2-4 積み重なる手札
ランデックの徴税待合広場の最も薄暗い隅っこに、今にも腐って落ちそうな看板を掲げた一軒の場末の酒場がある。
名を『漏れ鍋亭』という。
いつ行ってもスープの鍋か天井のどこかが漏れており、冷たい雨漏りの水が床のバケツに「ポタン……ポタン……」と侘しい音を立てて落ちている、広場最安の代名詞たるボロ店だ。
アル中の車大工ステファンが、昼からくだをまいている、その油染みだらけの木製テーブルを囲み、日当1ペニヒの豚飼いの少年ヘニョと新人役人のヤン・チャペックは、まだ見ぬアールベルク峠の山小屋に思いを馳せて、これでもかと夢を膨らませていた。
「ねえヤンくん、ぼくね、山小屋の壁にはすっごく可愛いお花の絵を描きたいんだ! 凍えてたどり着いた旅人の人たちが、お部屋に入った瞬間にパッと笑顔になれるような、綺麗なお花!」
「素晴らしいです、リーダー! 大公殿下の仰る『聖域』ですからね、心の癒やしは絶対に必要です! 僕の初仕事としても、絶対に歴史に残る立派で美しい館にしたいです。そうだ、入り口には大公殿下の紋章をかたどった、大きな金の彫刻を飾りましょう!」
「わあ、いいね! あとね、お部屋の真ん中にはすっごく大きな暖炉を作って、温めたパンをみんなでお腹いっぱい食べるんだ!」
二人の純朴な子供がキャッキャと盛り上がる横で、ベテラン役人のパベルは、ステファンから最も遠い(ゲロ危険度の低い)席に座り、(ハハハ! 勝手に夢を膨らませて可愛いものだな。破滅が約束されたこのプロジェクトの未来を心ゆくまで語るがいい……)と、抱えたマル秘帳簿の後ろで勝利を確信した笑みを深めていた。
――しかし、その三人の高揚感が作りだす甘い妄想の空間を、容赦のない地獄の現実がブチ破った。
ドン!!!
「お前ら、いい加減にしやがれ。おめでてー頭の豚飼いと新人クソ役人が」
響き渡る轟音とともに、テーブルの中央へ、大きな羊皮紙の図面が激しく叩きつけられた。
驚いて飛び上がったヘニョとヤンが視線を向けると、そこには、まだ声変わりしきっていない喉をハァハァと震わせ、前髪をハッと吹き上げた13歳の生意気な天才――ニギ親方が、あどけない瞳を怒りで燃やし二人を睨みつけていた。
ニギ親方は、自分がガリガリと高級インクで描き固めた『アールベルク峠救難所・施工計画図』を小さな人差し指で乱暴にトントンと叩く。
「いいか、豚飼いのガキ。俺はギルドの親方に言われて、ハプスブルクの仕事だからしぶしぶ来てやっただけだ。お前みたいな素人のボランティアに付き合って、冬のアルプスで凍死する気は半ツォル(約1.2cm)もねえ。来年の秋までにあの地獄の峠のてっぺんに、大公殿下の言う『アジール』を完成させたいなら、俺の言う【4つの工期】を絶対に死守しろ。それと――」
ニギ親方は、容赦のない数字の現実を突きつけた。
◯
「俺の図面の通りに、7シュリット(6メートル)×12シュリット(9メートル)の宿舎と礼拝堂を建てたいなら、屋根のこけら板を固定する平頭釘だけで【5000本】の鉄釘が必要だ。アルプスの猛烈な冬の北風をナメるな。1本でもケチったら屋根がペリペリ剥がれて全員凍死だ。ランデックの両替商で今すぐ金貨を用意しろ。あの城の小さな鍛冶場で1本ずつ叩いてたら、完成する頃には俺たち全員、骨と皮の禿げジジイだ!」
「ご、五千本!?釘っていくらなんですか」
15ペニヒで釘1本買えないと言われたことがあるヘニョはおそるおそる聞いた。
「合わせてざっと、2ギルダー。600ペニヒくらいが相場だろ。まあ3ギルダー作っとけ。900ペニヒだ。割り込んで作らせる分、いくらか持たせる必要があるからな」
「呆れた。毛糸玉が三百は買えるわねえ」
ブリギッテは今日編んだ新作をほどいて毛糸玉を作っている。
「3ギルダー……900ペニヒ……」
固まってしまったヘニョ。
その様子に焦ったニギ親方は聞く。
「ちょっと待て、このプロジェクトの予算はいくらだ」
ヘニョは、えっとー、とポケットの中の5ペニヒをテーブルの上に置き、それから募金箱をひっくり返した。3ペニヒと干しりんごが、ちゃりん、ころりん、と飛び出してきた。
8ペニヒと干しりんご三つ。
絶句するニギ親方。
パベルは後ろで、待ってましたとばかりに(ククク……そうだ、高級な注文釘を買って、木材を買う前に予算を使い果たして大破滅しろ……!)と陰湿にほくそ笑んだ。
「よし、借金だな。おい、役人。立て替えとけ」
「えっ?」
「えっ?じゃねえよ。役人の給料ならこれくらい余裕だろ。ねえならあんたが借金しとけ」
「パベルさん、ありがとうございます」
「パベルさん、さすがです!」
「や、役人ならヤン君も……」
「馬鹿言うんじゃねえよ。一年目の新人とベテランのあんたじゃあ、給料も信用もぜんぜんちがうだろうが」
「そうなんだ、知りませんでした」
「パベルさん、かっこいいです」
パベルの借金という方向で、場がまとまろうとしている時、その13歳のクソ生意気な正論に、昼間から酒を浴びていた40代のアル中車大工、ステファンおやじの「大人げない負けず嫌い」が激しく火を吹いた。
ステファンは口元を拭い、図面を覗き込んで鼻でせせら笑った。
「――おい、図面オタクのクソガキ。お前のその上等な数式には、職人の『悪知恵』ってやつが丸ごと抜けてるようだな」
「おいおい、ゲロまみれの腰抜けのくせに俺の計算にケチをつけるたあ、いい度胸じゃねえか」
「ケチじゃねえ、現実を教えてやるんだよ」
ステファンは腰の水筒から酒をグビと煽り、ニギの鼻先に臭い息を吐きかけた。
「イチから5000本の釘を伸ばして造る? バカ言え、そんなもんランデックの成金商人の買い方だ。ヘニョ、お前さんのアルレン城には倉庫に眠ってる『使い古した槍の穂先や折れた蹄鉄、壊れた車輪のタガネ』がどうせあるだろ」
「あったかなあ?今度見てみます」
ステファンはふらつきながら身ぶり手振りで説明する。
「真っ赤に焼いた古い鉄板にタガネを当ててな、大ハンマーで上からドンだ。一発で鉄がサクサクと『縦に十本に裂ける』。あとはパチンと切って頭をトンと叩いて潰す。イチから伸ばして造る10倍の速さで釘が化けて出てくるのさ。おいオレク! お前ふいご吹けるか?」
「やったこと、ない。けど、なんでも、やる」
「いい返事だ。おいそこの、親愛なるニギ『親方』殿。お前が完璧な図面を引くなら、俺はその図面の裏をかいて、冬の間に5000本の釘を『実質タダ』で用意してやるよ。どうだ?すげえだろ!?」
「さすが現場一筋の職人は貫禄がちがうなあ!」
揉み手のパベルがすぐさま加勢する。
「アルレン城も片付くし、予算も安く押さえられる。
リーダーもこっちのがいいですよね?ね?ね?」
パベルも必死だ。ポイントを押さえてヘニョに効くフレーズを繰り出してくる。
「うーん、ヤックライン隊長が喜ぶならこっちのがいいかなあ……それに900ペニヒがただになるのは嬉しいし」
ふう、とパベルが汗をぬぐったそのとき。
「これだから素人は。同じ規格の釘を揃えるから意味があるんだろうが! バラバラの規格の釘なんか使ってみろ。弱いとこから屋根が剥がされて三日だって持ちやしねえよ! そもそも、あちこちから廃材を拾い集める労力の方が、かえって高くつくだろうが!」
「けっ、こっちはそのやり方で、修羅場をくぐってきたんだわ。高級ギルドの親方さんのちんたら仕事とはわけが違うのよ」
「はっ。峠をひとつ、ふたつ越えられればそれで御の字の『車大工』の適当な仕事と、何十年も猛吹雪に耐えさせる『建築』のまともな仕事を一緒にするんじゃねえよ」
「なんだと?もういっぺん言ってみろ」
「何度でも言ってやらあ!表へ出やがれ」
そこでオレクが止めに入った。
ヘニョは、なんかすごい、けどぜんぜんわからない、と口を開けている。
ヤンは、どっちが勝つんでしょうね?とわくわくしている。
パベルは、仲間割れで空中分解ってのもいいなと、マル秘リストにアイデアを書いている。
ブリギッテは毛糸玉を巻き終わり再び編み始めた。
「はっ……。まあ、なんでもいいぜ?そのぴかぴかの釘代をおまえが持ってくるならな。新品の高級釘だろうが、ボテボテの錆び釘だろうが、おまえさんの注文どおりにピシッと打ってやるよ。プロとして……」
「釘代を持ってくるのが親方の仕事?笑わせんな」
ニギ親方は、ハッと前髪を吹き上げて、もう一枚の図面を取り出した。
「おい負け犬親父、泣いて謝るなら今のうちだぞ」
ニギ親方はくるくるとその図面を広げた。
「これが『建築』だ」
◯
「おい負け犬親父、泣いて謝るなら今のうちだぞ」
ニギ親方はくるくるとその図面を広げた。
「これが『建築』だ」
場末の酒場の、こぼれた安ワインで汚れたテーブルの上に、もう一枚の羊皮紙が勢いよく広げられた。
ステファンがおや?と片目を細め、パベルがどれどれと覗き込み、ヘニョとヤンは口を開けたまま身を乗り出す。
そこに描かれていたのは、先ほどの図面とは全く異なる、異様なほど緻密な「木のパズル」の羅列だった。
丸太の端に刻まれた、魚の骨や鳥の足跡のような不気味なノッチ(凹凸)の数々。 それらが建物の四方(東西南北)と完璧に噛み合い、一本の木のように組み上がっていく立体的な構造図だった。
「……おい、クソガキ」
ステファンが酒の匂いのする息を止め、顔を強張らせた。
「これ……屋根の梁から土台の木枠にいたるまで、釘の穴が『ひとつも』ねえじゃねえか」
「あたりめえだわ」
ニギ親方はハッと前髪を吹き上げ、小さな胸を張って見せた。
「これが俺たちヴァルザー人に代々伝わる口伝の工法――【完全釘なし木組み(ブロックバウ)】の設計図だ。鉄の釘なんか使うから、アルプスの激しい寒暖差で木が縮んだ時に隙間ができて家が腐るんだわ。この図面の通りに丸太を幾何学的に噛み合わせれば、家全体が『一本の生きた木』として一緒に伸縮する。年月が経てば経つほど、雪の重みで自重がかかって、木同士がガッチリ噛み合って頑丈になる。これならぴかぴかの高級釘も、お前の造るボテボテの錆び釘も、最初から一本もいらねえんだよ!」
「な、なんだって……!?」
パベルは身を乗り出した。
「く、釘がいらない……? ということは、私は3ギルダーの借金をしなくていいし、ステファンさんが冬の間アルレン城の鍛冶場に詰めなくてもいいんですね……!?」
「パベルさん、おカネ使わなくてよくなったね!」
ヘニョが満面の笑みでパベルの手を握りしめる。
「パベルさんの財産が守られました! ニギ親方、やっぱり千倍頭がいいです!」
ヤン・チャペックも涙を流して拍手している。
「だ、だがな、クソガキ!」
ステファンがまだ諦めきれずに机を叩いた。
「釘がいらねえのは分かったが、こんな複雑な丸太の凹凸、一体誰が狂いなく削り出すんだよ! 木組みのパズルが半リーニエ(約1ミリ)でもズレてみろ、噛み合わずにただの薪の山だぞ!」
「俺とお前さ。まさかできないとか言わないよな?プロの車大工さん?」
ニギ親方は勝ち誇ったように、図面をコン、と叩いた。
「ただ組みながらの削りだしになるから余分な人足は要る。屋根を石で押さえるから、その分の労働も増えるんだ」
ニギ親方はふんと鼻を鳴らし、酒場の外の薄暗い広場に視線をやった。
「俺の指示通りに動くタフな人足がいれば、ノミと木槌と手斧だけでこのパズルは完成する。――おい、オレクとかいうでくの坊。てめえのその化石みたいな『まめの手』、ぼろぼろにしてやるから覚悟しとけ」
オレクは驚いたように目を見開いたあと、強く見返した。
「やったこと、ない。けど、なんでも、やる」
「……チッ、おもしろくねえな」
ステファンは悔しそうに水筒の酒を煽った。
募金箱にペニヒを戻したヘニョが干しリンゴをモグモグしながら無邪気に笑う。
パベルは後ろで、仲間割れによる空中分解がどうやらなくなったらしい光景を見つめながら、
(……まあ、900ペニヒ守れたからいいか。現実的に建てられるかはどうでもいいし)
と、帳簿の裏でほっと胸を撫で下ろした。
こうして、ランデックの場末の酒場で開かれた『第一回・施工計画会議』は、
仲間がすごくて嬉しい豚飼い、
わくわくが止まらない新人役人、
借金から逃げ延びたベテラン役人、
負けず嫌いのアル中車大工、
辛い仕事をがんばることを誓わされた逃亡農奴、
編みものを止めない呪いの老婆、
そして、頭の中に完璧な立体パズルを持つ13歳の天才・ニギ親方という、
はみ出し者たちの噛み合いによって、
アールベルクの嵐を撥ね退ける「真のアジール」建設の着工に向かって、現実の道を踏み出す一歩目となったのである。




