2 変わる季節
それから。
他のお稽古事とは違い、月乃は真面目に琴へ向かうようになった。
「姫様、今日は随分熱心ですね」
蛍が少し意外そうに言う。
月乃は誤魔化すように視線を逸らした。
「……別に」
琴の音を思い浮かべるたび。
静かに目を細める暁人の顔が浮かぶ。
褒められた時の声を思い出すと、少し嬉しくなる。
◇
夕暮れだった。
月乃は一人で琴を弾いていた。
まだ拙い音。
でも以前より、少しだけ指が動く。
ぽろん。
秋の風が簾を揺らす。
その時。
ふいに、人の気配がした。
「……暁人?」
御簾の向こう。
静かな影が止まる。
「申し訳ありません」
「どうしたの?」
「通りかかっただけです」
低い声。
月乃は少し笑った。
「聴いてたでしょう」
一瞬、沈黙。
「……少しだけ」
否定しない。
月乃は嬉しくなって、もう一度琴へ触れた。
「まだ下手だけど」
ぽろん。
「頑張ってるの」
音が、夕暮れへ溶けていく。
暁人は静かにその音を聞いていた。
まるで、大切なものに触れるみたいに。
「……綺麗です」
小さな声だった。
でも。
月乃には、その一言だけで十分だった。
「ほんと?」
御簾の向こうで、暁人が少しだけ笑う気配がした。
「はい」
その優しい声を、もっと聞きたくて。
月乃はまた琴へ指を伸ばす。
◇
冬が近づいていた。
朝の空気が冷たい。
月乃は廊下を歩きながら、小さく息を吐いた。
「寒い……」
すると隣から、静かな声が返る。
「ですから、もう少し厚いものを羽織ってください」
「暁人は心配しすぎ」
月乃が笑うと、暁人は困ったように目を細めた。
昔から変わらないやり取り。
でも。
最近、少しだけ違った。
暁人が時々、距離を取る。
前みたいに長く隣にいない。
目が合うと、すぐ逸らされることも増えた。
理由は分からない。
でも。
それが少し寂しかった。
◇
その日。
月乃は廊下の角で足を止めた。
向こう側から、声が聞こえる。
『……右大臣様も、お考えなのでしょう』
暁人の声だった。
『姫様も、もうあのお年です』
知らない大人の声が返る。
『いずれ入内なされば——』
その瞬間。
月乃の胸が、どくりと鳴った。
じゅだい。
意味は、知っている。
帝や東宮のもとへ嫁ぐこと。
でも。
それはどこか遠い話だった。
自分にはまだ関係ないと思っていた。
「暁人」
気づけば、声を出していた。
向こう側の空気が止まる。
暁人が振り返った。
一瞬だけ。
ひどく苦しそうな顔をする。
でも次の瞬間には、いつもの静かな表情へ戻っていた。
「どうかなさいましたか」
月乃は言葉を失う。
どうして。
そんな顔をしたの?
「……入内、するの?」
月乃の声は小さかった。
廊下の空気が、少しだけ冷たくなる。
暁人はすぐに答えなかった。
その沈黙が、なぜか一番怖かった。
やがて。
静かに言葉が落ちる。
「……いずれ、その可能性は高いかと」
断定ではなかった。
でも。
余計に現実だった。
「……そう」
月乃はそれだけ言うのが精一杯だった。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
今まで“当たり前”だった世界が、少しずつ形を変えていく。
暁人と並んで歩く廊下。
琴の音を聴いてくれる時間。
庭で笑い合う瞬間。
それが全部。
どこかへ行ってしまう気がした。
「姫様は……」
言いかけてやめる。
暁人は視線を落としていた。
月乃の顔を見ようとしない。
どうしてだろう。
最近の暁人は、時々こんな顔をする。
何かを考えているような。
何かを諦めているような。
けれど月乃には、その理由が分からない。
「……寒いので、戻りましょう」
優しい声だった。
なのに。
なぜだろう。
少しだけ遠く感じた。
「暁人」
呼ぶと、暁人の足が止まる。
「……まだ、一緒にいられるよね」
暁人は振り返らなかった。
ほんの少しだけ間があって。
「もちろんです」
穏やかな声。
いつもと同じはずなのに。
まるで。
何かが少しずつ遠ざかっていくようで。




