2 夢の中の名前
その夜、月奈はまた夢を見た。
⸻
庭に風が吹いている。
幼い月乃は、両手いっぱいに花を抱えていた。
『暁人!』
呼ぶと、少し離れた場所にいた少年が振り返る。
『どうしました』
『見て』
月乃は得意げに花を差し出した。
『綺麗でしょう?』
暁人は花を見て、それから月乃を見る。
『ええ。綺麗です』
『もっと褒めて』
『十分褒めたつもりですが』
『足りない』
月乃が頬を膨らませる。
すると暁人は少し困ったように笑った。
『では、月乃様がお選びになった花は、とても美しいです』
『花だけ?』
『……』
『花だけ?』
『月乃様』
『ふふっ』
月乃は楽しそうに笑う。
暁人は呆れたような顔をしながらも、その目はどこか優しかった。
⸻
場面が変わる。
今度は縁側だった。
月乃は隣に座る暁人を見上げる。
『暁人』
『はい』
『明日も来る?』
『来ますよ』
『明後日も?』
『来ます』
『その次も?』
『来ます』
月乃は満足そうに笑った。
『よかった』
その言葉に、暁人は少しだけ目を細める。
春の風が吹く。
陽だまりの中で、二人は並んで座っていた。
⸻
「――っ」
月奈は勢いよく目を覚ました。
胸の奥が、妙に温かかった。
「……あきひと?」
自分の口から出た名前に、月奈は固まる。
知らない名前。
なのに、なぜか懐かしい。
⸻
翌朝。
月奈は珍しくぼんやりしたまま朝食を食べていた。
「月奈、魂抜けてるぞ」
朝陽が笑う。
「寝不足?」
「ちょっと……」
「また夢?」
図星だった。
月奈が黙ると、朝陽は「あー」という顔をする。
「昔からだよな。お前」
「そんなに?」
「小さい頃、よく泣いてたぞ」
「え」
「夢見たって」
忘れていた。
月奈が驚いていると、朝陽が時計を見て立ち上がる。
「そろそろ行くか」
「あ、もうそんな時間?」
慌てて牛乳を飲み干す。
朝陽は苦笑した。
「だから朝は余裕持てって」
「言われなくても分かってる」
「毎回言ってる気がするけどな」
⸻
玄関を出ると、家の前には見慣れた姿があった。
東雲朔夜。
壁にもたれながら、スマホを見ている。
月奈たちに気づくと顔を上げた。
「おはよう」
「おはよ、朔夜」
朝陽が気軽に返す。
⸻
その瞬間。
月奈の胸がまたざわついた。
ついさっきまで見ていた夢。
陽だまりの縁側。
穏やかな声。
優しく笑う少年。
⸻
『明日も来る?』
『来ますよ』
⸻
夢の余韻が、まだ消えていない。
⸻
「月奈?」
朝陽に呼ばれて我に返る。
「え?」
「まだ寝てる?」
「寝てないし」
慌てて答えると、朝陽は呆れたように笑った。
⸻
三人で歩き始める。
いつもの通学路。
いつもの朝。
なのに月奈だけが、どこか落ち着かなかった。
「今日一限なんだっけ?」
「現文」
「うわ、眠いやつ」
「朝陽いつも眠そう」
「それな」
二人は笑っている。
普通の会話。
普通の朝。
なのに月奈だけが、どこか落ち着かない。
⸻
ふと、朔夜がこちらを見る。
「神谷」
「……なに」
「顔色悪い」
「寝不足なだけ」
「夢?」
その言葉に、月奈の足が止まりそうになる。
どうして。
どうしてこの人は、そんなふうに当ててくるんだろう。
「……なんで分かるの」
朔夜は少しだけ目を細めた。
その目が、朝の光を受ける。
一瞬。
眼鏡の奥が見えた気がした。
胸が大きく跳ねる。
頭の奥で、知らない景色が揺れた。
長い廊下。
風。
琴の音。
『暁人』
誰かの声がする。
月奈は思わず立ち止まった。
「月奈?」
朝陽の声で、現実に引き戻される。
気づけば朔夜がこちらを見ていた。
静かな目だった。
でもその奥に、何かを隠している気がした。
____
夢の感触だけが、ずっと残っていた。
風の匂い。
衣擦れの音。
誰かの声。
そして――あの目。
⸻
昼休み。
月奈は机に突っ伏したまま、小さくため息をついた。
「重症じゃん」
隣で、光希が呆れたように言う。
「そんなに寝不足?」
「……夢見ただけ」
「また?」
月奈は曖昧に頷く。
最近、夢が妙にリアルだった。
前はぼんやりしていたのに、今は感情まで残る。
目が覚めても、夢の余韻だけが消えない。
⸻
「どんな夢?」
光希がパンをかじりながら聞く。
「……着物着てる」
「また平安」
「あと庭」
「うん」
「それで……誰かいる」
「男?」
月奈は少し迷ってから頷いた。
「顔は見えないんだけど」
「でもいるんだ」
「……うん」
それだけは分かる。
姿は曖昧なのに。
声も顔も思い出せないのに。
その人がいると分かる感覚だけが残っている。
⸻
「恋じゃん」
「違うし!」
月奈が即座に否定すると、光希が笑った。
「夢の中の男に嫉妬されたら面白いのに」
「だから違うって」
「じゃあ何?」
「……分かんない」
本当に分からなかった。
懐かしいのに。
胸が少し苦しくなる。
そんな感覚だけが残っている。
⸻
放課後。
美術室には静かな空気が流れていた。
紙を擦る音。
鉛筆の音。
窓の外から聞こえる運動部の掛け声。
月奈はスケッチブックに向かったまま、ぼんやりと手を動かしていた。
「月奈」
向かいの席から光希が声をかける。
「今日ほんとに元気ないね」
「そんなことない」
「ある」
即答だった。
「夢のせい?」
「……たぶん」
光希は少しだけ眉を上げる。
何か言いかけた、その時だった。
⸻
「神谷」
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、朔夜が立っている。
「うわっ」
「驚きすぎ」
「急に声かけないで下さい」
「呼んだだけ」
その言い方が妙にずるい。
光希がくすくす笑った。
「東雲先輩、月奈びびらせるの好きですよね」
「別に」
即答だった。
⸻
朔夜は月奈のスケッチブックへ視線を落とす。
「ここ」
そう言って、一か所を指差した。
「影の向き違う」
「え?」
月奈が慌てて覗き込む。
確かに少し不自然だった。
「ほんとだ……」
「光の位置考えれば分かる」
「分かってたし」
「分かってないからそうなってる」
「うっ…」
朔夜が少しだけ笑う。
月奈はむっとした。
⸻
消しゴムを取ろうとして、同時に手が伸びた。
指先が触れる。
⸻
その瞬間。
景色が揺れた。
⸻
夜。
冷たい風。
月明かり。
誰かの袖を掴んでいる。
『……どうして』
震える声。
自分の声だった。
苦しい。
悲しい。
泣きたい。
目の前には誰かがいる。
顔は見えない。
でも。
その人が、とても大切な人だと分かる。
『月乃様』
優しい声。
泣きそうな声。
『私は――』
⸻
「神谷」
低い声が聞こえた。
はっと顔を上げる。
美術室だった。
目の前には朔夜がいる。
ほんの一瞬だったはずなのに、心臓が激しく鳴っていた。
「大丈夫?」
朔夜が少し眉を寄せる。
「……うん」
うまく息ができない。
怖いわけじゃない。
けれど。
この人に触れると、何かを思い出してしまいそうだった。
⸻
朔夜は何も聞かなかった。
ただ静かに月奈を見る。
その視線が落ち着かない。
まるで。
ずっと待っていたみたいな目だった。
⸻
「月奈?」
光希が不思議そうに覗き込む。
「顔赤いけど」
「え」
「熱?」
「違う!」
慌てて否定すると、光希はちらりと朔夜を見る。
それから意味ありげに笑った。
「ふーん?」
「その顔やめて」
「別にー?」
絶対何か勘違いしている。
⸻
朔夜は小さく息を吐いて、自分の席へ戻っていく。
その背中を見ながら、月奈は胸元を押さえた。
まだ鼓動が落ち着かない。
知らないはずなのに。
どうしてだろう。
あの声も。
あの眼差しも。
ずっと昔から知っている気がした。




