3-1 聖ミカエルの決済日
礼拝堂の内部は、ひんやりとした暗がりに包まれていた。
南面の天井近くに穿たれた、四角く小さな明かり取りの小窓。そこから黄色の光が一筋、斜めに差し込み、細い矢のように堂内の暗闇を切り分けている。
太陽の光は床に届かない。床板すら敷かれていない剥き出しの石畳。それを照らしているのは、石畳の上に置かれた小さな皿の、その上に置かれた、背の低い蝋燭。
蝋燭の隣には、東の石壁に立て掛けるように、一本の小さな木彫りの聖像が置かれている。小さく揺れる蝋燭の灯火が、その陰影をかろうじて捉えていた。
『セラ・デラ・ヴェラ』の礼拝堂。
今はただの小部屋であるそこには、一筋の光と、一本の蝋燭と、小さな木彫りの聖像、そして静かな祈りの息遣いだけがあった。
静寂は、突然に破られた。
ギィ……、と重々しい音を立てて、木製の外扉が押し開けられた。
次の瞬間、薄暗い堂内へ、眩い秋の太陽の光が、ドッとなだれ込んでくる。
こもっていた甘い密蝋の香りは、かき回されて霧散し、代わりに外扉の向こうから、乾いた草の匂いとアールベルクの北風が吹き込んでくる。
密色の光の洪水の中に立っていたのは、革袋を肩に担いだ小さな影。
入り口に立つその人間の影が、長く伸びて、床に置かれた蝋燭に迫る。
「――ここにいたか、行くぞ」
十三歳の天才棟梁・ニギ親方が、生意気にそう言い放つ。
呼びかけられた大男――ベンノは、無言のまま、ゆっくりと目をあけた。
◯
礼拝堂の外。秋の寂しさが漂うガランとした作業場では、車大工のステファンが、酒の入った水筒をあおっていた。ここ数日は色々な場所に座って山小屋を肴に飲んでいたのだが、今日は、現場に転がっている一本のカラマツに添い寝して、丸太の木肌を眺めていた。
ステファンは水筒に口をつけ、その丸太を見透かすように睨み付けながら、遠い夏の日の昼下がりのことを思い出していた。
◯
山小屋の石壁が半ばほどまで組み上がったある夏の日。春から合流した人足のベンノは、ステファンがカラマツ相手に、豪快に手斧を叩き、鮮やかにノミを打ちつける手元を、まるで子供のような瞳でじっと見つめていた。
『あ? なんだよベンノ、お前、こういう細かい仕事に興味あんのか?』
酒臭い息を吐きながら、ステファンは「じゃあやってみろ」と、自分の使い古したノミを不器用そうな巨漢に無造作に握らせてみた。
予想した通り、大男の太い指では、削る速度も遅く、お世辞にも上手いとは言えない。何度も失敗しては、木片をただの薪の山に変えていた。
しかし、続けてみろ、という教えに従い、与えられたカラマツの端材をトントンと削り続けるうちに、ベンノが彫り出すものは木像に定まり、不思議な「味」が宿るようになった。ベンノの心の優しさが、木肌の凹凸にそのまま命となって染み出しているかのような、温かい造形が生まれるようになっていった。
◯
ヘニョの左手にあの『紋章』が厳かに宿った、翌日のことだ。
ステファンはベンノが持ってきた木像を、初めて、焚き火にくべなかった。
『これは燃やせねえわ。……おいベンノ。お前、「聖クリストフ」彫ってみろ』
そういって、木像を返しながら、作業場に横たえられている立派なカラマツの丸太を酒瓶で指し示した。
しかし、その時、実直な大男は本当に申し訳なさそうに、小さく頭を下げたのだった。
『……ありがとうございます、ステファンさん。ですが、俺、このアジールの現場が終わったら、ニギ親方に口を利いてもらった建築ギルドの、次の仕事に行かなければなりませんので……。そっちの作業員としての現場が詰まってますので、聖像は、彫りきれないかもしれません』
『あ? なんだよ、あいつにすっかり惚れ込んでやがんな。真面目だねえ、お前も』
ステファンは、面白くねえなあ、と思いながらも、がんばれよ、とベンノの背中を叩きかけ、思い直してそれをやめ、
『じゃあその聖像、置いてけや』
と、ベンノの小さな木彫りの像を求めたのだった。
◯
仕方ねえな。と、ステファンは、カラマツと向き合って、彫り上げる像を結ぼうとしているのだが、ベンノの木彫りを気に入っているステファンとしては、どうも自分の仕事ではない気がしてならない。
「酒の神様なら、俺の仕事なんだけどな」
そう独り言を言って、水筒の蓋を締め、仰向けに寝転がって、秋の空に浮かぶ鱗雲を見上げた。それから少し起きあがって、丸太の影から、ニギ親方とベンノを見送っているオレクたちの、遠い背中を盗み見た。
◯
「オレク、コバ、ヤネク、おめえら、やるじゃねえか。おまえらのおかげでよ、聖ミカエル(上半期の期末)に間に合ったんだわ」
片付けを切り上げて見送りにきたオレク一族を前にして、ふんぞり返ったニギ親方が、小さな人差し指を突きつけた。
「俺はこれからランデックの『建築ギルド』に戻って、このアジールの完璧な落成書類を提出してくる! 初現場を予算内でこれだけきっちりこなしたんだ、ギルドのアホ幹部どもも、さすがに俺に次の国家予算クラスの大仕事を任せるしかねえんだわ!
ベンノも次の現場で大活躍するだろうしよ! そしたらお前ら逃亡農奴の次の職も、俺たちが新しい現場でガツンと確保してやるからよ。それまでせいぜい、この山小屋の便所掃除でもして待ってろよな!」
生意気極まるお別れの言葉だった。しかし、そのあどけない瞳には、共に過酷な山の生活と寸刻みの工期を乗り越えた現場の仲間への、彼なりの誇りと親しみが満ちあふれていた。
オレクやコバ、ヤネクたちは、ニギ親方のその頼もしい小さな仁王立ちを見下ろし、
「親方、ありがとう」「気をつけてな、ちび親方!」
と、繰り返し繰り返し、言葉を送った。
ニギ親方は前髪をハッと吹き上げ、フンと鼻を鳴らしてドヤ顔をキープしている。ベンノもまた、これからはじまる次の仕事への期待と、数ヵ月の感謝を胸に、力強い眼差しでオレクたちに応えていた。
「おい、ヘニョ! ぼさっとすんじゃねえわ! お前もついて来るんだよ!」
「えっ! ぼくも行くの?」
ヘニョが驚いて目を丸くする。足元では、ハーネスをつけてもらっているベーコンが、お利口に片足を上げていた。
「あたりめえだわ! てめえは施主のくせに、文字が書けねえじゃねえか! お前の口から、ギルドの幹部どもに、『ニギ親方の仕事は最高だった!』って直接言ってもらわねーと、俺の立つ瀬がねえんだよ! ほら、さっさと準備しろ!」
「はーい!」
ヘニョは元気に返事をし、ハムたちの特製ハーネスを締め直した。
アールベルク峠で仕事を終えた豚たちは、これから始まる過酷な冬を前に、食い貯めと冬のサバイバルに向けて、活動場所の標高を下げ、アルレン城のバウホーフ(城営農場)に住まいを移す。豚たちを送り届けるついでに、豚そりも持っていってしまおうと言うわけで、ヘニョはさっきからその準備をしていたのだった。
「パベルさん、行くよー!」
準備の終わったヘニョが山小屋の宿舎に向かって叫ぶと、建物の奥から「ええっ!? もう行くんですか!?」と、ひっくり返った声が響いた。
バタバタとけたたましい足音を立てて飛び出してきたベテラン役人のパベルは、役人制服のボタンも掛け違えたまま、補修材で穴を埋めた黒革の帳簿を抱えて顔面を真っ青にさせている。
パベルはスサナ夫人への報告があるので、ヘニョと一緒に峠を降りる約束をしていたのだ。
いつの間にかアジールに居着いていた若い司祭が、ペタペタと歩み寄ってきて、ヘニョたちに用件を述べた。
「おでかけですか? お気をつけて。蝋燭と香油が足りないので、よろしくお願いします」
◯
ガシャガシャ、ガシャガシャと、特製豚ソリ(シュリッテン)が心地よい音を立てて、秋の山道を滑っていく。
去年より一回りも体の大きくなった5匹は、知力も成長してると見えて、そりが絡まないように縦一列で行進していた。
前方に異変があれば、先頭のハムが鋭く鳴いて、ヘアピンカーブに差し掛かれば、ピンクやベーコンが前のそりの引っかかりを、鼻先や前足で直してやる。ぬかるみで滑落しそうになるそりがあれば、ブッダがそっとお尻で押し戻し、全体の速度を微調整していく。
ヘニョはたすきを揺らしながらトコトコと歩き、しんがりを務めるポルコのそりがガレ場で小さく跳ねた瞬間、自然な動作で手を添え、その傾きを真っ直ぐにしてやった。
「ポルコ、疲れたろ。もうすぐお城(農場)だからね」
「ブフッ」と、ポルコが鼻を鳴らす。
その完璧な「豚の物流インフラ」にもすっかり慣れて見向きもしないパベルは、携帯用の算盤をでたらめに弾きながら、お化けでも見たかのようにブツブツと呻いていた。
(どうする……どうすればいいんだ……! 完璧なアジールは落成し、ヤンの暗殺プランも大爆死。これをそのままスサナ様に報告したら、私はどうひっくり返っても『死亡回避』できないじゃないか! くそ、聖ミカエル(上半期の期末〆切)が憎い……! 予算書が憎い……!)
「……おい、おっさん」
後ろから歩いてきたニギ親方が、あどけない瞳でパベルの顔を覗きこんだ。
「どうせ、なんて報告すればいいんだー、とか脳内でオロオロ白目むいてんだろ。顔に全部書いてあるぞ」
「なっ!? か、書いてません! そんな事、これっぽっちも思ってませんから!!」
パベルは図星を刺されながらも、プロの役人のプライドだけで13歳に怒鳴り返した。
「有能なるこの私の頭脳にかかれば、主家を120%納得させる『完璧で自然な報告』など、すでに脳内で構築済みですっ!」
「大丈夫かよ? 断頭台に送られたときには、ベンノと見に行ってやるからよ、安心して召されろよな」
ニギ親方の斜め上の思いやりに、パベルはひぇっと小さく叫んだ。
パベルの真っ青な顔を見て、悪戯小僧の顔で笑うニギ親方の横顔を、ヘニョは、にこにこしながら見下ろした。
十三歳のちび棟梁は、今日はいつもの作業着ではなくて、初めて会った日に着ていたのと同じ、白いシャツを着ていた。初めて会った日と違うのは、その上に薄茶色の毛糸のベストを着ていることだ。
夏の間、「ハムたちが暑そうだから」とヘニョたちが大騒ぎしながらみんなで刈り取った、モコモコの豚の毛で作った毛糸だ。
カシャとアニャが川に洗いに行き、車大工のステファンが休憩中の馬車の車輪を借りて即席で作った糸車を使って、ブリギッテお婆ちゃんが糸車が大きすぎると文句をいいながら一本の毛糸に紡ぎあげ、そして編み上げた。
「中途半端な量だったからねえ。これじゃあ、あんたしか着られないよ」
ブリギッテにそう言って手渡されたとき、ニギはフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いていたが、アールベルクの峠を降りて平地へ向かう今、そのベストをしっかりと着込んでいる。
「ねえねえ、ニギくん! ギルドに帰ったら、次はどんな面白いお家を建てたいの? ぼく、すっごく気になる!」
「はん! 聞きたいか、ヘニョ!」
ニギ親方は待ってましたとばかりに胸を張り、頭の中にある最高の夢を熱弁し始めた。
「俺にはな、やりたい巨大な大仕事が山ほどあるんだわ!
まずはチロルの大動脈! イン川のあのでっかい大橋の大改修だ! 今の橋は平地のギルド出身とかいう頭の固い奴らが作ったから、春の雪解け水の計算が甘くて、数年に一度は土台がガタつくんだよ! だけどな、俺が考える新しい工法を使えばな、激流の圧力をそのまま土台の重しに変える、二十年はびくともしねえ最強の大橋を架けられるんだわ!
それから、インスブルックの街のど真ん中に、皇帝へーかの度肝すら抜くような、天まで届く巨大な『三層構造の大時計塔』を建てる計画書も、もう図面に引いてあるんだよ!」
「わあ……! 壊れない橋に、おっきな時計塔! すっごいや、ニギくん! ぼく、それ絶対見てみたいなぁ!」
ヘニョはキラキラした瞳で満面の笑顔を向けた。
「あたりめえだ、俺を誰だと思ってやがる! ランデックの街の職人も使えねえ兄弟子どもも、ニギ親方の天才ぶりとその弟子ベンノの怪力ぶりに泡を吹いて腰を抜かすはずだわ! ツラァ拝むのが楽しみだぜ全く!
なあ、ヘニョ! 俺さ、アールベルクのてっぺんにまで「ニギ親方」の名前が届くようにがんばるからよ、お前も負けんなよ! ヘニョ!」
十三歳のチビ棟梁は、自分の初現場の成功にこれ以上ない誇りを抱き、最高にゴキゲンなドヤ顔で、ヘニョの未来をも勇気づけるのだった。




