4 忘れているもの
部員たちが少しずつ帰り始める。
椅子を引く音。
鞄を持つ音。
窓の外では雨が強くなっていた。
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「じゃ、月奈。また明日」
光希が鞄を肩にかける。
「おつかれ」
「課題決まったら教えて」
「気が向いたら」
「教える気ないじゃん」
光希は笑いながら手を振った。
ぱたん、と扉が閉まる。
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美術室は急に静かになった。
残っているのは数人だけ。
みんなそれぞれ自分の作業に集中している。
なのに。
少し離れた席にいる朔夜の存在ばかり気になった。
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月奈は何となくコンクールのプリントを見つめる。
自由課題。
描きたいもの。
思い浮かぶのは、見たことのない景色ばかりだった。
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「順調か?」
不意に声がした。
顔を上げると、朔夜がこちらを見ている。
「一応、描くものは決まったんですけど」
月奈は苦笑した。
「思ったより難しそうで」
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「夢の景色か」
月奈は目を丸くした。
「なんで分かるんですか」
「なんとなく」
「適当じゃないですか」
「当たっただろ」
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しばらく沈黙が落ちる。
窓を叩く雨音だけが響いていた。
その静けさが妙に落ち着かなかった。
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「神谷」
「はい」
「最近、夢は?」
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「最近は……」
少し迷ってから言葉を続ける。
「前よりはっきりしてきたかも」
「どんなふうに」
「分かんない」
月奈は首を振る。
「顔とかは見えないんだけど」
「うん」
「感情だけ残るの」
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懐かしい。
苦しい。
泣きたい。
会いたい。
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説明できない感覚だった。
自分でもよく分からない。
けれど夢から覚めた後、その感情だけが胸に残る。
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「変かな」
小さく呟く。
朔夜は少しだけ黙った。
「変じゃない」
返ってきた声は静かだった。
「感情だけ先に残ることもある」
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月奈は少し驚く。
光希なら笑う。
朝陽なら気にしすぎだと言う。
でも朔夜は否定しなかった。
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「なんか」
月奈はぽつりと言う。
「少し怖くて…」
自分でも意外な言葉だった。
けれど本音だった。
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「夢なのに?」
朔夜が聞く。
「うん」
月奈は頷く。
「大事なことを忘れてる気がする」
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言った瞬間。
朔夜の表情が僅かに揺れた。
本当に一瞬だけ。
見間違いかもしれないくらい小さく。
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「……そっか」
それだけ言う。
その声は少し優しかった。
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窓の外で空が光った。
数秒遅れて雷が鳴る。
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「っ」
月奈の肩が大きく震えた。
無意識だった。
自分でも驚くほど身体が強張る。
「神谷」
低い声がする。
顔を上げると、朔夜がこちらを見ていた。
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「……大丈夫か」
「だ、大丈夫」
反射的に答える。
けれど声が少し震えていた。
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朔夜は小さく息を吐く。
「相変わらずだな」
「うるさいです」
月奈は思わずむくれる。
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「小さい頃から苦手だっただろ」
「覚えてなくていいです」
「無理だろ」
即答だった。
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月奈は少しだけ頬を膨らませる。
朝陽と朔夜と一緒に遊んでいた頃。
雷が鳴るたびに泣きそうになっていたことを思い出した。
できれば忘れていてほしかった。
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窓の外で、もう一度空が光る。
月奈は思わず肩をすくめた。
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朔夜は何も言わない。
ただ静かに窓の外を見ている。
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その横顔を見ながら、月奈はふと思う。
どうしてだろう。
最近、この人といると落ち着かない。
夢を見るたびに。
白昼夢を見るたびに。
気づけば朔夜の顔を思い出している。
それがどういう意味なのかは、まだ分からなかった。
___
コンクールの締め切りまで、一か月を切っていた。
美術室では、それぞれの作品作りが本格的に始まっている。
放課後になると、部員たちは自然と自分の制作に集中していた。
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「月奈、それ何?」
光希が後ろから覗き込む。
月奈は慌ててスケッチブックを閉じた。
「見ないで」
「怪しい」
「怪しくない」
「絶対怪しい」
光希は楽しそうに笑う。
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「別に大したものじゃないし」
月奈は観念してスケッチブックを開いた。
描かれているのは庭だった。
どこかの日本庭園。
けれど実際に見た景色ではない。
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「綺麗じゃん」
光希が素直に言う。
「どこ?」
「知らない」
「知らない?」
「行ったことないし」
自分でも変だと思う。
でも、頭の中には確かにある景色だった。
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池のほとり。
風に揺れる木々。
遠くに見える建物。
どこか懐かしい景色。
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「夢?」
光希がぽつりと言う。
月奈は少しだけ驚いた。
「なんで分かったの」
「何となく」
光希は肩をすくめる。
「月奈が描く時の顔、いつもと違うから」
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月奈は少し照れくさくなって視線を逸らした。
その時だった。
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「神谷」
聞き慣れた声がする。
振り向くと、朔夜が立っていた。
「何ですか」
「見せて」
「嫌です」
「何で」
「恥ずかしいから」
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朔夜は少しだけ笑った。
「別に下手だとは思わない」
「そういう問題じゃないです」
「じゃあ何」
「何となくです」
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光希が吹き出した。
「東雲先輩、月奈には厳しいよね」
「そう?」
朔夜が首を傾げる。
「そうですよ」
月奈は即答した。
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朔夜は少し考えてから、
「気づかなかった」
と真顔で言う。
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「気づいてください」
「無理」
「なんでですか」
「神谷だから」
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一瞬、美術室が静かになる。
光希が何かを堪えるように肩を震わせた。
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「ちょっと」
月奈が抗議する。
「意味分かんないんですけど」
「そうか」
朔夜は本当に分かっていない顔だった。
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その様子がおかしくて、光希がついに吹き出す。
「だめ、無理」
「何笑ってるの」
「ごめんごめん」
全然反省していなかった。
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窓の外では、夕日が少しずつ傾いていく。
オレンジ色の光が美術室を染めていた。
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月奈は再びスケッチブックへ視線を落とす。
夢の景色。
知らないはずの場所。
でも、不思議と手は迷わなかった。
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さらさらと鉛筆を走らせる。
描くたびに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
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まるで、本当に知っている場所を描くみたいに。




