3 夢の景色
美術室には、鉛筆の音だけが響いていた。
窓の外は夕焼けで、オレンジ色の光が机の上に落ちている。
月奈はスケッチブックを前にしたまま、小さく伸びをした。
「つかれた……」
「そうだね」
向かいで光希が笑う。
月奈は机に突っ伏した。
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「そういえばさ」
光希がふと思い出したように口を開く。
「東雲先輩って、昔るなって呼んでなかった?」
月奈の動きが止まる。
「……え?」
「小学生くらいの時。月奈んちでゲームしてた時とか」
その瞬間。
少し離れた場所でデッサンしていた朔夜の手が、ほんのわずかに止まった。
でも顔は上げない。
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「……あー」
月奈はなんとなく頬杖をついた。
「高校入ってから変わった」
「なんで?」
「同じ部活だからだって」
光希は首を傾げる。
「それだけ?」
「後輩一人だけ特別扱いしたくないんじゃない?」
月奈は軽い調子で言った。
それは実際、朔夜本人から聞いた理由だった。
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『同じ部活だし』
高校に入ったばかりの頃。
月奈が「なんで急に神谷なの」と聞いた時、朔夜はそう答えた。
『後輩一人だけ特別扱いすると、周りも気を使うだろ』
静かな声だった。
納得できる理由だった。
だから月奈も、それ以上聞かなかった。
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「へえー」
光希はまだ少し不思議そうだった。
「まあ、東雲先輩真面目そうだもんね」
「そういうとこある」
月奈が笑う。
その時。
「神谷」
朔夜が不意に名前を呼んだ。
「はいはい」
「そこ、また影ズレてる」
「えっ」
月奈は慌ててスケッチブックを見る。
光希が吹き出した。
「また見られてるじゃん」
「視界に入るから」
朔夜は淡々と言う。
「はいはい」
光希は完全に面白がっていた。
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月奈は少しむっとしながら消しゴムを動かす。
でも、内心では分かっていた。
朔夜は昔からこうだ。
必要以上に優しくはしない。
でも、ちゃんと見ている。
気づけばいつも、少しだけ先にいる。
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窓の外から風が吹き込む。
カーテンがふわりと揺れた。
月奈はふと顔を上げる。
夕焼けに染まる空。
どこか懐かしい色だった。
理由は分からない。
ただ。
誰かを待っていたような気がした。
遠い昔に。
そんなはずはないのに。
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「月奈?」
光希の声に、はっとする。
「……なに?」
「今度は何考えてたの」
「別に」
月奈は小さく笑った。
最近、自分でも分からないことが増えている。
夢のこと。
時々胸をよぎる違和感。
そして――
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るな。
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そう呼ばれていた頃もあった。
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今は神谷。
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自分も東雲先輩と呼んでいるのだから、お互い様だ。
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特に気にしたこともなかった。
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なのに。
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なぜだろう。
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光希に言われてから、その呼び方が少しだけ頭に残っていた。
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六月に入って、雨の日が増えた。
湿った空気のせいで、美術室にはいつもより濃く絵の具の匂いが漂っている。
窓の外では、細かな雨が静かに降っていた。
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「月奈、そのリンゴ歪んでない?」
向かいから光希の声が飛んでくる。
「気のせい」
「いや歪んでる」
「気のせいだって」
光希が吹き出した。
「往生際悪いなー」
月奈は不満そうに口を尖らせる。
こうして他愛もない話をしながら絵を描いている時間は嫌いじゃなかった。
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その時、美術室のドアが開く。
「おーい」
顧問の先生だった。
部員たちが顔を上げる。
「今度のコンクール、今年も出すからな」
教室が少しざわついた。
「きた」
「もうそんな時期?」
「早くない?」
それぞれ好き勝手な反応を返す。
先生は笑いながらプリントを配り始めた。
「テーマは自由。締め切りは来月末」
「自由が一番困るんだよなあ」
誰かがぼやく。
あちこちで笑いが起きた。
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月奈も受け取ったプリントを見下ろす。
自由課題。
好きなものを描いていい。
そう言われると逆に難しい。
「何描く?」
光希が覗き込んでくる。
「まだ全然」
「私は決めてる」
「早」
「天才だから」
「自分で言う?」
光希は得意げに笑った。
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「神谷」
不意に呼ばれて顔を上げる。
少し離れた席にいた朔夜だった。
「神谷は何描くんだ」
「まだ決めてないです」
「描きたいものは?」
突然聞かれて、月奈は首を傾げる。
「うーん……」
考えてみる。
好きな景色。
好きなもの。
描きたいもの。
でも、なぜだろう。
頭に浮かぶのは、見たことのない景色ばかりだった。
風に揺れる簾。
月明かり。
広い庭。
夢の中で見たような景色。
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「神谷?」
朔夜の声で我に返る。
「あ、ごめん」
「思いついた?」
「いや……」
月奈は苦笑した。
「なんか変な景色しか浮かばなくて」
「変な景色?」
「見たことないはずなんだけど、懐かしい感じ」
言いながら、自分でも変だと思う。
でも朔夜は笑わなかった。
「そういうのもいいんじゃない」
静かな声だった。
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月奈は少し驚く。
「変じゃない?」
「絵なんだから」
朔夜は肩をすくめた。
「好きに描けばいい」
それだけ言って、自分のスケッチブックへ視線を戻す。
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月奈は手元のプリントを見つめた。
好きに描けばいい。
簡単な言葉なのに、不思議と胸に残る。
夢の景色なんて描いたことはない。
けれど。
もし描くなら――。
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「月奈」
光希が身を乗り出してくる。
「今なんかいい顔してた」
「え?」
「テーマ決まった?」
月奈は少しだけ考えて、それから笑った。
「……まだ秘密」
「うわ、言わないやつだ」
「言わない」
光希が不満そうな顔をする。
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窓の外では雨が降り続いている。
静かな午後だった。
夢の景色を描いてみようかな。
月奈は初めて、そう思った。




