8 描けない人影
放課後。
「帰るぞー」
鞄を肩にかけながら、光希が立ち上がる。
月奈は顔を上げた。
「だから部活」
「あ」
光希は一瞬だけ真顔になる。
「じゃあ美術室行くぞー」
「最初からそう言って」
光希は楽しそうに笑った。
二人は並んで教室を出る。
廊下を歩く。
放課後の校舎は、少し静かだった。
美術室が近づく。
それだけで、なぜか落ち着かなくなる。
(ほんと、どうしたんだろう……)
自分でもよく分からない。
光希が先に扉を開く。
「失礼しまーす」
月奈も後に続く。
いつもの美術室。
絵の具の匂い。
窓から差し込む夕方の光。
そして。
窓際の席に座る朔夜。
顔を上げた朔夜と、眼鏡越しに目が合った。
その瞬間、胸がどくりと鳴る。
「神谷」
いつも通り名前を呼ばれる。
「お疲れ様です」
普通に返せた。
少しだけ安心する。
朔夜は小さく頷いた。
「お疲れ」
それだけだった。
月奈は自分の席へ向かう。
キャンバスを立てる。
コンクール用の作品。
描き始めたのは、まだ最近だ。
月明かりに照らされた庭。
池の水面。
揺れる木々。
そして。
庭の奥に立つ、一人の人影。
夢で見た景色だと思って描き始めた絵だった。
けれど、今は違う。
月奈は知っている。
あれは夢じゃなかった。
自分が見た記憶だった。
月乃が。
暁人を見つけた夜の景色だった。
鉛筆を持つ。
けれど、なかなか手が動かない。
その時だった。
ふと顔を上げる。
少し離れた席。
朔夜は、デッサンに集中していた。
真剣な横顔。
黒縁眼鏡の奥の視線は、紙の上だけを見ている。
長い指。
静かに鉛筆を走らせる姿。
昔から見慣れているはずなのに、なぜか目が離せなかった。
その時。
朔夜が顔を上げる。
目が合った。
「っ」
月奈は慌ててキャンバスへ視線を戻した。
心臓がうるさい。
(何やってるんだろう……)
隣から、小さなため息が聞こえた。
「月奈」
光希だった。
「なに」
「絵」
言われてキャンバスを見る。
さっきからほとんど変わっていなかった。
「あ……」
光希が呆れたように笑う。
「全然進んでないじゃん」
「……」
「今日ほんとどうしたの」
月奈は返事に詰まった。
うまく話せない。
うまく見られない。
落ち着かない。
どうしてなのか、答えはまだ見つからない。
けれど。
キャンバスの中で月明かりに照らされた人影は、もう暁人だけには見えなかった。
光希は自分の作品へ戻った。
「ちゃんと描きなよ」
最後にそう言い残して。
月奈は小さく頬を膨らませる。
「描いてるし……」
誰にも聞こえないくらいの声だった。
鉛筆を持つ。
人影に少し線を足そうとして――止まる。
「……」
描けない。
顔を知っているはずなのに。
思い出せないわけじゃない。
むしろ鮮明なくらいだ。
それなのに、なぜか手が動かなかった。
「手、止まってるな」
突然、横から声がした。
「ひゃっ!」
月奈は思わず肩を跳ねさせた。
振り向く。
そこにいたのは朔夜だった。
「東雲先輩!」
「そんな驚くか」
少し呆れたような声。
月奈は胸を押さえた。
「驚きますよ」
「そうか?」
「そうです」
朔夜は小さく笑った。
その笑い方に、少しだけ肩の力が抜ける。
さっきまでの緊張が、ほんの少しだけ和らいだ。
朔夜はキャンバスへ視線を向ける。
「どうだ」
「どうだって……」
「進みそうか」
月奈は言葉に詰まる。
「……あんまり」
正直に答えた。
朔夜は「そうか」とだけ返す。
それ以上は何も聞かない。
けれど、しばらく絵を見ていた朔夜が、不意に言った。
「綺麗だな」
「え?」
月奈は顔を上げる。
朔夜の視線は、キャンバスに向いたままだった。
眼鏡のレンズに、月明かりの庭がうっすらと映っている。
「景色」
ただそれだけ。
特別なことは何も言わない。
けれど、月奈は小さく息を呑んだ。
この人は知っている。
この景色の意味を。
この夜のことを。
それでも何も言わない。
まるで大切に扱うみたいに、静かにしていてくれる。
「完成したら見てくださいね」
気づけば、そんなことを言っていた。
朔夜が少しだけ目を瞬く。
それから。
「楽しみにしてる」
穏やかに答えた。
そして、自分の席へ戻っていく。
月奈はしばらく、その背中を見送った。
やがて再びキャンバスへ向き直る。
月明かりの庭。
その奥に立つ人影。
鉛筆を持つ。
やっぱり、手は止まったままだった。
◇
部活が終わる頃には、空はすっかり夕暮れ色になっていた。
片付けを終えた月奈は、光希と一緒に昇降口へ向かう。
「あのあと進んだ?」
光希が聞く。
「聞かないで」
「進んでないんだ」
「だから聞かないで」
光希が楽しそうに笑う。
そんなやり取りをしながら、靴を履き替えた。
校門を出て少し歩いたところで。
「神谷」
後ろから声がした。
振り返る。
朔夜だった。
「東雲先輩」
光希が手を振る。
「お疲れ様です」
「お疲れ」
三人で少し歩く。
そして、いつもの分かれ道。
「あ、私こっち」
「また明日」
「うん、また明日」
光希は手を振りながら去っていった。
残されたのは二人。
夕暮れの住宅街へ続く道を、並んで歩く。
「それで」
朔夜が口を開いた。
月奈は顔を上げた。
「え?」
「あのあと進んだか」
一瞬、何のことか分からなかった。
けれど、すぐに気づく。
絵のことだ。
「……進んでません」
朔夜が少しだけ笑う。
「正直だな」
「本当に進んでないんです」
月奈は少しむくれる。
「描かなきゃとは思ってるんですけど」
「手が止まる?」
「うーん……」
月奈は少し考えた。
「前は夢だと思ってたから」
ぽつりと言う。
「でも今は違うから」
朔夜は何も言わない。
ただ静かに聞いている。
「だから何ていうか……」
言葉を探す。
「前より難しくなりました」
それが一番近かった。
朔夜は少しだけ目を細める。
「そうか」
否定もしない。
励ましもしない。
ただ受け止めるような声だった。
そのことに、月奈は少しだけ救われた気がした。
しばらく二人で歩く。
夕暮れの住宅街。
月奈はふと隣を見る。
朔夜は前を向いて歩いていた。
いつも通りの横顔。
その時、ふと思った。
そういえば、自分の絵の話ばかりしていた気がする。
「東雲先輩」
「ん?」
「コンクール、何描いてるんですか」
朔夜は少し考える。
「風景」
短い返事だった。
「風景?」
「近所の川。土手から見た夕方の」
月奈は少し意外に思った。
いや。
意外でもないかもしれない。
朔夜は昔から、静かな景色を描くことが多かった。
こうして絵の話をするのは、久しぶりだった。
前世の話でもない。
夢の話でもない。
ただの、美術部の先輩と後輩みたいな会話。
なのに、なんだか楽しかった。
「完成したら見せてくださいね」
月奈が言う。
すると朔夜は、少しだけ眉を上げた。
「月奈もだろ」
「……頑張ります」
自信はない。
特に人影が。
けれど、完成させたいとは思った。
「絵、焦らなくていいと思う」
朔夜が言う。
月奈は顔を上げた。
静かな声だった。
「……」
「月奈は考えすぎるから」
月奈は思わず足を止めそうになる。
「ひどい」
「事実だろ」
否定できない。
悔しい。
けれど、少しだけ笑ってしまった。
その時。
「着いたな」
顔を上げる。
見慣れた家が目の前にあった。
いつの間にか、家まで来ていたらしい。
「本当ですね」
月奈は小さく笑う。
「じゃあ」
少しだけ間が空く。
「また明日」
月奈がそう言うと、朔夜は小さく頷いた。
「ああ」
短いやり取り。
朔夜は軽く手を上げ、自分の家の方へ歩いていく。
月奈はその背中を見送りながら、ゆっくりと家の門をくぐった。




