3-5 魂の盗人
五つの谷の王ブルーデンツ。扇の要のような小さな盆地を取り囲む、堅牢な石の壁。その壁を二列に渡って、木の矢狭間が一周している。
九月末の冷たいみぞれが、山の底の城塞都市を白くけぶらせている。
門でニギ親方が名乗り、ステューベンの管理人ヨッホと、ブルーデンツのロットメンネルの頭ローレンツの名前を出すと、門番のひとりが前に出て、全身ずぶ濡れのヘニョたちを城に案内した。
斜面に作られた石造りの市街地を歩いていくとき、案内の兵士は、なるべくヘニョたちが濡れないように、屋根のあるアーケードの道を選んでいた。そのために、道がたびたび曲がるので、北の斜面から張り出した台地が見えたり見えなくなったりした。その台地の上に立っている、縦長の四角い建物がお城で、そのとなりの天を突き刺す尖塔の建物が聖ラウレンティウス教会だと兵士は教えてくれた。
謁見の間は、四角い石の部屋だったが、壁にはタペストリーがかけられ、床には絨毯が敷かれ、そのどちらも燕脂色の地に、金色で植物模様が織り込まれており、金色の縁飾りや房飾りがついていた。ヘニョとニギとベンノのそばには、足つきの背の高い火鉢が二つ置かれ、立ったままではあるが、湯気の立つ茶が出された。
茶は青緑色で、花の薫りがした。
ヘニョは、飲み終わった器を、差し出された銀の盆に返すと、革の筒に入れていた『大公の特許状』を差し出したが、当主エッカルト・ヴェンデルベルクはそれを一読すると静かに首を横に振った。
「残念だが、この書類はいま、有効でも無効でもない。次の大公の意向次第だ。そして、君の身分はシュロッフェンシュタインの逃亡農奴だ。法の権門たるモントフォールに連なるヴェンデルベルク家としては、法の名のもとに、君たちを公然と匿うことはできん。だが――」
エッカルト伯は、ヘニョの瞳を見つめ、小さな木製の募金箱を一瞥し、その老いた瞳に深い哀しみを宿した。
「あのレオポルト三世が、アールベルク峠の救護院を気に入っていたというのは本当のようだな。それに、我が領内の荷運び人、ロットメンネルどもも言っていたよ。『農奴の子供が作ってるあの、ハプスブルクの新しい家は、ちゃんとした、リュフムだ』とな」
「りゅふゅむ……」
エッカルト伯は、さよう、とヘニョに頷いた。
そして、ニギ親方に目配せをしながら続けた。
「ヴァルザー人の誇り高い言葉だよ。
過酷な大自然から力ずくで切り取った、人間の生存可能な小さな空間のことだ。
私の好きな言葉だ」
エッカルト伯は特許状をヘニョに返し、ヘニョは破れないようにゆっくりそれを丸めて、革の筒に入れた。
「大公殿下がツェンパハで崩じられたのは、我がことのように惜しい。私はこの追悼の気持ちをなんとか表現したい」
エッカルト伯は、静かな足取りで窓辺に歩み寄った。
窓の外では、雪へと変わりそうな白いみぞれが激しく降っており、その白霞の向こうに、隣に立つ教会の鐘楼と、ブルーデンツの灰色の街並みが見えた。
「あの戦場にはな、客人。我がヴェンデルベルクの一族の若い息子たちや、このブルーデンツが誇る一世の重装騎士団のすべてを、ハプスブルクの旗のもとに出陣させたのだ。……だが、彼らは誰一人として帰ってはこなかった。ぎらつく甲冑をまとった誇り高き若者どもは、……大公殿下とともに、行ってしまった」
老伯爵の背中は、窓外の冷たいみぞれの白さに打たれて、酷く小さく見えた。
ちょうど日の入りの時刻で、時を知らせる鐘の音が、ごーん、ごーんと二回鳴った。
目の前で鳴る大きな鐘の音は迫力があり、ヘニョは鼓膜がビーンと震えるのを感じ、自分のお腹が響いているのに驚いた。重厚でどこか慈悲深い音色が、謁見の間を満たして痺れさせ、その気配がいつまでも残っているような気がした。
「協力はできぬ、しかし見逃そう。山に共に生きる兄弟よ。君たちの行く手に主の光のあらんことを。……ところで、お客人。街の下門の近くにある『紫の焼き網亭』へは行かれましたかな? 旅の疲れを癒やすには、なかなか面白い、……いささか『趣向を凝らした』店です。よかったらお立ち寄りなさい」
◯
ブルーデンツの下門の近くにある黒く煤けた酒場『紫の焼き網亭』――その名は、ブルーデンツの守護聖人ラウレンティウスからきている。
聖ラウレンティウスは、ローマ皇帝から「命が惜しくば、教会の隠し財産をすべて差し出せ」と脅された際、三日間の猶予をもらった。その間に金銀財宝をすべて貧しい人々に配り尽くし、三日目に街中の孤児、未亡人、老人、病人をずらりと集めて総督の前に連れて行き、「これらの方々こそが、わたくしどもの不滅の『教会の財産』でございます」と言い放った。
怒った総督は、ラウレンティウスに残酷な刑罰を与えた。生きたまま鉄格子の焼き網の上で炭火で全身を焼かれながらも「こちら側は十分に焼けた。さあ、ひっくり返して食うがよい!(Assatus est jam, versa et manduca)」と言い放ち、理不尽な刑罰を嘲笑ったとされる。
それにちなんでこの店では、熱した焼き網の上で焼いた肉が出るのだが、その煙がどうやら、暖房と舞台演出に使われているようだった。
そのホールの奥にある、年季の入った、しかしよく磨かれた舞台の真ん中で、これ以上ないほど軽薄で、調子に乗ったリュートの音が、ペケペン、ペン、と鳴り響いていた。
「『楽しき時は過ぎ去り、我が心は、アプトリュニヒ( abtrünnig / 迷い乱れる)……。だが神に背を向け、風の吹くまま、マートヴローの村へ行けば、ただ気まぐれに折って削った、粗末な葦の笛の音が聞こえる……』」
先ほどから、派手な緑の羽飾りがついた帽子を斜めに被った、一人の奇妙な若い男が、スモークを焚かれ、照明を当てられながら、同じ一節を繰り返しているのだが、ヘニョたちに全く気づかれていない。
数日間、携帯食でしのいでいた食べ盛りの男たちに、焼き肉を与えたら、どうなるか。吟遊詩人の歌など耳に入らなくて当然である。
「おい、てめえ! さっきから同じ歌ばかり歌ってんじゃねえわ! プロならしっかりやれよ!」
運悪く同席した客から、ごもっともな叱責を受ける、仕込みの音楽家。
彼は、頭に片手を当てて、もう一方の手を顔の前に立て、すみません……、みたいな顔を作ったあと、リュートを抱えて立ち上がり、ヘニョたちのテーブル席にやってきた。
「やあお客さん。私の名前はヒューゴー。見ての通りのしがないミンネジンガー(宮廷楽師)さ……」
ヒューゴーはリュートの首をトントンと叩き、ニギ親方が焼いてくれる肉が焼けるのをじっと見ているヘニョの左手の紋章を盗み見た。
「――見たところお困りのようだけど、人をお探しかい?」
「……?」
ヘニョが、肉の官能によって本来の目的を忘れ、なんのことですか? みたいな顔をしていると、ヒューゴーは焦って笑いながら、いま歌ったばかりの詩の一節を口ずさんだ。
無反応にも負けずに、仕込みの台詞を言う。
「そうさ。都会の法学部を『中退』して、ふらふらしている無職の男がいるって噂だよ。……マートヴロー村にね。他にあてがないのなら行ってみるといい。最悪に変な男だけどね」
(このおじさんより変なおじさんなのかな……)
ヘニョは心配に思いながら、口にいれてもらった肉をもぐもぐした。




