3-3 高台の止まり木
鷹が一羽飛んでいる。
イン川を越え、ランデックの上空を越えて、北の渓谷にいたり、緩やかに旋回し、シュロッフェンシュタイン城のテラス、そこへ立つスサナ夫人の左手の手袋の上へ着地した。
「それではヤン・チャペックは暗殺を成功して逃走。ヘンリクに不思議な紋章が宿り、傷を癒したと。報告はそれだけですか? 逃亡農奴はどうしたのです」
スサナ夫人は背後にかしこまるパベルに、背を向けたまま問いかける。
「はっ。それは……」
やはりそこを突いてくるか。
パベルは、うーんどうしようと、この期に及んで迷っていたが、結局えいっと、ニギ親方に言われたことを、そのまま使うことにした。
「鍬の溶接跡が、分厚くて粗悪で、土の性質と職人の癖から、ウンターインタール地方のもので、しかし、かの地方は相次ぐ、戦乱によって、人別帳が燃やされて、特定ができず、いまだ領主不明のまま……」
スサナ夫人は、黒絹の長い袖のついた、ドレスの右手を持ち上げ、細い指の背で鷹の喉を撫でながら振り返る。
「おかしなことを言うのね? でもいいわ。その鍬の溶接跡は使えます。領主不明? それはよかった。あとはこちらでやりますね」
スサナ夫人は微笑んで、再び左腕を伸ばし、鷹を大空へ飛び立たせた。
◯
「た、大変だぁあーーー!!! おしまいだ! 私の、いや、君たちの死亡回避ルートが完全に消滅したっっ!!」
ランデックの街のボロ酒場『漏れ鍋亭』の扉を、顔面を真っ青にさせたパベルが激しく蹴り開けて飛び込んできた。
黒革のマル秘帳簿で自分のおでこをバンバン叩きながら、泣きそうな顔で絶叫する。
「スサナ様が動き出した! 恐らく、偽の領主をでっち上げて、アニャたちを捕まえにくるつもりだ! もう、おしまいだ!!!」
「あ? なんだよおっさん、やっぱり偽装がバレたのかよ。だから言ったろ」
旅支度を整えていた13歳のニギ親方が、パニックを起こすベテラン役人をあどけない瞳で見下しながら見上げる。
「おっさん、何て言い訳したんだよ?」
「そ、それは……お前さんが前言ってた……」
「ウンターインタールの? あれほぼ嘘だぜ」
「なっ!? ぬ、嘘……っ!?」
パベルは黒革の帳簿を取り落とし、文字通り白目を剥いた。
「なんも考えてねーなら、素直に言やあ一緒に考えてやったのにさあ」
完全に大人を子供扱いして哀れみの目を向ける13歳。
「ま、まてい! あれが嘘なら、その事実を伝えればっ! 真の領主を恐れて、でっちあげは凍結に――!」
「そうかもな、だが代わりにおっさんが断頭台直行だ」
(たしかに……!!)
パベルの脳内で、スサナ夫人が楽しそうに微笑む未来の計算書が、一瞬で書き上げられた。
「……仕方ねえな。お貴族様の身内同士ででっち上げた汚い紙切れを、真っ向から嘘っぱちだって突っぱねられる人間なんてな、このチロルには一人もいねえよ」
「そ、そんな……! じゃあ、本当に私たちは縛り首に――」
「だから、西へ走るぞ。 アールベルクの西の麓を治めるモントフォール伯領だ」
◯
「だから、西へ走るぞ。 アールベルクの西の麓を治めるモントフォール伯領だ」
ニギ親方は、胸の前でドンと短い腕を組んだ。
「あの一族はな、代々法律で飯食ってるし、血筋もいいんだわ。 つまり、書類と理屈のプロで、帝国貴族に睨みが効く。そのうえ、気性の荒いヴァルザー人も喜んで従ってる名君だ。
俺の顔も効くし、知恵か人か貸してくれるように頼んでみようぜ。 ほらヘニョ、脱出するぞ! 特許状は持ってるか?」
「山小屋に飾ってあるよ」
ヘニョが答えると、ニギは「じゃあ、急いだ方がいいな」と、椅子から立ち上がり、床においていた旅袋の口を開けて、テーブルの上に置いた。
そのあまりの迷いのなさとスピード感に、パベルは待て待て待てと、小さな体の前に立ち塞がった。
「ま、待ちなさい! 落ち着きなさい子供たち! 脱出と言いますがね、肝心のリーダーは農奴の身分なんですよ!? 領地を勝手に離れた農奴が他国へ逃げ込むなど、それこそ公然たる国家犯罪ですっ!」
「そんなこと言ってる場合かよ!」
ニギはパベルの腹を小さな拳でテイっと突く。
「お上がでっち上げた書類で縛り首になるのと、勝手に国境を越えて書類のプロに縋るの、どっちが『死亡回避』できるか算盤を弾いてみろっておっさん!」
「うっ、それは……。いや、しかし、君たちまでなんでいく気満々なのですか。建築ギルドの仕事はどうしたのです」
「やめてきた。な?」
「はい」
大男ベンノが頷きながら、きれいに畳み終えたシャツとベストをニギ親方の旅袋へ入れる。
ヘニョはベンノの丁寧な手つきを尊敬の眼差しで追いかけている。
「……えー……」
一体、この数時間の間に何があったのだ。
パベルは激しい目眩を感じ、ボロ酒場の壁にそっと手をついた。有能なはずの自分の計算能力が、このはみ出し者たちの圧倒的な突進力を前にして、一スペックも追いついていかなかった。
◯
ランデックの街を脱出し、夜通し険しい山道を歩き続けた一行は、夜明けのアルレン城で短い休憩をとることにした。
「も、もう一歩も……半ツォル(約1.2cm)も歩けま、せん……」と目を回してバウホーフ(城営農園)の放牧地にぶっ倒れたベテラン役人パベルは、完全に起床不可の泥のようになって爆睡していた。中年の体には色々と無理がありすぎた。
みんなで豚小屋で寝ようと思ってたのになあ、とヘニョは残念に思いながら、パベルの隣にそっと腰を降ろす。
夜露に濡れた地面がヘニョのおしりを冷たく濡らした。
ベンノもその隣に座り、うとうとしているニギ親方をあぐらの上に座らせて風から守り、自分も目を閉じた。
ヘニョが寒くて眠れないでいると、やがて、豚小屋から、ハム、ピンク、ブッダ、ベーコン、ポルコの五匹が、やってきて、ヘニョの周りで、食べ物を探しながら、ぶひぶひと何かを言い始めた。
一匹一匹を撫でていると、ヘニョは色々なことを思い出した。
最初にはじめて旅に出たときも、こんな夜明けの時だったなぁ。
ヘニョはあの時のブッダみたいに、紫色から金色に変わる空を見上げた。
一年前なのに、とても昔に感じられた。
あの頃は大公さまが生きていたけど、今はもういない。そして峠の上には山小屋が立っている。ヘニョは二度死にかけて、そして助けられた。左手には不思議な紋章が描かれている。
色々なことが不思議だった。
ハムがあのとき、ボンレスの運命に抗おうとしなければ、全てのことが起こってないように感じる。
背中を撫でられているハムが、「呼んだ?」とでもいうように、こっちを見たので、なんでもないよ、と耳を撫でてやった。
手袋を外して、紋章を見つめた。雪の結晶に絡まる植物紋様。その植物はヤドリギだとマチェイさんは言った。
手首の血管のような青緑色の細い線は、アガタが描いてくれた赤土の線とちがって、洗っても、こすっても、欠けないし、滲まない。
ヘニョの手に描かれたばかりのとき明滅していたらしいけれど、眠っていたヘニョは一度も光るのを見ていない。
ヤンくんのナイフの傷跡は右脇腹に残らなかった。その代わりにこのきれいな模様があるのだと思った。
だからこの紋章を見ていると、あの日の脇腹の痛みや、ヤンくんの心の痛みを、感じるような気がした。
色々なことが変わっていった。
でも変わらないこともある。
ハムたち、スタシャ、マチェイさん、ヤックライン隊長。
ヘニョは、あの旅立ちの日を思い出し、懐かしい豚たちのぬくもりに包まれながら、夜明けのシュタンツァタール谷をきれいだと思いながら、つかの間の眠りに落ちてゆく。
「おい、なぜそんなところで寝ている……」
その朝アルレン城城代ヤックライン・ユーバーリンは、バウホーフ(城営農園)の放牧地のまんなかで、五匹の豚に埋もれて眠っているヘニョを発見した。
ヘニョは寝ぼけながら、すぐさま反応した。
「たいちょう……! モントフォールはくりょうに……いってきます……」
(ヘニョ……、おまえはいつもそうだな)
ヤックラインは聞かなかったことにした。
(第3章・前編 / 完。中編に続く!)




