閑話 聖ヨハネスの薔薇飾り
遡ること二ヶ月と少し前。
大公レオポルト三世率いるハプスブルク軍が、アールベルク峠を越えて、西のモントフォール伯領ブルーデンツに集結している頃。
ヘニョ、ヤン、そしてパベルは、ランデックの徴税広場に面したツォイブルク城(通称:徴税城。パベルがいうところの役所)の宿舎に泊まっていた。
数日後に控えた6月24日――聖ヨハネスの日に、山小屋の定礎式を行うために、必要なものを買いに来たのだった。
◯
その朝。
兵士宿舎の裏口から、肩で息をしながら飛び込んできた新人役人のヤン・チャペックが、制服の襟を正すのも忘れて大声をあげた。
「大変です、リーダー! ランデックの町中が、薔薇の胸飾りだらけです!!」
「ええっ!? 胸飾りだらけ!?」
ヘニョは驚いて、もぐもぐしていた干しあんずを慌てて飲み込んだ。
昨年の秋、お忍び貴族ギヨーム・ド・クーシーに「薔薇の胸飾りを持ってきたら仲間になってあげる」と言われて町中を探したのに見つからず、途方に暮れていたのだ。それがまさか、町中が薔薇だらけになっているなんて。
「そうか! 薔薇が咲くのはこの季節だったんだ!」
ヘニョはまたひとつ世界の真実を発見した。
「そうなんです! そして今日は夏至祭だから、女の子も男の人も、みんな胸に薔薇を挿して歩いてるんですよ! これなら絶対にギヨーム様を感動させる薔薇が見つかります!」
ヤンは自分のことのように顔を輝かせ、ぐっと拳を握りしめた。
「パベルさん! いこう、パベルさん! 薔薇の胸飾り、たくさんあるって!」
ヘニョがわくわくしながら振り返ると、ベテラン役人のパベルは、寝癖でボサボサの髪と全く開かない目で二人の話を聞いていたようだったが、おもむろに再びベッドにもぐり、向こうを向いてしまった。
「……ノン(Non)。お断りだね、お二人さん。有能な役人であるこの私が、なぜ子供の恋占い(夏至祭)に付き合わねえといけないんですか。それに私は今、……非常にデリケートな問題を抱えていて(ギヨームの6.5ギルダーのツケの踏み倒し)、その上寝不足(夜遅くまで人別帳を調べていた)なんです! 君たちだけで行ってきなさい!」
ギヨーム・ド・クーシー恐怖症のパベルは、しっしっと手を振った。
「そっかぁ……。じゃあヤンくん、二人でいこう!」
「はい、リーダー! 僕が最高の薔薇をご案内します!」
パベルの邪悪な計画のことなど全く知らない純粋な二人は、手を取り合ってツォイブルク城を飛び出し、夏至祭の熱気に包まれたランデックの目抜き通りへと駆け出していった。
◯
門を一歩くぐれば、そこはヘニョの見たこともない「薔薇の祭典」だった。
空は突き抜けるように青く、強烈な太陽がチロルの白い町並みをじりじりと焼いている。
しかし、地上の色彩はすべて薔薇色に染め上げられていた。
民家の窓辺という窓辺には、この時期に咲く野生の赤い花や野薔薇の蔓を編み込まれた、大きな魔除けのリースが掲げられ、通りを行き交う人々は、誰もが胸元や帽子に思い思いの薔薇を挿して笑い合っている。
広場からは、巨大なヨハネスの火(篝火)を準備する荷運び人たちの威勢のいい掛け声と、薔薇の冠を頭に載せた少女たちの賑やかな歌声が、白く濁った煙の薫りと甘い焼き菓子の香りともに、風に乗って流れてきた。夜になるとこの篝火を囲んで少女たちは踊り出すのだ。
「わあ……! すごいや、ヤンくん! 赤いのも、白いのも、たくさんあるね!」
たすきを揺らしながらトコトコ歩くヘニョは、目移りしてしまって何度も立ち止まる。
「リーダー、あっちの市場の生垣に、すごく立派な野薔薇が咲いていましたよ! 行ってみましょう!」
ヤンは少し大きめの制服の袖を爽やかな風にはためかせながら、ヘニョの手を引いて人の波をすいすいと泳いでいく。
お祭りのはしゃぎ声のなか、肩を並べて歩く二人の影が、石畳の上に仲良く並んで伸びてゆく。
ヘニョは、自分のすぐ横を歩くヤンの明るい笑顔を見て、なんだか胸の奥がくすぐったいような、とても晴れ晴れとした眩しい気持ちになっていた。
(……ヤンくんと一緒なら、どんな薔薇でも見つけられそうだなぁ)
この夏至の日の強烈な日差しのなかで、二人の薔薇探しは、最高に幸せな足音を立てて始まったのだった。
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「リーダー、見てください! あそこの生花売りの露店、信じられないくらい見事な『赤薔薇』がありますよ! あれならあのワガママ貴族も黙るはずです!」
ヘニョは募金箱をガシャガシャ言わせながら、ヤンの引く手に引かれてトコトコ走る。
「わあ……! 本当だ、すごく赤い! 炭火のパチパチしてるところみたいに赤いね!」
「おばさん! その一番立派な赤薔薇を一本ください! 領主様のお仕事なんです!」
ヤンは誇らしそうな顔で自分の財布を出し、見事な赤薔薇を指差した。
「あいよ! 今日は夏至祭だからね、特別なやつさ。これを持ってけば、どんな堅物のハートもイチコロだよ、頑張りな!」
「ハートのイチコロ……? ありがとう、おばちゃん!」
ヘニョは新しい言葉を覚えようとしている。
「それとリーダー、あっちの修道院の壁沿いを見てください! 『白薔薇』が信じられないくらい綺麗に咲いてます。お上品な貴族なら、こっちの清らかな白の方が好むかもしれません。両方持っていきましょう!」
ヘニョは、ヤンと一緒にトゲに気をつけながら白薔薇をパチンと折り、両手に赤と白の薔薇を掲げて無敵の笑顔になる。
「やったぁ! 赤と白、最強の2本だよ! 行こう、ヤンくん!」
◯
ランデックでいちばん敷居が高いと言われる高級商館地区。
その一等地にある白亜のガストホーフ(高級旅籠)の二階テラス。
そこへ、全速力で階段を駆け上がってきた二人は、息を切らしながら、優雅にワインを傾けるギヨーム・ド・クーシーの前へバッと薔薇を突き出した。
「ギヨームさん! 見て! 市場で一番赤いやつと、修道院で一番白いやつを持ってきたよ! これで仲間になってくれる?」
「どうですか、ギヨーム様! 私たちの誠意の結晶です!」
ギヨームは波打つ金髪を優雅にかき上げ、お高そうなシルクの袖をひらひらさせながら、ヘニョの薄汚れたたすきと、差し出された薔薇を心底くだらなそうにジロリと眺める。
それからフッと鼻でせせら笑い、ワインの器を置いて優雅に首を横に振る。
「……ノン(Non)。お話にならないね、おチビちゃんたち」
「ええっ!? ダメなの!?」
「ダメに決まっているだろう? 君たちの持ってきたそれは、ただの『記号』さ。
そんな退屈な血の色の薔薇(赤薔薇)や、お上品ぶった処女の薔薇(白薔薇)じゃあ、このクーシーの男の気高い胸は飾れない。……捨てときな」
ヤンは、ショックで顔を真っ青にしながら、それでも思わず一歩前に出る。
「そ、そんな……! 市場の奥の生垣まで、トゲで手を傷だらけにしながら血眼になって探したのに……!」
「努力の量と美しさは比例しないんだよ、下級役人の坊や。
いいかい、今日このランデックの町を見下ろしてごらん。右を向いても左を向いても、誰も彼もがそんなありふれた赤や白の薔薇を胸に挿して、おめでたく踊っている。私はね、そういう『その他大勢の退屈な正解』が一番嫌いなんだ」
ヘニョは、うーん、と首を傾げて、自分の持っている赤と白の薔薇を見つめる。
「退屈かなあ……? おばちゃん、ハートのイチコロって言ってたのに……」
「ふふ、田舎者のイチコロなど興味はないね。さあ、もし次のチャンスが欲しいなら、もっと私の心を揺さぶる『別の正解』を持ってくることだ。期待せずに待っているよ、おチビちゃん」
ギヨームはそう言って、再び二人に背を向け、美しい初夏の青空へとワインの器を掲げた。
ヤンは、彼にしては珍しくギヨームの背中をキッと睨みつけると、ヘニョの手を引いてテラスを降りる。
「……くやしい! あまりにも悔しいです、リーダー! でも……絶対に認めさせてやりますからね! 次はもっと凄い薔薇を探しましょう!」
「うん! ヤンくん、次はもっと凄いやつね!」
◯
ランデックでいちばん敷居が高いと言われる高級商館地区。
その一等地に建つ白亜のガストホーフ(高級旅籠)の二階テラスは、美しい夏の日の終わりを迎えていた。
夕方の斜光がテラスをオレンジ色に染める中、ヘニョとヤンは今度こそとばかりに、見事な「ピンク色の薔薇」をギヨームの前にバッと差し出した。
その薔薇は、赤の情熱と白の清らかさが柔らかく溶け合った、そしてどこか太陽の黄色が花びらを縁取っているような、息をのむほどの色彩の花だった。
「ギヨームさん! 今度こそ本当の正解だよ! 赤と白がまざって、すっごく可愛いピンクの薔薇! これなら文句ないでしょ!」
ヤンは、額の汗を拭いながら、期待に胸を膨らませて身を乗り出す。
「高級商館地区の裏手にある、一番手入れされたお屋敷の庭師さんにお願いして、夏至の特別なお祝いとして分けてもらったんです。どうですか……!」
ギヨームはワインの器をテーブルに置くと、初めてその美しい青い目を少しだけ見開き、差し出されたピンク色の薔薇をそっと指先で受け取る。
ヘニョとヤンは、ゴクリと唾を飲み込み、「いけたか!?」と顔を見合わせている。
ギヨームは美しい薔薇に鼻先を近づけ、ふっと端麗な目を細めて香りを嗅ぐ。それから、満足そうに小さく頷く。
「……フッ、悪くない。優雅で、甘やかで、赤と白のちょうど真ん中、ハーフを突くセンスだ。泥まみれのあんたたちにしては、上出来極まるよ、おチビちゃんたち」
ヤンは飛び上がった。
「やった……! じゃあ!」
しかし、ギヨームは次の瞬間、薔薇を持った手をすっと引き、ひどく退屈そうに冷たい笑みを浮かべる。
「――だが、ノン(Non)。ダメだね」
「えええーーーっ! なんでぇ!?」
「そんな……! これ以上の薔薇なんて、このランデックのどこを探してもありません!」
「ありふれている(C'est banal)のさ、下級役人の坊や。
確かに綺麗だ。だがね、あまりにも退屈な『正解』なんだよ。
そんなお行儀がよくて、誰もが思いつく安全なピンクじゃあ、不実で気まぐれな私の心は飾れない。
私が欲しいのは『ロサ・ムンディ』――あのイギリスの王が愛人に捧げたという、赤と白が不条理に混ざり合った、幻のマーブル模様の薔薇だけさ」
「ろさ……むんでぃ? まーぶる……?」
「そうさ。混ざり合って綺麗に一つになるんじゃない。赤と白が、お互いの色を主張したまま緊張しつつ隣に在る奇跡。……まあ、このチロルの田舎町しか知らない君たちには、一生かかっても見つけられないだろうけれどね」
ギヨームはくすくすと笑いながら、手の中のピンクの薔薇を弄び、それから、すっと立ち上がって、呆然と立ち尽くすヤンの前へと歩み寄った。
ヤンは不思議そうに身構える。
「……ギヨーム様……?」
ギヨームは悪戯っぽい笑みを浮かべながら、ヤンの少し大きめの制服の胸ポケットへと、そのピンクの薔薇をふわりと挿し込んだ。そして、ヤンの胸元をトンと軽く指先で叩く。
「君のような、生真面目で、主人の言うことをよく聞くお利口な『正解の男』の胸には、この退屈なピンクがお似合いさ。……私の代わりに、君が身に付けるといい」
ギヨームはあっさりと背を向け、再びワインの器をとってテラスの奥へと歩いていってしまった。
ヤンは、しばらく固まっていたが、やがて自分の胸のピンクの薔薇を見つめ、顔を耳の裏まで真っ赤に染めながら、小刻みに震える手でその薔薇の茎に触れる。
「な……、なんなんですか……あの人は……っ!
人のことを馬鹿にして……! 却下したくせに、なんでこんな……」
ヘニョは真っ赤になっているヤンの顔を覗き込んで、にこにこと笑う。
「あはは、ヤンくん、その薔薇とっても似合ってるよ! ギヨームさん、意地悪だけど、なんだかかっこいいね」
ヤンは、ヘニョに無邪気な笑顔を向けられ、さらに顔を赤くしながら、必死にそっぽを向く。
「悔しいですけど……悔しいですけど、あの優雅さはズルいです……!
リーダー、僕、絶対にあの人に認められる『ロサ・ムンディ』を探し出してみせますからね!」
「うん! ロサ・ムンディだね! 一緒に探そう、ヤンくん!」




