3 御簾の向こう側
それでも日々は、静かに続いていった。
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月乃は琴の稽古に精を出していた。
暁人は変わらず、時々その音を聴きに来る。
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ただ。
少しだけ、距離は空いたままだった。
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◇
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夕暮れの部屋。
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ぽろん、と琴の音が落ちる。
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「……ここ、また違う」
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蛍が静かに言った。
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『指の運びが少し固いですね』
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「むずかしい」
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月乃は唇を尖らせる。
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けれど、やめたいとは思わなかった。
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昔なら、とっくに投げ出していたはずなのに。
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最近は違う。
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上手くなりたい。
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その理由を考えるたび、ある人の顔が浮かぶ。
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その日も。
月乃は何度も御簾の向こうへ視線を向けていた。
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けれど。
いつまで経っても人影は現れない。
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気づけば、空は茜色に染まっていた。
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「……来ない」
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ぽつりと零れた声に、蛍が顔を上げる。
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『どなたがですか?』
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「な、何でもない」
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慌てて首を振る。
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蛍は何も言わなかった。
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ただ少しだけ微笑んでいた気がした。
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その翌日。
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廊下を歩いていた月乃は、ふいに足を止めた。
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向こうから暁人が来る。
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たったそれだけなのに。
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胸の奥が、少しだけ軽くなった。
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「暁人」
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呼ぶと、暁人が足を止める。
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『月乃様』
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いつもの声。
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いつもの呼び方。
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それなのに、なぜだろう。
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昨日会えなかっただけで、こんなにも嬉しい。
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「昨日、来なかったね」
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口にした瞬間、自分で驚いた。
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責めるつもりなんてなかったのに。
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まるで待っていたみたいだ。
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暁人も少し驚いたようだった。
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『申し訳ありません』
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「別に、謝ってほしいわけじゃなくて……」
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言葉がしぼんでいく。
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暁人は何か言いかけて、やめた。
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そして。
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『今度、お聴かせください』
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静かな声でそう言った。
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たったそれだけなのに。
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胸が、ふわりと温かくなる。
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「うん」
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自然と笑みがこぼれた。
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その笑顔を見て。
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暁人はほんの少しだけ目を細める。
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最近。
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暁人のことを考える時間が増えた。
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会えないと寂しくて。
会えると嬉しい。
そんな日々が、しばらく続いた。
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◇
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季節は静かに流れていった。
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琴の音は変わらず庭へ落ちる。
暁人も、変わらずそこにいた。
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――そう思っていた。
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その日も夕暮れだった。
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月乃は琴の前に座っている。
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けれど。
いつもならあるはずの気配がなかった。
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御簾の向こうを見ても、誰もいない。
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「あれ……」
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ただそれだけなのに。
胸の奥が少しだけ落ち着かない。
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気のせいだと思った。
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今日だけかもしれない。
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そう思いながら琴へ向き直る。
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けれど音はどこか定まらなかった。
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◇
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翌日。
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月乃はいつもより早く琴の前へ座っていた。
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また御簾の向こうを見る。
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誰もいない。
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昨日も来なかった。
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それだけなのに。
なぜだろう。
こんなにも気になる。
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ぽろん。
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指が少し滑った。
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『姫様?』
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「なんでもない」
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首を振る。
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その時だった。
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背後に、人の気配がした。
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聞き慣れた足音。
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月乃は振り返る。
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そこにいたのは、暁人だった。
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胸の奥が、ふっと軽くなる。
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「……来てるのに」
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思わず零れた言葉は、少しだけ拗ねていた。
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『申し訳ありません』
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「謝らなくていいのに」
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月乃は小さく笑う。
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すると暁人は琴へ視線を向けた。
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『少し、音が乱れていました』
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「え?」
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『ですが、ほんの少しです』
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静かな声。
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月乃は少し考えてから笑った。
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「暁人って、本当に分かるんだね」
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すると。
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『……好きな音ですから』
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その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。
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「じゃあ、もっと上手くなる」
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琴へ手を伸ばす。
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その時。
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暁人が一歩前へ出た。
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御簾越しではなく。
少しだけ近い場所へ。
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月乃は思わず瞬きをする。
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「……近くない?」
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暁人は少しだけ視線を逸らした。
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『その方が、よく聞こえます』
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理由になっていない気がした。
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でも。
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なぜだか、それ以上聞けなかった。
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ぽろん。
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琴の音が夕暮れへ溶けていく。
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近いはずなのに。
触れることはできない距離。
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それでも。
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月乃は少しだけ嬉しかった。




