3-2 祈る者の金貨
アルレン城で豚たちをヤックラインに託し、漏れ鍋亭で落ち合うことを約束してパベルを送り出したヘニョ一行は現在、ベンノの背丈すら雄に越えるその立派なオーク材の扉の前に立っていた。
ランデックの職人の元締めであり、四百年の歴史を誇る『建築ギルド』の重厚な大扉。
ニギ親方は腕を組み、久しぶりの古巣の威容を下から上まで存分に眺めている。
難易度鬼級の初現場である『アールベルク峠の救護院設立事業』を、予算内かつ予定工期内で完璧に成し遂げた誇りを胸に、これ以上ないほどの生意気な顔でその扉をバンッ!と押し開けた。
小さな肩をいからせて乗り込むその後ろからは、大男ベンノが静かに、まぬけ顔のヘニョがトコトコとついてくる。
ニギ親方の頭の中には、この実績を引っ提げて、次にやりたいイン川の大橋改修や大時計塔や、その他色々の計画書が山ほど詰まっていた。
しかし、ギルドの喧騒のなかに一歩足を踏み入れた瞬間、十三歳の天才を待っていたのは、大人の冷酷な裏切りだった。
「――わりいな、ニギ。お前がやりたいって言ってた仕事な、もう全部決まって、着工しちまったわ」
親方の言葉に、ニギはその場で凍りついた。
ニギのやりたかった大仕事は全て、ニギが企画した仕事だった。親方以外には言っておらず、兄弟子にも知らせていない。それがなぜか全て兄弟子たちに割り振られており、それどころか、ニギが命を削って引いた図面の数々、もちろん新しい工法の図面すらも、ギルドの身内によってすべて盗まれ、勝手に名前を書き換えられて使われていた。
「親方。これはどういうことなのか、さすがに説明してくれよ。初現場を完璧に成し遂げたなら、俺にやらせてくれるって、約束だったじゃねえかよ」
山ほどの言いたいことはとりあえず置いておいた。事態を明らかにするために必要な質問だけをしたこの「物の言い方」が、この時点でのニギ親方ができる最大限の譲歩だった。
関係修復を見据えた大人のふるまいだった。しかしニギ親方が知らなかったのは、大人の武器というものは、理知的で平和的な交渉だけではないということだった。
「若いな、ニギ。これに懲りたら、命より大事な図面は、肌身離さず持っておくこったな」
親方の突き放すような言い方に、クスクスと周囲の職人たちから忍び笑いが漏れる。聡いニギは、なにが起こったか、それで全てわかってしまった。
ニギ親方は真っ赤になって怒りと悔しさに震え、両手を固く握りしめた。
ステファンの作った糸車でブリギッテが編み、ハムたちのぬくもりが詰まったあの薄茶色のベストが、怒りの呼吸に合わせて小さく上下に震えている。
今すぐ落成報告書を破り捨てて、啖呵を切って睨み付け、近くの机を蹴り倒したいような衝動が小さな13歳を襲う。
しかし、この13歳の偉いところは、奥歯をガチッと噛み締め、その理不尽への怒りを、ぐっと乱暴に押さえつけ、息を潜めてじっと我慢したことだ。
なぜなら、ここでギルド職員に殴りかかり、あるいは罵って大揉めしたならば、後ろに控えているベンノの口利きが完全に消えてしまうからだ。
ベンノはニギ親方自らスカウトし、アールベルクの現場のあとの職を保証して連れてきた人足だった。
荷物積み替えギルドに理不尽に脅されながらも、ベンノは13歳のちびの子供のニギの言うことを信用し、それまでの生活を捨てて、ついてきてくれたのだった。
ここで、ベンノの生活を省みずに、自分の道を通せば、親方の道が立たない。
これが現実ならば、厳しくても、受け入れるまでだ。ニギは、怒りを飲み下し、再びギルドの大人たちに頭を下げて、建築ギルドに入り、再起をはかろうと、腹を決めた。
ところが、人の心は読めても空気は読めない日当1ペニヒの豚飼いヘニョは、社会経験の少なさが仇となって要らんことをした。
ニギ親方の健気で痛々しい後ろ姿に、居ても立ってもいられなくなったヘニョは、出番だ、と思い、一歩前に歩み出て、訴えた。
「ニギくんはすごい仕事をしたんだよ! 峠のてっぺんに、誰も見たことのない、すっごくかっこいい家を建てたんだ! はじめちゃったのは仕方ないから、兄弟子さんたちと、今すぐ親方を交代したらいいんじゃないですか!? ニギくんの方がすごいと思いますよ」
すごく雑な称賛だった。ニギ親方の類い稀な能力である、人材登用や進行管理への積極性と的確さ、リスクマネジメントに対する適切なリソースの割き方への評価はゼロだった。これが杜撰な計画を真骨頂とするこの少年の限界だった。その上、消えかけていた火に油を注いだ。連れてこない方が百倍マシだった。
「ハッ、じゃあ言ってやるよ、豚飼いのガキ」
ギルドの幹部が、好機とばかりに目を光らせ、これ以上ないほど傲慢にヘニョとニギを見下した。
「俺らランデックの建築ギルドはな、四百年の歴史があるんだよ。この街のすべての建物を俺らが建ててきたんだわ。その上千年以上前、古代ローマ帝国がここに街を開いた時に、最初の石を切った職人の血が、今も俺らに流れてんのよ。誰が山の貧乏猿のヴァルザー人のガキの下で、ヴァルザー人の工法なんかで働きたがる。田舎もんのガキの独りよがりの図面なんか、ウチのギルドの格に合わねえんだわ」
ヘニョはカッと頭に血が上り、叫んだ。
「ならば図面を返してください!」
しかし、幹部たちは「ハッ、なんのことだか」と鼻で笑うだけで、全く相手にされない。
返してください! 図面を返してください! 返せ! 返せよ! ニギくんの図面を返せ! 今すぐ返せ! 返せよ! ニギくんの大時計を返せよ!
汚い大人のやり方に必死の思いで耐えることができたニギ親方。しかしアホバカなお子さまヘニョの周りの目を気にしない幼稚な返せコールに、自分の中で厳重に封印していた子供の部分が呼び起こされそうになる。
十三歳の本物の天才が、大人の残酷な侮辱の前に、自分の無力さに打ちのめされている。ついに――我慢しきれず、顔をくしゃりと歪めて、顔を伏せてしまう。絶望の涙が今にも落ちてしまいそうな、その時だった。
後ろに控えていた大男のベンノが、静かに、一歩踏み出した。
ベンノは何も言わず、その丸太のような太い腕で、ニギ親方の小さな体を、ひょいっと担ぎ上げて、自分の右肩に座らせた。
そして、ギルドの親方と幹部たちを真上から、見下ろした。
「――俺は、ここでは、働かない」
冷たく低い声が、ギルド幹部たちの鼓膜を震わせた。
「ニギ親方もだ。俺たちの親方をナメるな」
ベンノはニギ親方の手から落成報告書を引き取ると、近くの机にそっと置いた。
そしてまだやってるヘニョと、どこか呆然としている職人たちを置き去りにして、ニギ親方を右肩に乗せたまま、優しくギルドの重厚な扉を開き、静かに歩み去っていった。
◯
気がつくと一人残されていたヘニョが、あれ? と辺りを見回す。
「ニギ、すまねえな。何でか、こうなっちまったんだわ。聖クリストフはよっぽどおまえがほしいらしい」
建築ギルドの親方は、ギルドの重厚な扉を見ながら言った。
それからヘニョを見て、手袋をしているヘニョの左手をちらと見て、もう一度ヘニョをみた。
あいつに言うなよ、そういってギルダー金貨三枚をヘニョの左手に握らせた。
「俺の代わりにさ。いつかあいつにすげえもん建てさせてやってくれよ、大将」




