閑話 パベル vs オレクファミリー
雪解けが終わり、アールベルク峠が瑞々しい夏の緑に覆われる季節がやってきた。
東西を結ぶ物流の熱気が峠を白く濁らせるなか、ベテラン役人のパベルは、人知れず邪悪な野心に燃えていた。
(ククク……。逃亡農奴どもの元の領主を突き止め、国家犯罪である『農奴隠匿罪』でヘニョを一発圧殺してやる計画をすすめよう。本来なら他領のデータベース(人別帳)を調べるべきなんだが、城に戻る時間がなかなか取れないため、作業は中断中だ。しかし限られた時間を無駄に使う私ではないぞ。現場に拘束されて人別帳が調べられないならば──直接本人から吐かせるまでだ!)
パベルは役人制服の懐に、わざわざランデックの市場で自腹を切って仕入れた『イムストの蜂蜜パンの端切れ』を忍ばせ、現場の炊き出し場で働くオレクの家族へと近づいた。
狙うは、一番口の軽そうな幼い娘のアニャと、若くて気弱そうな、アニャの叔父のコバだ。プロの役人にかかれば、子供を転がすなど赤子の手をひねるより容易い。
パベルは顔面に一級品の営業スマイルを貼り付け、小さなアニャの前にしゃがみ込んで蜂蜜パンを差し出した。
「やあ、可愛いアニャちゃん。おじさんはね、シュロッフェンシュタインのとっても有能な役人だよ。ほら、美味しい蜂蜜パンをあげようねえ」
アニャは無言だった。パベルの顔を値踏みするようにじっと見つめると、ひったくるような手付きでパンだけを奪い取った。
(よし、食いついた!)
パベルは勝利を確信し、もうひとかたまりパンを取り出すと、さらに声を潜めてネチネチと本題を切り出した。
「……ところでさ、君たちが昔住んでいたお家は、どんな名前の領主様だったか、おじさんにこっそり教えてくれるかな? 言えたら、もっと美味しいパンをあげるよ?」
アニャはもぐもぐと口を動かし、じっとパベルの目を見つめたまま、小さく首を横に振った。
「おや、忘れてしまったのかな? じゃあ、あとでお母さんや、おじいちゃんに聞いてみようか。そうしたらもうひとつ蜂蜜パンを──」
「──あらまあ、パベル様ったら」
突如、背後から割り込んできたアニャの母カシャが、でーんと両手を腰に当て、呆れたとでもいうようにパベルたちを見下ろしてる。しかし、よく見ると、その目は少し潤んでいる。
「私たちは不法な逃亡者です。それを兵士に言わないばかりか、仕事をくれて、その上パンまで。パベル様は本物のお人好しですよ……!」
さらに、遠くから鍬を持ったままこちらを見ていた、アニャの祖父のヤネクが、手を合わせ頭を垂れてくる。
くそ、監視の目が厳しい。
「あ、いや、私はただ世間話として、お互いの故郷の話を──」
パベルが慌てて、引きつった笑顔で言い訳をしようとした瞬間、パベルの肩が優しく叩かれた。振り返ると、二人目のターゲットであるコバが立っている。
「パベルの旦那に言いたいことがある。俺はまだひょろくてガリガリだけど、旦那のために重い岩を運べる男になりますよ。見ていてください」
コバは腕捲りをして、細い二の腕になけなしの力こぶを作って見せてくる。
「コバ。お前はなに馬鹿をいってんだい。何でもかんでも、アニャやあたしに譲ってさ、何も食べないで立派な男になれると思ってんのかい。そら、パベル様がくださるパンを断るんじゃないよ」
そう言ってカシャは、パベルから蜂蜜パンをふんだくり、コバの口に押し込んだ。
遠くで木栓を削りだしていたアニャの祖父のヤネクが、再び手を合わせ頭を垂れてくる。
(……てごわい! 油断すると私のプロジェクト予算(高級パン)が、ただただむしり取られていく!!)
パベルが敵の強さを認めたその頃、パンを綺麗に食べ終えた小さなアニャは、ヘニョのところへとトコトコ歩み寄り、その麻のチュニックの裾をツンツンと引っ張った。
ヘニョは驚いて振り返る。
「あ、アニャちゃん。どうしたの?」
アニャはヘニョの耳元にそっと小さな口を寄せると、周囲に聞こえない音量で、静かに、そして鋭く囁いた。
「……ヘニョ……パベル、わるい。気を付けろ」
「え……? パベルさんが、悪い人……?」
ヘニョが目を丸くする。アニャはそれだけを言い残すと、遠くで頭を抱えているパベルの方をちろりと冷たく睨みつけ、カシャのスカートの陰へと素早く隠れてしまった。
ヘニョはうーんと首を傾げ、石切場影で、激しい胃痛に襲われて胸を押さえているパベルの後ろ姿を、不思議そうに見つめていた。
「パベルさんの、体調が悪いってことかな……?」
アニャの警告の本当の意味を、ヘニョが知る由はなかった。
◯
アールベルク峠の作業場に、長い一日の終わりを告げる夕暮れの鐘が響く。
泥にまみれた石切場の作業員たちが、ひとり、またひとりと道具を片付け、カシャの用意した温かいスープの匂いに誘われて炊き出し場へと引き上げていく。
そんな喧騒の片隅で、ベテラン役人のパベルは、人知れず携帯用の木炭を黒革の帳簿に走らせ、仕事終わりのオレクを待っていた。
パベルの狙いは明確だった。
(ククク……。あからさまに吐かせる必要などない。プロの役人にかかれば、言葉の端々に滲み出る『訛り』や『衣服の繊維の質』、あるいは彼らが持ち込んだ『わずかな農具の形』から、元の領地がシュヴァーツヴァルト側なのか、モントフォール側なのか、はたまたバイエルン側なのかなど、一発でプロファイリング(特定)できるのだ。その情報をもとに被害届を出している元の領主を突き止め、国家犯罪である【逃亡農奴隠匿罪】でヘニョのガキごとアジールを圧殺してやる!)
パベルは邪悪な顔面に笑顔の仮面を貼り付けると、あまりの疲労で座りこんでいるオレクの肩を、親しげにポンっと叩いた。
「いやあ、オレク君。今日も実によく働いてくれたね。アジールの土台となる聖なる岩が積み上がっていくのはとてもいい気分だ。とくに君の運びっぷりには、非常に感動したよ。……ところでさ、ちょっとした世間話なんだがね」
パベルは声を潜め、蛇が獲物を前に舌舐めずりするように目を細め、役人特有の誘導尋問を切り出した。
「君たちが昔、住んでいた故郷の『土』は、一体どんな色をしていたのかな? 粘土質だったかね? それとも、肥沃な黒土だったかな? どんな麦が育つ土地だったか、参考までに教えてくれないかい?」
(さあ、吐け。土の質や作物の種類を言え。言えば、最後。おまえの領主は特定され、お前らは地獄行きだ……!)
パベルは細めた目の奥に悪魔の光を宿し、オレクの顔を覗き込んだ。
しかし、純朴な逃亡農奴のオレクには、そんな悪意があることも、調査手段があることも、考えが及ばなかった。
それよりも思わぬタイミングでくらった優しい言葉の不意打ちが深く効いてしまっていた。
オレクは驚いたように目を丸くしたあと、パベルの笑顔の仮面をじっと見つめ、何かを耐えるように目をつぶった。
この役人が、自分たちの辛かった過去(故郷の環境)を、心配してくれていると、勘違いを起こしていた。
「パ、……っ!!」
ガシィッ!!! と、オレクは長年培った握力と化石のように硬くなった両手で、パベルのやわらかい役人の手を、骨が軋むほどの力で握り締めた。
「旦那……。 俺たちの、……っ。 俺たちのいた村はっ!……。毎年……、ひどくて、むぐ、麦なんてこれっぽっちしか、採れなくて。それなのに税が、税が……!家族みんな、死にしかけで……」
「い、いや、オレク君。手が、手が痛い。そうじゃなくて、土の色を──」
「だから、逃げた。でも、……旦那は、俺たち、……置いてくれた。今年、みんな、元気。アニャも、元気。 俺たち、パベルの旦那に、心から……」
オレクはえらかった。大人だから涙を我慢できた。その代わり、行き場のない感情のために、パベルの手をこれでもかと激しく上下に揺さぶった。
パベルは(いや、そういうありふれたお涙頂戴の苦労話じゃなくて! 土の色を言おうよ!質問には答えようよ!)と心の中でうんざりし、激しい困惑を覚えながらも、あまりの握力の恐怖に負けて、
「あ、あはは、そうかね。まぁ、手が折れるから離して、がんばりなさい……」
と、指を保護するのが精一杯だった。
◯
深夜。
静まり返ったアールベルク峠の作業場は、冷たい北風の音だけが、ひゅうひゅうと鳴り響いていた。
だが、ヘニョたちの現場から少し離れた風の当たらない斜面――逃亡農奴であるオレク一族が張った、みすぼらしいテントの前にだけは、小さな焚き火の明かりがぽつんと揺らめいていた。
(ククク……。人間、美味いものを食わせながら酒を飲ませれば、口が軽くなってポロッと故郷の秘密を漏らすものだ)
ベテラン役人のパベルは、役人制服の懐にしのばせた上等な『燻製肉』と『エルザスの白ワイン』が入ったマイボトルを上からさすりながら、邪悪な笑みを深く歪めていた。
これらはすべて、役人の経済力(自腹)で、ランデックの市場から買い付けてきた、農奴を釣るための餌だった。
(あからさまに尋問する必要などない。泥酔したこいつらの言葉の端々に滲み出る『訛り』や『酒の銘柄』から、元の領地を一発で特定して、国家犯罪である【逃亡農奴隠匿罪】で、豚飼いのガキごとこのアジールを取り潰してやる!)
完璧な破滅のシナリオ。
パベルは歪んだ三日月の笑みの上から親切な善人の仮面を貼り付けると、焚き火の前で座り込んでいるオレクの肩をポンっと叩いた。
「いやあ、オレク君! 日頃の労働のご褒美に、これを持ってきたんだよ。さあ、家族みんなでこれを食べながら、昔馴染みの土地の話について、楽しく語り合おうじゃないか!」
パベルが懐から、見事な油の乗った燻製肉と、魚の形の陶器のボトルを取り出した、その瞬間だった。
バサリ、とテントの布が跳ね上がり、中からオレクの奥さんであるカシャ、娘のアニャ、老父のヤネク、そしてカシャの弟のコバが、ワラワラと這い出てきた。
「パベル様……! もう、あんたって人は……!」
カシャが感動に胸の前で十字を切り、老父のヤネクは何度も頭をペコペコと垂れてくる。
アニャはパベルの足元に抱きつき「パベル……わるいこ……」とまとわりついてくる。
彼らの純粋すぎる大感謝の熱量を受け、かかった、かかった……とほくそ笑みながら、パベルは手際よく肉を切り分け、ワインを器に注いで「さあ、飲みなさい」と促した。
「何を言ってんだい。パベル様が飲まないと始まりませんよ」
とカシャに酌をされ、まあそうか……と、それを受け、まずは一口、流し込む。
(――!?)
パベルは、目を見開いたまま固まった。
よくある芳醇な葡萄の香りとは少しちがう、こちらの様子を伺うように最初は大人しくじっとしていながら、ごくりと飲み下した瞬間に華やかに吹き上がる複数の香りに、(これどうなってるんだ……?)という衝撃を受けた。
続いて口にした燻製肉は上質ながらも王道の美味しさだったのだが、豊かに長引いてゆく薫香と、舌の上で気体となってそこへ溶けてゆく脂の甘い香りへ、さきほどのエルザスの白ワインを一口含むと、凛としてキレてなくなる儚い強酸が煽り返して、口の中で完璧なドラマを作った。
(う、美味い……!! 何だこれは、本当に美味すぎるぞ……?)
赤ワイン党のパベルは、常日頃、白ワインのことを見下していた。今日は自分が飲むわけでもないし、ランデックの市場の、お馴染みの酒屋から「これ意外といいよ」と軽い感じでおすすめされた、さほど高くないエルザスの庶民向けを、農奴なんてこれで十分だろ、というスタンスで無造作に買ってきたのだが――これほどとは。
「旦那、本当に、本当にありがとうございます……!」
オレクが涙ぐみながら、肉を大切そうに少しずつ口に運んでいる。アニャは頬を薔薇色に染めて「パベル、わるいこ」とはしゃぎ、コバは嬉しそうに肉を食べては力こぶを確認している。
その純朴で温かい一族の姿と、焚き火の爆ぜる音、そして何より一瞬たりともこちらを飽きさせないエルザスワインの魔性ぶりに、パベルの冷徹な役人脳は、急速に心地よい酩酊の中へと沈み込んでいった。
「そうだろう、オレク君! 美味しいだろう! いやあ、実はね、私の生まれ故郷の村はワインが有名でね。いや、赤なんだけどね。白なんて誰も飲まないからね。夏になると真っ黒なブドウがね、こう村の北側の斜面一面にばーっと実っていてね、すごく暑い夏だと葡萄に粉がたくさん吹くから黒じゃなくて水色になるんだよ、それがきれいでね、暑いのは嫌だけどあの景色は好きでね……」
ハッと気づいたときには、パベルの口は勝手に滑り出していた。
オレクたちから故郷の情報を吐かせる(プロファイリングする)はずだった。
なのに、あまりのワインの美味さと、胸の奥から溢れ出す懐かしさに耐えきれず、パベルは自分自身の故郷の思い出を、身振り手振りを交えて熱弁してしまっていた。でももう止められない。えい、ままよ!とパベルは続けた。
「私が子供の頃はね、秋になると村中の人間が総出で大樽に入れた葡萄を踏んでねえ……。あの搾りたての果汁の匂いが、本当に素晴らしかったんだ。子供には労働の対価に葡萄の絞り汁が出るんだよ、だからみんな子供は秋が好きなんだ。もちろんワインはうまいんだよ。本当にうまい。オレク君は飲んだことある?ヴェルトリンっていうんだけど。ああ、ランデックにきてからは、高くて買えなくてもう何年飲んでないかなあ……」
パベルは自分の乾いた酒器の向こうに故郷の景色を見ていた。
「へえ、旦那の故郷はそんなに綺麗なところだったんですねえ」
「いいところだねえ、パベル様」
コバとカシャが、焚き火の光の中で、本当に優しく、愛おしそうな目でパベルの話を聞いている。アニャはパベルの膝の上にちょこんと座り、オレクは涙ぐんでいて、ヤネクは何度も頷いている。
「パベル……いいこ」
アニャが小さな泥だらけの両手で、パベルの両足をぽんぽんと叩いた。
いつもなら「制服が汚れる!」と飛び退くはずのパベルだったが、今夜はただ、あはは、と照れくさそうに笑って、膝の上に座るアニャの頭を優しくぽんぽんし返した。
(……あれ? 私、何をしにここに来たんだっけ……?)
頭の片隅で、役人の算盤がカラカラと虚しく鳴ったが、もはやどうでもよかった。
今夜のパベルは、ただの「美味しい肉とワインに感動して、故郷を恋しがる、寂しくて温かい一人の男」だった。
夏でも冷たい北風が吹き抜ける、夜のアールベルク峠。
パベルの邪悪な陰謀は、エルザスの大地の恵みと油断なき職人の仕事、そして故郷のぬくもりによって完璧に消し飛ばされ――裏山の小さな焚き火の周りには、ただただ優しく、どこか切ない、本物の宴の笑い声だけが響き渡るのだった。
◯
深夜、静まり返ったアールベルク峠の作業場。
パベルは焚き火の爆ぜるかすかな光を頼りに、『マル秘帳簿』を開き、羽ペンをカリカリと走らせていた。
(フッ、肉でも酒でも吐かないなら、身体特徴を精密にプロファイリングするまで。年齢、体格、髪の色……これをランデックの役所にある『逃亡農奴手配人別帳』と照合すれば、被害届を出している領主の名前など一発で特定できる!)
「おい、パベルの旦那。熱心に人足どもの特徴をメモして、何企んでんだ?」
「ひゃい!?」
背後から降ってきた、まだ声変わりしきっていない少年特有の甲高い声に、パベルの肩が跳ね上がった。
振り返ると、職人と作業員をしばき倒して本日の予定作業を終わらせた13歳のニギ親方が、大人の夜用ワイン(ステファンから隠して備蓄していた上等なやつ)の小瓶をグビッと煽りながら、生意気にパベルの帳簿を覗き込んでいた。
「ニ、ニギ君! 子供がそんな夜遅くにワインなんて飲んではいけません! そもそも私はプロジェクトの進行管理のために、労働者の体調を記録して──」
「……あいつらの元の領主を突き止めて、懸賞金でも山分けにしようってか?」
ニギはフンと鼻を鳴らし、パベルの苦しい言い訳を黙らせた。
ドキリ、とパベルの心臓が嫌な音を立てる。やはりこのクソガキ、ただ者ではない。
しかし、ニギは驚いたパベルを憐れむように見下ろすと、ワインの瓶の口で、オレクたちのテントの方を指し示した。
「無駄だぜ、旦那。人別帳なんかと照合したって、あいつらの身元なんか半ツォル(約1.2cm)も分かりゃしねえよ」
「……何ですって? 君、私をナメないでもらいたい。我れらがハプスブルクの行政システムと、この私のプロの検索能力をもってすれば──」
「行政システムぅ? ハッ、お上(役所)の書類の綺麗事を信じてるなんて、やっぱりこのプロジェクトに宛がわれる役人はおめでたい頭をしてるな」
ニギは焚き火の前にしゃがみ込むと、昼間にオレクの弟コバが使っていた、刃の欠けた古びた『鍬』を拾い上げ、その接合部をパベルの目の前に突きつけた。
「いいか、パベルの旦那。この鍬の、鉄と木を繋いでる溶接の仕方を見な。この雑で分厚い叩き方は、ここから北に三日行ったイン川の下流地方――『ウンターインタール』の安物の職人の癖だ。あの辺の泥は粘土質だから、鍬の先をこうやってわざと重く作らねえと土が掘れねえんだわ」
「な……」
「つまり、あいつらの出身はウンターインタール地方のどこかの農村。そこまでは道具(物理)が証明してる。だけどな、あの辺は今、吹けば飛ぶような小領主どもが毎日境界線を巡って小競り合いしてて、帳簿なんか機能しちゃいねえよ。村が燃えるたびに人別帳なんか灰になってるんだ。元の領主が誰かなんて、神様だって知らねえさ。……そんな暇あるなら、来週ランデックの関所から届く、木材の関税の計算書でもチェックしな。あいつら平気で2ペニヒは誤魔化してくるからな」
ニギはそう言ってワインをもう一口飲むと、「じゃあな、おやすみ役人。火の不始末には気をつけろよ」と、自分の100倍頭の良い地政学的な正論でマウントを取ったまま、トコトコと自分の宿舎へ引き上げていった。
パベルは、手の中の羽ペンを握りしめたまま、静まり返った暗闇のなかで完全に呆然と立ち尽くしていた。
(……あのチビ親方、本当に、本当に可愛くない……!!! なんだあいつは! 13歳だぞ!? 子供は子供らしくしろ!なんで私の高度なプロファイリングが、中世の杜撰な行政システムと『鍬の溶接の癖』という物理的現実の前に、初手から完璧に通用していなかったんだよ!! ああもう、私のなけなしの自腹(肉とワインとパン)と夜なべした苦労は一体何だったんだ!! 意味がわからない!!!)
◯
ニギはパベルに見えないところで、もう一口ワインをグビッとやると、盛大にべーっと舌を出し、呆れたように吐き捨てた。
「――イン川の下流は北にねえよ。ウンターインタールで暴れてんのは小領主じゃなくてバイエルン公だっての。だいいち逃亡農奴が鍬持って逃げてくるわけねーだろが。あいつ意外とちゃんとしてねえな」
ニギは自分の小さな手のひらを見て、今日一日、現場で死に物狂いで岩を運んでくれたオレクたちの、あの化石のような「まめ」の感触を思い出す。
夏でも冷たい北風が吹く夜のアールベルク峠。
パベルの「悪意の時限爆弾」は、ニギ親方の適当なハッタリと責任感によって、小屋の完成を待たずして解体されてゆくのだった。




