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西方水滸伝 セラデラヴェラ戦記  作者: 瓶八
第二章 雪に宿り木
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2-6 セラ・デラ・ヴェラ








大公軍が西へ去ってから3ヶ月。約束の9月がやってきた。6月のあの凄まじい雪解け水はすっかり枯れ果て、地面はカラカラに乾いた茶色い土と、鋭い割石のガレ場に変わっていた。


ほぼ出来上がった山小屋のまわりのわずかな草地は、初霜に打たれて美しい黄金色の絨毯のようになっており、現場には3ヶ月間削り続けた木材の乾いた匂いが漂っている。


峠の西のすぐ下に開かれた平坦な敷地。そこに建てられた救護所(アジール)は、平べったい石を敷き詰めた木の屋根と、石を積み上げた石壁で造られた、ずんぐりむっくりした小さな小屋だった。



「これでよし。さあ、最後の仕上げだ。ヘニョ!」

アルレン城から時々来てくれる石工で、ヘニョとも昔から付き合いのあるマチェイが、手に持った棒切れで肩を叩きながら、ヘニョを呼び寄せた。


マチェイのそばには、建物の正面の角を支える、ひときわ大きな四角い基礎の石――『礎石』があった。


「この家の『名前』を決めてくれ。家には必ず良い名が必要だ。お前が決めたら、俺がここにカッコいい文字の型を彫ってやる」

そういって礎石の表面を二つ叩く。

「家にも名前があるんですね」

「名前が家を強くするんだ」


ヘニョは、すぐには思い付かなかった。

「早く決めちまいな、大将。どうせなら『ステファン極楽酒場』とかがいいぜ!」

ステファンがガハハと笑いながら去っていく。

ヤン・チャペックが「真面目にやってください!ステファンさん!」と怒り、こっそり、「オレンジ城はどうですか」と言って去っていく。


ヘニョは、少し緊張した様子で、何かを考えていたが、やがて、あ!という顔をして、それから真っ赤になって、恥ずかしそうに両手で口を覆って、その両手を石工の耳元にそっと寄せた。

「あの……、」


「ヴェラってのは、お前さんの好い人の名前かい?」とマチェイが確認すると、ヘニョはわーーーと叫んで目をつぶり、手を振りながら、「ち、ちがいます! ただの、その……!」と完全に動転してオロオロしていた。


「人の名前ってわけね。じゃあこれだな」


マチェイはしゃがんで、肩にかついでいた棒切れで、地面に何かを書きはじめた。



Cella della Vera



「セラ・デラ・ヴェラ、と読む」

「せら・でら・ヴェラ……」

「……気に入った?」

「はい!」

「よし、じゃあこの礎石の『南側』には、俺がこれを彫る……だが、その前にだ」


そこへ、ガランガランと大きな鈴の音を響かせて、一頭のロバが峠を登ってきた。

「休憩だ」とマチェイは伸びをして、棒切れをその辺に放り投げた。



◯



アールベルク峠はよく馬の鞍に例えられる。切り立ったアルプス山脈には珍しく、ここは峠がなだらかな窪地だからだ。

「峠が窪地ってどういうこと?」という日本人読者のために別の例えをしよう。半月状のスイカを両手でもって、その真ん中を一口かじるとする。そこがアールベルク峠だ。 


さらにもう少し近寄って、手元にミニチュアのジオラマを作ってみよう。 


今日旅人が峠を東から西に越えると、まず右手前に完成間近の小屋がみえる。マッチ箱の上にカントリーマアムの小袋をひとつ乗せたような小さな小屋だ。


そのマッチ箱のすぐ左を道はまっすぐ通って、峠の終わりで見えなくなっている。 


マッチ箱の奥、道の右側にはなだらかに西に下る平坦な窪地があるのだが、これが結構広くて新聞紙一枚ほどもある。ここが、五匹の豚たちが爆走し、カシャたちの夏のテントが建ち並ぶ西広場だ。


じゃあ道の左側はどうなっているかというと、伏せた辞書や分厚い雑誌がずらりと並べられているような感じで、これが高さ十数メートルの石切場のテラスだ。オレクたちがここからスレートを切り出して、あのカントリーマアムの屋根を造っている。 


この、辞書や雑誌、新聞紙、マッチ箱の空間の両側に、湯飲みやマグカップをずらりと並べれば、アールベルク峠のジオラマの完成だ。ちなみに木は一本も生えていない。 


――では、このミニチュアへ向かって、一気にカメラをズームインしてみよう。マグカップは青と白の山並みへ、新聞紙は広大な地面へ、マッチ箱は本物の石造りの建物へと姿を変えていく。 


山道を下り、完成した建物を右手に眺めながら進んでゆく。 

まず目に入るのは、礼拝堂の南東の礎石だ。続いて、荒々しく石を積み重ねた南面の壁と、頑丈な木製の扉。そのすぐ隣には、ひと続きになった宿舎の南面の壁が続く。 


礼拝堂の南面が幅三シュリット――大人の足で三歩(約二メートル)ほどのこじんまりとした佇まいだとすれば、隣接する宿舎の南面はその三倍、九シュリット(約七メートル)はある堂々たるものだ。 


さきほども述べたように、礼拝堂の外扉はこの山道に面した南側にある。しかし、宿舎の外扉はこっち側にはない。建物の角をもうひとつ回り込んだ、西側の壁に隠されているのだ。 


その宿舎の外扉前に向かう途中の一頭のロバが、たった今、礎石の前に立ち止まった。




「ヘーニョ! いたずら坊主め! こーんな立派な山小屋を建てちゃってさ!」

ロバから降りてきたのは、スカーフで髪をおおった小柄な老婆だ。彼女はヘニョを見つけるなり、腕を広げながら近寄り、深く息を吸うようにぎゅーっと抱きしめた。


「スタシャ!みんなのおかげだよ!僕なんて、僕なんてさ~」

ヘニョも抱き返してスタシャのスカーフに鼻をうずめながら、右に左に体重移動してスタシャを笑わせた。

「大きくなったねえ!ヘニョ!あんたがお城(アルレン城)にきたときは、こーんなに小さかったのに」

スタシャが親指と人差し指を使って豆のような大きさを作るので、ヘニョは、そんなに小さくないよ!と笑いながら指を握った。

「今ではスタシャをこーんなに追い抜いちまって」

スタシャがシワだらけの両手を伸ばしてヘニョのほっぺを押さえ、顔を見てしみじみと言うものだから、ヘニョはなんだか恥ずかしくなって、えへへと笑った。



「スタシャ! スタシャこっちきてよ! スタシャの名前もあるんだ!」

礎石の隣に立つマチェイが、片手を口に当てて呼びかけると、スタシャは目を丸くして笑った。

「なんだって!?あたしの名前!? あたしなんて時々パンを届けにきただけじゃないか!」

「あんたのパンがこの小屋を作ったんだろうが! それに、全員の名前を彫りたいんだってさ!」

マチェイはヘニョを指差した。

ヘニョは得意げだ。

スタシャは降参したように両手を広げた。

「わかった、わかった。わかったよ。だけど見るのはあとにさせてくれ。その前に腹ごしらえだ。さあ、みんな!ごはんだ! おまちかねの、ごはんだよ!」

「ごはんよ!」「ごはんだよ!」と言って回るスタシャの声は、トンテンカントンテンカンとせわしなかった現場の空気を少しずつゆるませてゆく。


「ふぇ~。 飯だ飯だ」と工具を置き、屋根を降りてくるステファン。鼻を高くかかげ、フゴフゴと動かしたあと、トコトコ歩きだす五匹の豚。豚たちの行く先にはアニャがいて、休憩に入る豚たちのために、パチンパチンと重いそりを外してあげている。石切場の作業員たちも、昼食をとるためにひとりまたひとり作業を切り上げて作業場を離れていく。


「スタシャ! ぼく、もう少ししてから行くね!」

ヘニョは口の横に手を当てて、遠くを歩くスタシャにそう呼び掛けてから、礎石の前に戻り、ゆっくりとまばたきをした。


賑やかだった建設現場は、いまでは秋の午後の日差しと小鳥のさえずりに包まれていた。

一人、礎石の前にしゃがみ込むヘニョは、マチェイが墨で下書きしてくれた、飾り文字の『Cella della Vera』を一文字一文字眺めていた。


文字を読めないヘニョにも、その形はかっこよく感じられた。ヘニョは、せら、でら、ヴェラ、と唱えながら、一つ一つの文字の形に向き合っていた。





◯





賑やかだった建設現場は、いまでは秋の午後の日差しと小鳥のさえずりに包まれていた。

一人、礼拝堂の南東――建物の最東端の角に据えられた大きな礎石の前にしゃがみ込むヘニョは、石工のマチェイが墨で下書きしてくれた、飾り文字の『Cella della Vera』を一文字一文字、眺めていた。

昼下がりの秋の太陽は南西の空にあり、ヘニョの背中を優しく温めている。


そこへ、軽い足音が近づいてきた。

「リーダー、何してるんですか?」

聞き慣れた、少しかすれて明るい調子のある、ヤン・チャペックの声だった。

「あ、ヤンくん。これね、マチェイさんがね……」


ヘニョは嬉しくなって、笑顔を向けた。ヤンは、「あ、家の名前決まったんですね」と言いながら、ヘニョのすぐ右側へ、同じように並んでしゃがみ込む。


礎石に向かうヘニョからすると、左後ろの空に太陽が昇っているので、歩くヤンの影が、セラデラヴェラの文字を通りすぎて、右におさまった形になる。自分とヤンの影が並んで礎石の足元に落ち着いた。

「へえ、綺麗な文字ですね」

ヤンは優しく話しかけながら、左手でヘニョの左肩を抱き寄せ、そして――右手に隠し持っていた、小刀の刃を、ヘニョの無防備な右の脇腹へと、深く突き刺した。


「――あ、え……?」


ビリ、と厚手の麻のチュニックが裂ける鈍い音がした。

ヤンは左手でヘニョの肩を、右手で小刀の柄を固く握りしめ、己の全体重を乗せるようにして、ヘニョの脇腹の奥へと刃を押し込んだ。

ヘニョは驚きと、遅れてやってきた凄まじい衝撃に息を詰まらせた。ヤンを突き放そうと、とっさに体を右へひねりながら、両手をヤンの体に当てて押しやろうとする。しかしもうそこにはヤンの体はなかった。右脇腹から抜かれる刃と流れ出る大量の血液の感覚に、ヘニョの腕は伸びるのをやめて思わずそこを押さえ込んだ。


――刺した。やった。早くここを離れなければ。


ヤン・チャペックは血のついた小刀を引き抜き、恐怖と興奮によって速まる鼓動を押さえて立ち上がった。そして地面に傷口を押さえてうずくまるヘニョをイチベツした。


一刻も早くこの場から逃げ出したいという衝動を押さえつけ、ヤンは小刀を握りしめる。血を拭う布と刃を収める鞘は、峠の岩陰に隠してある。自然な動きを心がけてフリカエル。石切場に人はいない。山道の右、西の谷の方角をミオロス。誰もいない。左手のアールベルク峠をミアゲル。人影はない。


まさにその時、何も知らないベテラン役人のパベルが、宿舎の入り口から外に出て、南西の角を曲がり、南壁に沿ってスタスタと歩いてきた。スタシャが今日は全員揃ってから食べるとうるさいので、イライラしながらヘニョとヤンを呼びにきたのだった。


「おいヤン、リーダー、飯だぞ。早く来なさい、お前らが来ないとスタシャが――」


ふと前を見たパベルの目の前に、真っ青な顔をしたヤンが立っていた。




ヤンは現れた上司のパベルを見て、「敵だ」と思った。彼は密命を受けたのは自分だけだと教えられていたのだ。考えるよりはやく、走り出しながら、小刀を腰だめに構えパベルの腹部に刃を向けて突進した。



「おい、ヤン! そんな急がなくても」

昼飯は逃げないぞ、とパベルは言おうとした。パベルはてっきり素直なヤンが昼飯に急いだと思ったのだ。しかし、ヤンの手にギラリと血で濡れた刃が握られてるのを見てぎょっとし、尻もちをつきながら思わず大声をあげる。

「うわあああっっ!?」

パベルは悲鳴をあげながら、とっさに小脇に抱えていた帳簿で身を守った。固い樫の木の木板と黒染めの牛革で表面を覆われた重たい『マル秘帳簿』へ、ヤン・チャペックの小刀は深々と突き刺さった。



ヤンの突きは、頑丈な牛革と木板の表紙を貫通し、強靭な羊皮紙を十数枚も貫いた。しかし、何十ページもの分厚い皮の束はさすがに刃を噛み込んで止め、刃はついにパベルの体に届かなかった。


「はっ、ひ、ひぃ……!?」

おののくパベルをよそに、ヤンは帳簿にめり込んだ小刀を引き抜こうと両手で力任せに引っ張ったが、羊皮紙の強烈な摩擦の前に、ビクとも動かない。パベルも帳簿を離そうとしない。


その騒ぎによって、「おい! なんだ今の音は!?」とニギ親方が叫ぶと、建物から、大工のステファンや大男ベンノ、老婆スタシャたちがドカドカと外の西広場へ飛び出してきた。

炊き出し場にいたカシャ、コバ、オレク、ヤネクたちも、スプーンや薪ばさみを放り出して駆けつける。

「パベルの旦那! 大将! ヤン!何があった――!」

西広場から人がドッと出てくる気配を察知した瞬間、ヤンは帳簿に刺さったままの小刀を諦め、身を翻し、峠に向かって猛然と走り出した。


「ヤーン!どうしたの!ごはんたべないの?」

「パベルの旦那どうしたんです」

「――っ!」

「あっ!おい!ヘニョが刺されてる」

「誰か手当を」

「おい待てっ! あいつを捕まえろ!」

マチェイたちが気付き叫んでステファンとコバが追いかけるが、人間の足では、命がけで東へ疾走する若い男の速度には到底追いつけない。ヤンの背中が峠の向こうへ今にも消えようとしていた。


――しかし、人間は追いつかなくとも、「彼ら」は追いつく。


山小屋の石壁を回り込み、右の脇腹から血を流して倒れているヘニョの姿を目撃した瞬間、ハムの瞳が、澄みきった怒りを湛えた。

「ブフォォォオオオオオッッ!!!」

ハムのいななきに、西広場にいた四匹の耳がピンと立ち上がった。


ドコドコドコドコドコドコ!!!

凄まじい砂埃が峠の山道に舞い上がった。

ハムを先頭に、ピンク、ブッダ、ベーコン、ポルコの5匹の豚たちが、ブリギッテが編んだ特製ハーネスをガシャガシャと激しく揺らしながら、時速25マイレ(40キロ)の猛烈な速度で山道へと躍り出る。

転んでいるステファンを飛び越え、コバをごぼう抜きにし、すでに峠の向こうへ消えかかっているヤンの背中を大爆走で追いかけていく。


「……!?」

峠の頂上を越えても速度を緩めず、下り坂を走り降りていたヤンが、迫り来る豚たちの爆走音に振り返り、恐怖に目を丸くした瞬間。

合計1500プフント(約800キロ)の毛むくじゃらの肉塊の弾丸が、ヤンの背中と脚へ同時に飛び込んできた。ヤンは驚いて足をもつれさせ、山道の段差を踏み外した。


ドガァァァン!!!


ヤンは派手な音を立てて転がり、口の中を切り、無数のかすり傷を負いながら、小石と泥の坂道を三回転も四回転もして、やっと泥濘と砂利の中に止まった。そこへすかさず、ハムとポルコがドスンと上にのしかかり、ピンクとベーコンが手足をムニっと踏みつけ、ブッダが顔の真横に座りそっと瞳を閉じた。こうしてヤンの自由を完全に奪い去った。



◯




パベルは、自分の帳簿に深々と突き刺さったままの小刀の刃を見つめていた。そこからかすかに漂う、異様な匂いの正体に、パベルは心当たりがあった。

(……毒、か……。 本城のスサナ様は、あのガキに、毒刃を渡していたのか……)

シュロッフェンシュタインの周到さを知り、パベルは沈黙する。




◯



本来ならスタシャの温かいパンを囲んで賑やかな昼飯になるはずだったその時間は、いまや、重苦しく、血と泥の匂いの漂う臨時の『評議会』と化していた。


山小屋に隣接した礼拝堂の東南の角。

礎石に背を預けたヘニョは、ベンノに手当てされた傷口を、その上からさらに当て布を当てて両手で押さえている。ヘニョの周りには、五匹の豚たちが片時も離れないという意思を示すように足を折り畳んで座っている。

山道で豚たちに制圧されたあと、遅れてやってきたオレクとコバに捕縛されたヤン・チャペックは、ヘニョの前に座らされて荒い呼吸を繰り返している。

ヤンの横では、パベルが『マル秘帳簿』を抱えて座り、深々と突き刺さったままの毒の小刀を睨みつけながら、青白い顔で沈黙している。

ブリギッテは歌うのも忘れて、ヘニョのための当て布を編んでいる。


その周りをヘニョの仲間たちが取り囲み、ヤンをどうするかで揉めていた。



「おい、パベルの旦那! こいつをどうするんだ!」

大工のステファンが、酒の抜けた顔でノミをヤンへと突きつけた。

「大将を刃で刺しやがったんだぞ! ランデックの街の裁判所に突き出すか!? それとも、シュロッフェンシュタインの本城へ連れていって、役人のパベルさんから旦那様がたに掛け合ってもらうか!?」


「……無駄だ」

パベルが、乾いた、かすれた声を絞り出した。

「私も密命を受けていた。スサナ様から。このプロジェクトを失敗させるようにと。ヤンに命じたのもおそらくスサナ様か、他のシュロッフェンシュタインだ」

パベルは視線をあげられなかった。しかし、周囲が息を飲む声がはっきりと聞こえた。アニャが歩いてきて、背中に顔をうずめた。


「汚い真似してくれるじゃないか!お貴族様ってやつはよ」

「……」

「ならばパベル様、あんたがそれを証言してくれないか。そしてまたレオポルト大公にご成敗を願えば……」

カシャが静かに言葉をつなぎ、すがるような眼差しでパベルを見た、まさにその時だった。


「――すっこんでな、人足風情が。浅知恵でガタガタ騒ぐんじゃないよ」

ピシャリと、部屋の空気を一瞬で凍りつかせるような、低く、ドスの利いた鋭い声が響いた。

声の主は、スカーフを頭に巻いた、小柄な老婆スタシャだった。



◯



スタシャはゆっくりと歩み出ると、縛り上げられたヤンの前に立ち、ぎらりとした光を、その老いた瞳の奥に覗かせた。


「パベルの言う通りさ。こんな青二才、シュロッフェンシュタインに突き出したって『よくやった』って裏で褒められて、身内同士の裁判で無罪放免さ。お上(領主)の身勝手な法律なんざ、最初からアタシらの身を護る盾になりゃしないんだよ」


ステファンもニギ親方も、スタシャから放たれる言葉に気圧され、何も言えなかった。スタシャはヤンを見下ろしたまま、冷たく言い放った。


「アタシらが建てたこの山小屋(アジール)の中で、アタシらの大将を刺したんだ。だったら、アタシら身内の法で、落とし前をつけさせなきゃ、峠の面目が立ちゃあしない」


スタシャはゆっくりと首をめぐらせ、礎石にもたれかかって、脇腹を押さえているヘニョを見つめた。

ヘニョの右脇腹、ベンノの巻いてくれた包帯の上から、裂けた麻のチュニックの隙間にあてがわれた布は、止まらない血液によって赤黒く染まっていた。血を失って蒼白く、土気色に顔色を変えて行く少年に、スタシャは容赦なく問いかけた。


「いいかい、ヘニョ。お前はこのアジールの『長』だ。

だから、私らのリーダーであるお前に決めさせる。

この子供(ヤン)を――【生かすか、殺すか】。

死ぬ前に決めな」


静まり返った礎石前。

スタシャはパベルの帳簿に刺さったナイフをちらりと見た。

塗られた毒のことも、ヘニョの命が長くないこともスタシャは全てわかっていた。





◯





(……優しいなあ。スタシャは……)


ヘニョには全て聞こえていた。

答えは決まっていた。

だから、答えようとした。

なんとか声を絞り出そうとした。


(……僕がどうしたいか、スタシャは知ってるんだ……でも、スタシャ、ごめん。ぼく、だめだ)


唇も舌も喉も動かない。

体が言うことを聞かない。

ヤンを見ることもスタシャを見ることも小さく首を振ることもできなかった。

毒が全身を痺れさせ、目を閉じていることしかできなかった。


(ぼくは、死ぬんだ……。

……でももうお別れも言えないんだ)


豚たちが鼻先でヘニョを撫でるのを感じる。左頬にいるのがハムで、右肩にいるのがポルコだ。

でも撫でてやることができない。


ヘニョは自分の亡骸がスタシャのロバに運ばれて、アルレン城を通ることを想像した。

ヤックライン隊長が走ってきて、ヘニョ!と呼ぶのを想像した。




◯




水を打ったように静まり返る広場。


ヘニョは石に背を預け、両手を脇腹に重ねたまま、毒の痺れによって、もう声を出すことも目をあけることもできなくなっていた。


ヘニョの沈黙の意味を知るのはスタシャ以外にもう一人いた。

それまで青白い顔で黙り込んでいたパベルが、突如として『マル秘帳簿』を地面に叩きつけ、両手を地についた。


「リーダー、いや、ヘンリク様。聞いてください」


パベルの、乾いた、どこか震えたような声がパベルの腹の底から轟いて辺りの沈黙を打った。


「この子はあなたも知っての通りの、無垢で善良な若者です。私たち役人は、主人に命令されたら何も断れません。お願いだ。こいつの命は助けてくれ」


パベルは必死だった。

ヘニョが死ぬ前に、何か言わせないと、何かヘニョに響くようなことを言わないと、そういう思いだけに突き動かされていた。


「きっとヤンも、辛かったんだ」





◯





「きっとヤンも、辛かったんだ」




パベルさん……水くさいなあ……

そんなこと言われなくても、わかってるよ……

だって、ぼくたち三人で、あんなに仲間を探したじゃないか……



農奴も、役人も、城主さまも、みんなうまくいかないんだ……



そんなこと、わかってるよ、パベルさん……!



◯



背中には固い石の感触がある。その石に描かれた美しい文字の形をヘニョは思い出せた。



ここは、死にそうな人を、誰でも温めて助けるための家なんだ。



どんな人でも、安らげて、一休みできる家なんだ。



みんなで一緒に作る橋なんだ。



絶望の谷にかける希望の橋なんだ。



ここはヤン君の家なんだ。



それだけは、譲れないんだ……!




ヘニョの想いは言葉にならなかった。

しかしその願いは叶えられた。




先程まで晴れていた九月の空は、今では重たい灰色の雲に覆われていた。その中から、今年はじめての雪のひとふりが、ゆっくりと舞い落ちてくる。その最初のひとひらが、ヘニョの左手の甲に落ちたかと思うと、弾むように跳ね上がり、まばゆい光を放った。


豚たちに目を閉じさせたまばゆい光はすぐに収束し、今度は青白くまあるく、人の頭ほどの大きさとなると、しばらくヘニョを照らしながら水平に回転していたが、やがてまた膨らみはじめ、ヘニョと礎石と豚たちと、ヤンとスタシャとパベルとアニャと、それを見ている人間たちをまあるく包み込んだ。


その神秘的な輝きは、驚愕に目を見開くパベルやベンノたちの顔を照らし、周囲の山肌や礼拝堂の壁を照らし、幻想的な青色に染め上げてゆく。


光を包み込んでいる薄青い半透明の膜のようなものは、はじめ、なにも描かれていなかった。しかしやがて無数の雪の結晶のような光の亀裂が入り始め、次にそれを追いかけるように植物の蔦模様が地表から伸びて絡まり始める。


光の蔦がうねりを上げて伸びるのと、その節々からへらのような形をした一対の葉が芽吹くのと、そして、その中央に真珠のような小さく丸い花が膨らみ開くのとが同時に起こってゆく。


その宿り木の模様が半球の膜の全てを覆ったとき、模様は強く白く発光し、弾けとぶように消え去った。


あとには、傷がすっかり直り、縄がゆるめられたヤンと、豚たちの中で薔薇色の頬をして、眠っているヘニョが残された。

血は清められ、ヘニョの左手には、雪の結晶に絡まる宿り木の紋様が青白く明滅していた。


「それがあんたの答えなのね。ヘニョ」

スタシャはよっこらせとヘニョの前に腰を降ろすと、汗で張り付いたヘニョの前髪をかき分けて、そのおでこにシワシワの手を置いた。




◯




あまりの奇跡に、スタシャ以外の全員が声もなく固まっていた、まさにその時。



ごとごと、ごとごと。


アールベルク峠の静まり返った西の谷から、なんだか気の抜けた音を立てて、一台の小さな荷馬車がやってきた。荷馬車は、がたぴし、みしっという不穏な音をさせて礼拝堂の前に止まった。


「あ、すみませーん。今、聖クリストフいませんでした?」


馬車の御者台からひょいと降りてきたのは、司祭の服を着た若い男だった。

衣服が旅の泥で汚れていても気にした様子がなく、その表情はどこかぽかんとしていて、世俗の苦労を一切知らないような、――というより世俗の苦労に一切興味がないような、妙に浮世離れした男だった。


彼は「コンスタンツ司教座の『方』から来ました」と言いながらペタペタと歩いてきたが、大修羅場の光景を見ても、まったく動じる気配がなかった。それどころか、くんくんと鼻を鳴らして礼拝堂を見上げた。


「……あれれ? おかしいな。この礼拝堂、まだ書類上は未完成のはずなのに、もう完璧に『聖別』されてません?」


司祭はのんきに首を傾げながら、ヘニョの左手で青白く明滅している『雪と宿り木の紋章』を見つめた。


「天の香りがしますねえ。驚きました。どうやら私が聖水を撒くまでもなく、先ほど本物の聖人がここを通って、ダイレクトに神域にしていかれたようです」





(第2章・中編 / 完。後編へ続く!)






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