車小屋でも見てるからよ、気が済んだら来いよ。そんな男に構ってる時間はないと忠告はしておくぞ。次の手を考えておくわ」
ヘニョはタデクの隣に座ってじっとしていた。
ポルコがたまに寂しくなったときに、こうやってやると、安心してくれるのを思い出していた。
ヘニョは初対面のタデクのことを、なんだか動物のように思っていた。
その木陰は気持ちがよかった。
タデクがなぜそこにいるのかわかる気がした。
言い足りない分だけ少しずつ、ヘニョは自分のことを話し始めた。ヤックライン隊長のこと、レオポルト三世のこと、ハムたちのこと。ヤンくんのこと、パベルさんのこと、みんなのこと……そして、ヘニョの左手に、紋章が宿った日のこと。
しばらくして。タデクは寝転んだまま、本を少し上げ、隙間からヘニョの左手の紋章を盗み見て、再び本を下ろした。ヘニョはそのことに気づいていたが、じっとしていた。
何も言わないで、村の人たちが畑の土おこしをしていくのを見ていた。
どれくらいたっただろう。
タデクはとつぜん右手を伸ばし、ヘニョの方へ指をまっすぐ伸ばした。
「ん」
「ん?」
ヘニョは、なんだろう、と思った。
タデクは今度は、右手の平を上に向けて広げた。
「ん」
ヘニョは、(こうかな…?)と思って、立ち上がり、背負った革筒のケースから特許状を取り出し、タデクに渡す。
タデクは寝転がったまま、左手で顔から本を少し持ち上げ、受け取った羊皮紙を読む。
これであってたみたい、とヘニョは思った。
タデクは本をまた顔に伏せ、ヘニョに特許状を返した。
それで終わりなのかと思うくらい時間が経った。
特許状をゆっくりしまって、ヘニョがまた座ろうとしたとき。
タデクは、起き上がって座り、そしてヘニョを見た。
少し首をかしげてヘニョを見上げる、その仕草。羊の毛のように広がって風に吹かれている金茶色の髪の毛。ヘニョはなんだか、アルレン城の鶏を食べに来るお山の狐を思い出した。
「条件がふたつある」
タデクは言った。
「ひとつ、俺には絶対服従」
「ぜったいふくじゅう……」
「ふたつ、お前さんが持っている『純粋さと平凡さ』を代償として差し出すこと」
「じゅんすいさと……へいぼんさ……??」
「いいか、お前がこれを呑むなら、この世界の理不尽すべてに『ヴェト(私は禁じる)』と言う権利をやるよ。ただし、その代償は俺がもらうがな」
ヘニョは自信満々に頷いた。もちろん『ヴェト』という言葉はわからない。「代償」も怪しい。だけどヘニョは嬉しかった。
「よくわからないけど、ぼく、飲むよ! だから仲間になってよ、タデクさん!」
目の前のこの変わり者の男が、少し心を開いてくれたのが嬉しかった。
タデクは表情を変えずに立ち上がり、本を懐に納め、帯に笛を差した。そして少し背伸びして、いつの間にか手にしていた小刀で、ニワトコの枝を一本切り取った。
タデクはそこに立ったまま、小刀でその枝の葉を適当に落としながら、
「モシチ・パニェ(旦那さま)、お前さんは運がいい。このフダワ(下手な笛吹き)が、お前のために古いパクタ(契約書)を書き換えてやるというのだからな」
と言い終わる前に、小刀をどこかにしまっていた。
「もしち……ぱにぇ?」
わからない単語が一度に3つも出てきて混乱するヘニョに何かを囁いて、タデクは土手を降りる。
水車小屋に夢中のニギやベンノを一瞥もせずに、タデクは村を出ていく。
◯
フダワのタデクが、去り際にヘニョの耳元へ残していった言葉。
「……お前、自分が何を選んだか分かってるか? 」
吐き捨てるようなその言い方に驚いて、ヘニョはしばらく動けなかった。
(第3章・中編 / 完。後編に続く!)




