1 姫君
夢は、途切れなかった。
熱に浮かされながら。
月奈は、ずっと月乃の時間を見ていた。
⸻
夏の日だった。
庭の木陰で、月乃は頬を膨らませている。
「また兄上ばっかり」
目の前では、朝頼と暁人が何か難しい話をしていた。
最近、二人はこういう時間が増えた。
月乃には分からない言葉ばかりだ。
「月乃」
朝頼が苦笑する。
「そんな顔をするな」
「だってつまらない」
月乃がそっぽを向くと、朝頼は呆れたように笑った。
「暁人、少し付き合ってやれ」
暁人の表情が、一瞬だけ止まる。
なぜか分からないけれど、月乃はその顔が少し気になった。
「……ですが」
「いいから」
朝頼は分かっているのだ。
月乃が、暁人の前でしかこんな顔をしないことを。
暁人は小さく息を吐いた。
「少しだけですよ」
その声だけで、月乃はすぐ機嫌を直す。
「ほんと?」
ぱっと笑う。
その笑顔を見て、暁人の目が、少しだけ柔らかくなった。
廊下を並んで歩く。
風鈴の音が遠くで鳴っていた。
「兄上、最近忙しいね」
「もうすぐ元服ですから」
「げんぷく?」
月乃が首を傾げる。
暁人は少しだけ笑った。
「大人になるということです」
「ふうん」
月乃には、まだよく分からない。
でも。
最近、少しずつ変わっていく空気だけは感じていた。
朝頼は忙しくなった。
屋敷の人たちは、月乃へ前より丁寧になった。
そして。
暁人は時々、少し遠い顔をする。
「……暁人?」
呼ぶと、暁人はすぐにいつもの顔へ戻った。
「どうしました」
「なんでもない」
月乃は首を振る。
本当は、その“遠い顔”を見るたび、少しだけ胸が苦しかった。
理由は分からない。
ただ。
暁人が遠くへ行ってしまいそうで。
それが少しだけ嫌だった。
◇
秋だった。
月乃の前に、琴が置かれる。
「今日からお稽古を始めます」
女房が穏やかに言った。
月乃は少しだけ顔をしかめる。
「難しい?」
「姫様次第ですよ」
くすりと笑う声。
その隣にいた少女が、静かに頭を下げた。
「本日よりお側へ上がります、蛍と申します」
月乃より少し年上だろうか。
長い髪と、落ち着いた目をした少女だった。
「ほたる?」
「はい」
月乃がじっと見つめると、蛍は少し困ったように笑った。
「どうかなさいましたか」
「綺麗な名前」
蛍が少し驚いた顔をする。
けれどすぐに、柔らかく目を細めた。
「ありがとうございます」
◇
琴は難しかった。
「もうやだ……」
月乃が突っ伏す。
すると蛍が小さく笑った。
「姫様は飽きるのが早すぎます」
「だって指痛い」
「ですが、先ほどよりずっと上手くなっていましたよ」
「ほんと?」
月乃が顔を上げる。
蛍は頷いた。
「音が綺麗でした」
その言葉に、少しだけ嬉しくなる。
もう一度、琴へ触れようとした時だった。
廊下の向こうに、人影が見えた。
暁人。
月乃の顔が明るくなる。
「暁人!」
声を上げると、暁人は少し驚いたように足を止めた。
「お稽古中では」
「休憩!」
即答すると、蛍が小さく吹き出す。
「姫様」
月乃は気にしない。
「聞いて、琴やってるの」
そう言うと、暁人の視線が琴へ落ちる。
「……そうですか」
静かな声。
なぜだろう。
少しだけ嬉しそうに見えた。
「まだ下手だけど」
「月乃様は、音を覚えるのが早いですから」
「分かるの?」
月乃が首を傾げる。
すると暁人は、ほんの少しだけ笑った。
「好きな音なので」
その瞬間。
月乃の胸が、なぜか大きく跳ねた。
暁人は、朝臣の乳兄弟です。




