2-5 せめぎ合う明暗
長い冬が明け、アールベルク峠にようやく春の光が差し込み始めた頃。
ヘニョたちが今年初めて峠の建設現場へと向かうため、ぬかるんだ山道を登っていると、山道の上の方から、一匹の大きな黒い犬を連れた男が、静かに山を降りてくるのが見えた。
男の服は擦り切れ、あちこちが泥と何かで黒く汚れている。
「あっ! おーい! おじさん! おはようございます! 峠はどうでしたか? 道は無事でしたか!?」
ヘニョが元気に声をかけ、大きく手を振る。
しかし、男は足を止めることもなく、ヘニョと目を合わせようともしなかった。ただフードの奥から、光の消えた冷たい視線を一瞬だけヘニョの足元に落とし、そのまま無言で通り過ぎていく。
男が連れている漆黒の猟犬もまた、冷たい雰囲気を纏っており、ヘニョたちや、ソリを引くハムたちの存在をまるで一瞥もせず、主人の足元に従って山を下りていった。
ヘニョは、「あれ……?」と首を傾げて、遠ざかる一人と一匹の奇妙な後ろ姿を見つめていた。
「……レーヴェンだ」
後ろから歩いてきたニギが、忌々しそうに、吐き捨てた。
「れーべん……?」
その言葉の意味は、山道をさらに数百歩ほど上ったところで、嫌というほど思い知らされることになった。
雪解けが進んだ斜面のあちこちに、不自然に雪が掘り返された跡があった。
そこから露出していたのは、春の芽吹きではなく、冬の間に猛吹雪に巻かれて息絶えた旅人たちの、無惨な屍だった。
それらの死体は、一様に衣服を脱がされ、靴を奪われ、身に付けていたであろうわずかな財産や遺品をすべて毟り取られて、文字通り身ぐるみ剥がされた状態で、雪の中に放り出されていた。
ヘニョはピタッと足を止め、じっとその光景を見つめた。
あの犬を連れた男の衣服の汚れ。彼が背負っていた、ずっしりと重そうな麻袋。
(……あのおじさん、死体から、服を奪ってたんだ……)
ヘニョは、あの静かな男がやっていたことの意味を理解した。
新人役人ヤン・チャペックは人生で初めてこの日、春のアールベルク峠に登った。
「そんな……ひどすぎる……っ! 泥棒どころか、死者への冒涜です! リーダー、早く彼らをきちんと土に埋めてあげましょう!」
「ヤン君、それはね……」
ヘニョがしんみりと言おうとしたことを、ベテラン役人パベルが引き取って教える。
「ヤン君、やめなさい。気持ちは分かりますが、死体を勝手に埋めることは『教会法』、および『土地の所有権』の侵害にあたります。それとも死体を下まで持っていって祈祷代と墓代を払うという意味ですか?」
◯
ヘニョたちが整地する現場からそう遠くない峠の山道。シュロッフェンシュタイン家から道普請代を得て働いている東側のロットメンネル(荷運び人)たちが、黙々と崩れた土砂や雪を片付けていた。その中に、かつて教会で苦悩していたトマス青年の姿もあった。
彼らはヘニョたちの山小屋計画のことを「素人の無謀な試み」と言い合っているため、ヘニョたちと目が合っても、気まずそうに視線をそらし、よそよそしく接するしかなかった。
そこへ、峠の西側――『モントフォール伯領』から道を直しにきた、西側のロットメンネルたちが陽気な声をあげて通りかかる。
「おうおう! そこに山小屋を建ててるってのは、噂の豚大将かい! よくやった! ここに屋根があれば、次の冬から俺たちの仲間が死なずに済む!」
陽気な男は懐から数ペニヒの小銭を取り出し、ヘニョの木製募金箱へチャリン、と投げ入れる。
ヘニョは満面の笑顔で手を振っている。
「ありがとうございます! かっこいい小屋を建てます!」
トマスは、持っていたスコップを握りしめ、泥んこの地面に、カツーンと突き立てた。
◯
それから三日後のこと。春の気まぐれな嵐が去ったアールベルク峠は、再び東西を結ぶ定期便の物流で慌ただしくなっていた。
東のロットメンネル(荷運び人)であるトマス青年の今日の仕事は、毎度お馴染みの、塩の運搬だった。
「ハル・イン・チロル」の豊かな塩鉱から運ばれてきた白い塩を樽に詰め、レスタ(背負子)に背負って山を登る。峠の頂上で西側のロットメンネルたちに引き渡し、代わりに彼らが西から背負ってきたワイン樽を受け取って山を下りる。
その荷物の積み替えと待ち合わせの休憩に、東西のロットメンネルたちは、峠のすぐ西側にある広大な窪地を使っていた。
――だから、昼の休憩の間、トマスの目には嫌でもあの光景が飛び込んでくるのだった。
すぐそこで、ヘニョたちが泥まみれになって山小屋を建てている姿が。
トマスが通う、あの小さな教会では、最近、あの丸太のような腕をした大男の姿を見かけなくなった。今は暗い堂内で、一人で祈ることが多い。
勝手に仲間だと思っていて、いなくなったから寂しいのだろうか。トマスは昨日の夜、最悪の夢を見た。峠であいつらに話しかける夢だった。
(……そこはダメだ、豚大将。そこはラヴィーネ(雪崩)の通り道だ。あそこに見える、カベヒバリの巣がある岩棚のたもとがいい。あそこなら、どんな大雪が来ても山が風と雪を逃がしてくれる。)
豚飼い小僧は夢の中で顔を輝かせた。
夢の中のトマスはほっとして言葉を続けた。
(俺の二人の兄貴も、この峠で死んだんだ。他のやつらは知らんが、俺はあんたたちのことを応援してるよ。この山小屋を建てることは、よいことだ)
夢の中では、あんなにも饒舌に語りかけることができるのに。
ふと現実に戻れば、トマスはただ冷たい泥の地面を見つめ、黙々と干し肉を噛みちぎる、物言わぬ東のロットメンネルの一人に過ぎなかった。トマスたちは、豚飼いたちと目が合っても、気まずそうに視線をそらすしかなかった。
だが、西側――『モントフォール伯領』からやってきた西のロットメンネルたちは、まるで違った。彼らはヘニョたちの作業場へズカズカと近づくと、身振りを交えて大声で話し始めた。
「おい、坊主! そこに小屋を建てたら冬の雪崩で一発で潰されるぞ! 建てるなら、もっと西に寄せろ。あのカベヒバリの巣がある岩棚のたもとがいい。あそこなら雪が逃げる!」
トマスはハッとして顔を上げた。西の男が指差した位置は、夢の中でトマスがヘニョに教えていた、あの岩棚だった。
「わあ……! 知らなかった! 教えてくれてありがとうございます、ロットメンネルのおじさん!」
豚飼いの小僧は、顔をこれ以上ないほど輝かせ、白い息を吐いて礼を言った。トマスが夢で見た以上の顔だった。それから自分より背の低い、ちびの子供のところへ、とことこ走り寄って何かをまくし立て、うるさいとばかりに、そいつに尻を蹴飛ばされていた。
西のロットメンネルたちは、楽しそうに笑いながら懐から数ペニヒの小銭を取り出し、ヘニョの木製募金箱へチャリン、チャリン、と投げ入れていく。
「少ないが足しにしな! がんばれよ、チビ大将!」
「はい! いい家を作ります!」
……なんでかなあ。
なんで俺たちは、あの西のロットメンネルたちのようにできないんだか。
同じアールベルクの山で、同じ荷物を運び、同じように大切な身内を亡くしてきたっていうのに……。
なんか変だよなあ?これ……。
孤独なトマス青年はいくら心にそう思っても、行動には移せなかった。
◯
荷物の積み替えが始まると、峠の西の広場は、漏れ出た芳醇な赤ワインの匂いで満たされた。
それを嗅ぎつけたステファンが、仕事用のノミを持ったまま、犬のように鼻をピクピクさせて作業場から飛び出してくる。
ハァハァと息が荒い。
「おい、ヘニョ……! 感じるか、西のロットメンネルどもが、極上のヴェルトリンを運んできやがった……! 樽の隙間から色っぺえ匂いが溢れてやがる……。頼むヘニョ、あのソリの木枠の修理ならタダでやってやる! だから俺に、あの樽の栓に染み出たおこぼれのワインを一口、一滴舐めさせろぉおお!」
パコーンと思いきりのよい音がした。
ニギ親方が、ステファンの頭を建築用の大きい定規で叩いた音だ。
「静かにしろこのアル中クソ親父! 職人の品性を疑われるだろ! ほら、さっさと豚ソリのカンナ掛けに戻れ!」
ヘニョはニコニコしながら「ステファンさん、お仕事頑張ったら、カシャさんが温かい麦茶をくれるよ!」と、慰めている。
「麦茶じゃねえ! 俺が欲しいのはヴェルトリンだァアア!」
ステファンの魂の叫びはあわただしく駆けつけてきた蹄の音にかき消された。
◯
まさにその日の朝、雪の下のさらに泥の下から、金糸の刺繍が施された重厚な外套を纏った死体が見つかった。明らかに身分の高い「高貴な死体」だった。
それを報告しに行ったロットメンネルがひとりいて、どうやら彼の報告が、ランデックの司祭を走らせてきたらしかった。司祭は上等なロス(馬)に乗り、何も積んでないザウムロース(ラバ)を一頭ともなって、雪解けの危険な山道を無理に急がせて峠へと駆けつけてきた。事故が起こりかねない飛ばし方だった。
司祭は馬から飛び降りると、泥にまみれながら死体へ駆け寄る。
「おお、これは……! 間違いない、神聖ローマ帝国の使節、あるいはどこぞの宮廷文官の身内に違いない! どけ、下がれ、不浄の者ども!」
司祭は、すぐ隣に転がっている貧しい旅人の死体には目もくれず、その高貴な死体の胸元から『大粒の宝石がついた十字架』や『金貨の袋』を回収してはキスをして懐に入れていく。そして近くのロットメンネルを使って、高貴な遺体をザウムロース(ラバ)の背に括り付けさせ、今度は優雅にゆったりとランデックの方へと去っていった。
身ぐるみを剥がされ、埋められることも許されずに野ざらしになった、数多の貧しい旅人の屍には目もくれなかった。
ヘニョとヤンはただただ圧倒されて、去りゆく司祭の背中と、残された野ざらしの死体を交互に見つめていた。
パベルは心底どうかしたのかという顔で、「何を見てるんですか?」と不思議そうに通りすぎて行く。
ヘニョはぎゅっと、自分の小さな拳を握りしめた。
「……ヤン君、ぼくさ。偉い人も、貧しい人も、死んじゃった人も、みんながちゃんと、温かい場所に入れる家を、建てるよ」
ヤン・チャペックは頷いて、
「絶対に建てましょう! リーダー!」
と、自分の拳もぎゅっと握った。
◯
その午後。
「樽、直します」の看板を持って、西向きに座っているステファンに、東からきたロットメンネルが塩樽を抱えてそーっと話しかけた。「あのお……」
しかし、「あ?」と振り返った顔があまりにも怖いので、かわいそうな東のロットメンネルは、「何でもありません……」と帰っていった。
その日はもうヴェルトリンどころか一樽のワインも来なかった。
二、三人司祭が馬で来たが、悪態をついて帰っていった。
◯
それからさらに月日が流れ、六月のあたま。しぶとい冬のなごりと爆発する春の生命力がせめぎ合う短い季節を、アールベルク峠は迎えていた。
空は突き抜けるように青く、陽光は肌を焼くほど鋭い。しかし西の谷から吹き上げる北風はまだまだ氷水のように冷たかった。毎日気温が上がり始めると、あちこちの日陰に残る汚れた根雪から雪解け水が溢れ出し、音を立てて斜面を流れていく。
おかげでどこもかしこもぬかるみだらけで、ヘニョの麻のチュニックの膝が常に泥だらけなのも、この雪解け泥のせいだった。
だが、そんな厳しい環境のなかでも、アジールの建設は着実に進んでいた。五月から始まった基礎の掘削作業では、ハムたちの鼻先シャベルが大活躍した。豚たちは、ブルドーザーさながらに強靭な鼻先で厚い凍土を耕し、しぶとい低木の根を豪快に掘り返してくれたのだ。
ヘニョが豚たちと凍土を耕している横では、人を怖がらないイワヒバリがトコトコと歩いて虫を啄み、はるか上空では、羽の裏が薔薇色のカベバシリがひらひらと舞いながら囀ずっている。ブッダはカベバシリには少しも興味を示さず、その代わり雄大な雪山の威容を時々、じっと見つめているようだった。
ステファンが削り出した頑丈な豚専用のシュリッテン(木製の小さなソリ)に、ブリギッテが麻と羊毛を硬く編み込んだ最強の特製ハーネス。それをガシャガシャと揺らし、十数プフント(五~九キロ)の割石をとっとことっとこ運んでいく豚たちの馬力(豚力)は、今日も峠を越える旅人たちを大いに驚かせている。
そんな、泥と黄色いスミレ、そして豚たちの賑やかな足音に彩られたアールベルク峠に、この日の昼下がり、突如として絢爛たる銀の軍勢が姿を現した。大公レオポルト三世率いる二千の重騎兵軍の進軍だった。
ハプスブルクの鷲の旗が風にはためき、数千の鉄の馬蹄が山道を揺らす。その圧倒的な軍勢の中には、軍の荷物を強制的に運ばされているトマスたち東側のロットメンネルたちの姿もあった。大公の行軍に、地元ランデックの荷運び人たちが丸ごと『徴発』されたのだ。
やがて、二千の隊列のちょうど中央に位置する、大公の「本陣」が峠の頂上へと差し掛かった。
山道自体はすれ違うのがやっとの狭さだが、ヘニョたちが山小屋を建てている敷地の前だけは、千坪の開けた広場になっている。本陣を率いる大公レオポルト三世がここで手綱を引き絞ると、前後に半マイレ(約3.7キロ)近くにわたって伸びた長い隊列は、狭い坂道に数珠繋ぎになったまま、その場で一斉に停止して休憩に入った。
甲冑のジャラジャラという音と、馬の鼻息。
峠の広場を贅沢に使って、白銀の鎧を纏った大公やその側近の騎士たちが軍馬から降りて汗を拭い、馬に餌をやり、火を使った食事を取り始める。
その「昼休憩のための物資」を運ぶために徴発されていたトマスたちは、重い軍用物資からやっと解放され、広場から山道をはさんで南の山肌、その石を切り出している石切場の、切り出された石の隙間に押し込められ、座り込まされた。大公軍が休憩を終えて、峠を過ぎ去るまで、彼らはそこで待機だ。ランデックに帰るのは明日の夕刻になるだろう。
トマスがふと隣を見上げると、そこには、かつてあの小さな教会で無言で背中を並べていた、あの丸太のような腕を持つ大男の姿があった。大男はすでにヘニョのチームの作業員として、ここで働いていたのだ。
ロットメンネルたちが座りやすいように石をどかしていた大男が不意に顔を上げ、地べたに座り込むトマスに気づく。
二人の視線が、騎士たちの甲冑が擦れ合う凄まじい喧騒のなかで、一瞬だけ、交錯した。
いつもより人が多い峠の石切場を、昼からご機嫌のステファンがよたよたと歩き回る。彼は広場の本陣を見渡せる特等席の石――トマスのすぐそばに積まれていた――に腰掛け、いい肴だぜ、とばかりに腰の水筒をグビ、とやった。
西広場で休憩中の大公レオポルト三世は、馬の上から豪快に歯を見せて笑い、まだ石積みも始まっていない山小屋の基礎を眺めた。
「ハハハ! 励んでいるな、ヘンリク!」
大公の朗らかな大声が峠に響き渡った。
「おい、ヘンリク! 約束のビール15樽はまだ建ててないのか?」
「まだです! 建てたらステファンさんが飲んじゃうから、一番最後にするんです!」
ヘニョが叫び返すと、大公の鋭い眼光がぎらりと周囲を見渡した。
「ステファン!」
建設現場の誰もが彼ですと指を指したので、ステファンはすぐに見つかってしまった。
「お前か〜! わしのビールに手を出すんじゃないぞ?」
「え!? は、はいいいいっ!! 大公殿下っっ!!!」
まさか大公直々に名前を呼ばれると思ってなかったステファンは、飛び上がって直立不動で裏返った声をあげた。酒の酔いが完全に消し飛んでいる。
すぐそばで座り込んでいるトマスたちロットメンネルは、大公と職人たちの掛け合いを、お気楽に見上げている。
ヘニョは服や手や顔の泥を払ってから、とことこと大公の馬の前に進み出た。足元ではハムたち5匹の豚もそりをひきながらやってきてブヒブヒと誇らしげに鼻を鳴らしている。
「大公さま、お気をつけて、いってらっしゃいませ!」
「うむ! さきほど下でヤックラインに会ってきたぞ。お前のことを心配して、これでもかというくらい色々と言われたが、全部忘れてしもうたわ。ハハハ! たまには顔を見せてやれ」
「はい! 今度いきます!」
「ルツェルンの農民どもが少々騒いでおるようでな、ちょっと頭を叩いてすぐに戻ってくる。わしが帰ってくる9月頃には、この家で凍っていない美味いビールを奢れよ!」
「はい! 大公さま!」
「おいステファン!」
もう話しかけられることはないと完全に気を抜いていたステファンは、急に大公に呼びかけられて、ふぁい!? と再び飛び上がった。
「ははは、よいよい。なあステファン、その時はこの山小屋を肴に、ひとつ酌み交わそうではないか」
「それは美味い酒になりそうで……」
「話がわかるやつだ」
大公はガハハと笑うと、再び手綱をしごいた。
広場で束の間の休息を終えた本陣が動き出すと、前後の狭い山道で待機していた二千の重騎兵の長い列も、再びドクドクと脈打つように、霧の向こうの西の谷へと消えていった。




