9 答え
放課後。
「今日はちゃんと描きなよ」
教室を出ながら、光希が言った。
「描くって」
「昨日も聞いた」
「そうだっけ?」
そんなやり取りをしながら、二人で美術室へ向かう。
扉を開ける。
「失礼しまーす」
光希の声が響く。
いつもと変わらない美術室。
窓から差し込む夕陽。
絵の具の匂い。
部員たちの話し声。
月奈は自分の席へ向かった。
キャンバスを見つめる。
月明かりの庭。
木々の影。
石灯籠。
白く照らされた小径。
そして。
まだ描きかけの人影。
何度も手を止めた場所だった。
描こうとすると迷う。
違う気がして、何度も消してしまう。
月奈は鉛筆を持った。
少しだけ考える。
それから。
そっと線を引いた。
「……」
止まらない。
もう一本。
さらに一本。
少しずつ。
本当に少しずつ。
人影の輪郭が、形になっていく。
「……あ」
思わず声が漏れた。
描けている。
完璧ではない。
まだ迷いもある。
けれど、昨日までとは違った。
「お」
隣から光希が覗き込む。
「進んでるじゃん」
「少しだけね」
月奈は照れくさそうに答えた。
「昨日まであんなに悩んでたのに」
「まあ……」
それは否定できなかった。
その時だった。
「進んでるな」
不意に声がした。
顔を上げると、朔夜が立っていた。
眼鏡の奥の目が、キャンバスを静かに追っている。
「少しだけです」
「十分だろ」
朔夜はキャンバスを見つめたまま言う。
「少しでも進んだなら」
その言葉に、月奈はもう一度絵を見た。
まだ完成には遠い。
けれど、昨日よりは前に進んでいた。
「……そうですね」
月奈が答えると、朔夜は小さく頷いて、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送りながら、光希がぽつりと言う。
「ほら」
「何が」
「東雲先輩のおかげじゃん」
月奈は目を瞬いた。
「違うと思うけど」
「そう?」
光希は面白そうに笑って、それから少しだけ声を落とした。
「気になることは、今のうちに確かめといたほうがいいよ」
いつもの軽い調子とは、少し違って聞こえた。
月奈は思わず視線を逸らした。
違う。
……多分。
そう思ったのに、ふと昨日のことが頭に浮かんだ。
『焦らなくていいと思う』
静かな声。
帰り道。
夕暮れの横顔。
「月奈?」
光希の声で我に返る。
「何でもない」
慌てて答える。
月奈はキャンバスを見る。
月明かりの庭。
描きかけの人影。
描こうとするたび、自然と思い浮かぶ顔がある。
そのことに気づいて、月奈は小さく眉を寄せた。
「……なんでだろ」
呟いた声は、誰にも届かなかった。
◇
その夜。
月奈はベッドに寝転びながら、天井を見上げていた。
部活のこと。
絵のこと。
そして。
『東雲先輩のおかげじゃん』
光希の言葉。
何度も頭の中で繰り返される。
「違うと思ったんだけどな……」
小さく呟く。
けれど。
本当にそうだろうか。
目を閉じる。
浮かぶのは、今日のことだった。
『少しでも進んだなら』
静かな声。
眼鏡の奥の、優しい眼差し。
帰り道。
美術室。
雨の日。
思い出そうとしなくても、次々と浮かんでくる。
そして気づく。
いつも。
そこには朔夜がいた。
不安だった時も。
悩んだ時も。
嬉しかった時も。
前世のことを思い出してからも。
ずっと。
月奈はゆっくり目を開けた。
前世で、月乃は暁人を想っていた。
それは確かだ。
苦しくなるほど。
会いたいと願うほど。
大切だった。
けれど。
今。
自分が会いたいのは誰だろう。
話したいのは。
隣にいたいのは。
絵を見てほしいのは。
頑張ったことを伝えたいのは。
誰だろう。
答えは、驚くほど簡単だった。
朔夜だった。
「……あ」
声が漏れる。
今さらだった。
夢の話を聞いてほしかったのも。
前世を思い出して不安だった時も。
美術室で隣にいてほしかった時も。
気づけば、いつも朔夜を探していた。
前世の暁人と、今の朔夜は、同じ人かもしれない。
けれど。
月奈が好きになったのは、前世の記憶だけじゃない。
ずっと一緒に過ごしてきた、今の朔夜だ。
胸の奥が熱くなる。
恥ずかしい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ。
ようやく答えが見つかった気がした。
月奈は枕に顔を埋める。
「好きなんだ……」
誰にも聞こえない声。
けれど、その言葉は、確かに月奈自身の答えだった。




